冬の日
12月が中旬に差し掛かり一段と冷える季節になっていく。外に出ると肌を刺すような冷たい風が吹きまるで世界から攻撃を受けているような感覚に陥る。その寒さの痛みを感じると不意に兵庫県の西宮市の(それもある特定の地域の)町並みがぼんやりと頭の中に浮かび上がり郷愁の念に駆られることが時々ある。いつからそんな奇妙な郷愁を感じ始めたのかは明確な日付で言える。ちなみに私は東京生まれの東京育ちであり、都外へ旅行するのは一回か二回しか経験しておらずしかもそれらはいずれも関東圏の内側に留まっており、兵庫県の西宮市など足を運んだこともない。では何故冬の冷気のあの肌を刺すような痛みをきっかけに西宮市の町並みを想起するようになったかと言えばそれは間違いなく2010年の2月に公開されたとあるアニメ映画を観たからである。当時高校生だった私は立川のシネマシティでその作品を観た。きっかけはなく、暇つぶしで観に行ったに過ぎない。最前列に座り大きなスクリーンを見上げるかたちで観るという決して良い鑑賞環境ではなかったものの、その作品世界に魅せられた私は翌日また観に行くことになる。アニメーションなど全く知らず(そもそも当時アニメなど全く見ていなかった)当然その技術的な巧拙の評価なぞできはしない一青年だった私はそれでもただその作品に感動を覚えた。何に感動したのか。背景美術である。高畑勲的に言えばハイビジョン的解像度のクオリティーの背景美術に魅せられたのである。ロケハン写真をもとに描かれた背景のリアリスティックさは作品世界への没入感を促進させ当時現実に対して鬱屈とした感情を抱いていた青年を容易に現実逃避させるには充分だった。
映画に没入しあたかもその作品世界に居るかのような錯覚を与えはするがしかし決してそれは心地良いものではなかった。物語が進むにつれその作品世界はこちらに対し冷たくなっていき、こちらの侵入を拒むかのような態度を帯び始める。世界が主人公=鑑賞者(私)をそこに住む人々を通じて拒絶していく。事実主人公はメインヒロインの三人から直接的な暴力を振るわれることになる。後年、その作品世界をパロディ化しあたかも先の錯覚が心地良いものとして偽った作品がテレビアニメとして放映されたが、それは一つの世界線と言えば聞こえはいいが明らかな偽史を偽造する操作に過ぎず、あの居心地の悪さを忘却するものとして悪しき作品に仕上がってしまっている。
映画が主人公が目を覚ますところから始まり、目覚まし時計を止めるのをわざわざ主観のカットで描いてみせることから作り手は観客を主人公に同一化させあたかも主人公=観客であるかのように演出する。主人公の目を通し冬の冷気の肌を刺すような痛み、周囲の人間達から被る暴力を体験させられる。この映画は見ていて心地良い作品ではない。にも関わらず冷気の肌を刺す痛みを通じて郷愁として思い出されるあの世界はとても魅力的なのだ。あの居心地の悪さがある種の魅力として当時の私に響いたのは間違いない。現実逃避の場所としてそのような作品を選んでしまうこのねじれは一体なんなのだろうか。