乱歩と「見知らぬふるさと」名張。
note始める前の記録のため写真の時期などがバラバラです。
また、未整理の写真も多くあるのと名張にはよく行くので今後追記が多くなります。
名張と乱歩
日本の探偵小説の父とも言われる江戸川乱歩が生まれたのが、この三重県名賀郡名張町(現・名張市)です。
1894年(明治27年)10月21日に、名賀郡役所に書記として勤める平井繁雄と妻・きくの長男・平井太郎として生まれました。(本籍地は三重県津市)
平井家は武士の家柄で、祖父の代までは藤堂家の藩士として仕えていましたが、明治以降家産を失い、父・繁雄は苦労して関西法律学校を卒業し、名賀郡役所に就職しました。まもなく、本堂きくと結婚し、太郎(乱歩)を授かりました。
翌年6月には父の転勤に伴い、三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)に引越し、さらに明治30年には、東海紡績同盟会書記長となった父の仕事の都合で愛知県名古屋市に移っています。乱歩は生涯で46回の引越しをしましたが、その後名張に戻ることは一度もなく、乱歩の70年の人生のうち名張で過ごした日々は生後半年ほどのごく短い期間となっています。
自身が名張の出身である認識はあったので、40歳くらいの時に旅行途中に名張駅を降りて町を歩いてみたりしたそうですが、特に知り合いもいないので、そのまま何をするでもなく帰ったそうです。
しかし、戦後、探偵小説の再興を果たし、文壇の大御所となった乱歩は昭和27年9月に、デビュー前にお世話になった恩人である三重県上野出身の代議士・川崎克氏の二男・川崎秀二氏が衆議院議員選挙に出馬したため、その応援演説を引き受けたことをキッカケに名張の地を訪れます。
川崎克氏に関しては、以下の随筆の中で語っています。
また「参与官と労働代表」(昭和2年)の中でも、「僕を弟の様に面倒見てくれた。」「この人には気のつかぬ所で、可成影響を受けている。」と書いているので、自身の気質を厭人的だという乱歩がもつ正反対のもう一つの一面、社交性の部分は川崎氏の影響によるところもあるようです。
息子の秀二氏についても、雑誌『旅』昭和二十八年一月号に掲載された「ふるさと発見記」の中で「お伽噺を聞かせたり、海水浴に連れて行ったりして、おもりをした間柄」と回想している関係で、父親への恩義だけで演説を引き受けたわけでもなさそうです。
そんな間柄だからこそ、政治に関しては門外漢と思いながらも生まれて初めての選挙演説のために、各地(特に伊賀地方)を回ることにした乱歩。その演説地のひとつに名張も入っていたのです。
演説は、名張で一番大きな神社(宇流冨志禰神社)で行われました。
それまでに書いた随筆などで、乱歩が名張出身と知っている地元の人たちが沢山集まり、会場となった部屋に収まりきらず境内も人でいっぱいになったそうです。
その際、名張の人々に温かく迎えられ、生家に案内してもらったり、もてなされたことを「ふるさと発見記」に書き残しています。
名張は空襲の被害にあわなかったことから、今でも当時の建物が残されていて、この時乱歩が宿泊した料理旅館「清風亭」さんは、現在も営業中です。(現在は宿泊施設ではありません)名張に行くことがあれば、乱歩が好んだという「鯉こく」を味わってみるのもよろしいかと。
他にも「ふるさと発見記」には、名張の街並みや自然について観光案内的な視点で綴っていたり、宿泊先にファンが押し寄せサイン攻めになったことや、父の元職場を見に行ったり、桝田医院の前で記念撮影したり、岡村書店の店主から田山花袋の「名張少女(なばりおとめ)」をプレゼントされるなどのエピソードを書き残しています。
この随筆の最後はこんな言葉で締めくくられています。
乱歩にとって「見知らぬふるさと」だった名張が、これを機に本当のふるさとになったのでした。
名張図書館・江戸川乱歩コーナー
名張図書館は、三重県名張市にある公立図書館です。
この図書館には、江戸川乱歩の複製原稿や遺品を展示している江戸川乱歩コーナーがあります。昭和44年7月の開館前の準備段階から乱歩に関する資料の収集に努め、昭和62年に現在の場所に移転したのち、江戸川乱歩コーナーが館内に開設されました。
また、乱歩研究者・中相作氏が乱歩資料担当嘱託として勤められていたのも、この名張図書館です。
その際に、名張図書館から発刊された「江戸川乱歩リファレンスブック1〜3」は、中氏の乱歩研究成果が凝縮された大作とされてきました。2023年6月、その集大成と言える完全版が限定250部で『江戸川乱歩年譜集成』として藍峯舎から発売されましたが、即刻完売しています。
乱歩の著作はもちろん、乱歩やミステリに関する関連資料も多く収集されているので、池袋まで頻繁には行けない……という関西近隣県の乱歩について調べたい方は立ち寄られると楽しいと思います。(はい、それ私ですね)
ここに展示されている遺品の数々は、乱歩の御子息である、故・平井隆太郎氏から借用されて展示されいるもので、レプリカではありません。
図書館なので、こういったものが無料で見られるのが凄いですよね。名張市民が羨ましい限りです。
他にも、江戸川乱歩賞受賞者に関するものも展示されていたり、図書館なので、中央の棚にある関連書籍は手に取って閲覧したり、市民であれば借りることが可能になっています。(名張市民うらやましいですね)
江戸川乱歩生誕地碑
名張に来たら、これを見なければ帰れません。
乱歩の生家跡地に建てられた記念碑です。
まあ、碑があるだけっちゃだけなのですが……そういうもんですよね!
生誕地碑についても乱歩の随筆がありますので、冒頭をひいておきます。
発起人は、岡村書店の岡村繁次郎氏を中心として、桝田医院、富森自転車店、辻酒店、清風亭、などの「ふるさと発見記」にも書かれた人々でした。
碑が建てられるのは、桝田医院の邸内だと聞いて、迷惑になるからと一度は辞退した乱歩ですが、その医院長が発起人の一人であり、碑の建設を歓迎しているということで了承したそうです。
碑のデザインなどは岡村氏から指示があったようで、乱歩は要望通りに「幻影城」と揮毫し、記念碑には付きものである一言は、当時よく色紙などに書いていた「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」を選びました。
除幕式には、乱歩も妻・隆さんと一緒に東京から足を運んで出席しました。
その後、昭和34年の伊勢湾台風の影響で桝田医院の中庭が被害を受け、生誕碑は路地を挟んだ入院病棟の中庭に移転、さらに平成22年に生誕地碑広場の整備に伴い数メートル移動しているので、乱歩が除幕式で見た位置と現在では別の場所に建っています。
実は、名張に行って町を歩いてみると、そこかしこに「乱歩生誕の地」のプレートなどが残っているのですが、おそらくこういった事情が関係しているのではないかと思われます。(まぎらわしいので剥がせばいいのに……)
それでは、生誕地碑広場に行ってみましょう。
案内板には「ふるさと発見記」に書かれた名張のこと(中央)や、生誕地碑の除幕式の写真(右上)、名張図書館に展示されている生家の模型(左上)について書かれています。
他に何もない広い空き地にぽっつりと立つ記念碑。
乱歩自身はこの碑について、自分の碑の除幕式に自分で参列する人はあまりないことだろうと回想しながらも、ふるさとと知りながらも長い間訪ねなかった自分に対して名張の人々がこうした好意を見せてくれてたことは実にありがたいことだと思っている、と書いています。
確かに、こういった記念碑は死後に建てられるイメージありますものね。
他に著名人を輩出していないから、自分のようなものでも珍しがってくれるのだろうとは言っていますが、やはり名張の人たちの気持ちは嬉しかったのでしょうね。
上の写真が、先ほど引用した台石にはめこんだ銅板の部分で、乱歩の探偵作家としての略歴になるわけですが、乱歩の存命中にアポ取りして了解を得て作られたのがこの記念碑ですから、こちらに書かれた文言も乱歩が確認しているということになりますよね。
ここには乱歩の代表作として7つの作品が挙げられています。
「心理試験」(大正14)「人間椅子」(大正14)「パノラマ島奇談」(大正15)「陰獣」(昭和3)「石榴」(昭和9)「孤島の鬼」(昭和4)「黄金仮面」(昭和5)。
デビュー作である「二銭銅貨」は略歴の方に書かれています。
このラインナップを見て、「私の好きなアノ作品が入ってない!」とか「何でそっち?!」とか、乱歩ファンなら色んなことを思うでしょう。
さて、この7作、乱歩自身が選出したかは不明ですが、先述した通り少なくとも乱歩自身が確認して許可を出している7作のハズです。
( )内は私が追記した初出年ですが、見ての通り順序はバラバラ。五十音順でもない、ジャンル(本格、長編など)も色々……。
この碑が建てられたのは昭和30年11月ですから、碑に入れる作品を選んだのはその少し前ということになります。戦中に発禁状態になっていた作品も復刊されたとはいえ、戦後の小説家としての乱歩は、昭和24年に「青銅の魔人」を戦後初の小説作品として世に出して以降、すっかり少年探偵モノの作家となっていました。(昭和25年に戦後初の大人向け推理小説として「断崖」を発表してはいますが、本人的には不完全燃焼の感があった模様。私は個人的に好きなんですけど……)
昭和29年には「怪人二十面相」や「青銅の魔人」が松竹から映画化され、世の中も少年探偵団ブームでした。
ですが、乱歩が選んだ7作の中に少年探偵モノは一つもありません。(※「黄金仮面」も大衆娯楽雑誌『キング』で連載された明智モノの長編小説)
この記念碑建設計画時期あたりから、乱歩は少年モノ以外の小説の執筆を続けて発表しています。(「兇器」「化人幻戯」「影男」「十字路」といった長編や本格モノ)
また、春陽堂『江戸川乱歩全集』の刊行も開始された時期でもあり、これまでの作品を見つめなおす機会があったことと思います。
そういった背景を考えると、後世まで残る自身の記念碑に刻む代表作として選ばれた7作品に対する乱歩の自作への想いを感じ取ることが出来るのではないでしょうか。
そして、この7作の中に戦前の乱歩の本格力作である「石榴」が入っており、後に乱歩の命日である7月28日の文学忌の名前(石榴忌)となっていることも感慨深いです。
おまけ①「石榴忌」
お墓ではないので、太宰の桜桃忌のようにお祭り騒ぎになることも、他に献花に訪れている人と出くわすこともなく、この年も静かな文学忌でした。
文学忌当日の仕事の都合もあり、毎年ではないですが上手く休みが取れた時(石榴忌に3回ほど)行きましたが……ほんと悲しいくらい例年静かなんですわ。
まあ、生誕地だし? 墓石じゃないし? ここで手を合わせるのも変な話ですけどね? かといって、誕生日も生誕祭とか行われちゃあいませんでしたけどね……オイ!
逆にこれほど有名な作家でここまで何もされてない人いないんじゃないですかね……。
近年、乱歩のというよりは町おこしのひとつとして、ちょこちょこ動きがあるようなので、そういった活動がもっと活発になればいいなと思います。
2024年は生誕130周年記念イヤーなので、お願いしますよホント。
おまけ②乱歩せんべい「二銭銅貨」
ところで、この記事を書くにあたり、乱歩が名張について触れているものを一通り(計15本)読み返したわけですが、その中で生誕地碑除幕式で振舞われたと乱歩が言っている、二銭銅貨を模した「乱歩せんべい」についての記述を読んでいて「んん?」となりまして……。
このせんべいについての記載がある随筆を3編ほど下記にひいてみましょう。
なるほど。本物の硬貨より「ちょっと大きいけれども」という表記にはひっかかるが、私の食べたことのあるものと特徴としては、まあ同じです。
ちなみに私が初めてこのせんべいを食べたのは2018年の3月のことなので、価格や包装が当時と違っていることは、まあ当然かと思うので、それは気にせず以下の写真をご参照ください。
写真では解り難いかもしれませんが、それでも「ちょっと大きい」の範囲超えてませんか? って思われたと思います。
最初の写真のものは、生誕地から徒歩数分の三重県名張市中町で営業されていた和菓子屋さん「山本松寿堂」さんの乱歩せんべい。(現在は営業されていません)
まあ、なんでもマメに記録しておく乱歩とはいえ、人の記憶の事ですから、少し大きく見えたのかも……と思いました。
ですが、次の随筆2本を読むと、いや、乱歩の気のせいじゃないぞ?、と。
こちらの二編には、はっきりと「模様」や「紋章」という特徴を示す単語が書かれているので、やはり私が食べたものと同一のものではないらしい。
焼き色は個体差があるので「白い」という特徴は曖昧だが、写真のモノを「白い」とは言わなさそうだ。
単純にデザインや大きさが変更された、ということなのか? というと実はそうではないらしい。
乱歩が随筆で語っているせんべいは、除幕式の後まもなく、一度生産が終了してしまっていたそうです。
近年まで販売されていたものは、過去に「火曜サスペンス劇場」のドラマの小道具として使用するため、テレビ局の依頼で山本松寿堂さんが復刻し、のちに一般向けに販売したものなのだそうです。
そういえば、読書会で山本松寿堂さんのご主人にお会いした際に、「二銭銅貨」のせんべいを焼いているけど、作品は読んだことが無いと仰っていたっけ……。
乱歩や作品が好きで復刻させたわけではなかったにせよ、コロナ禍で閉店されてしまい、再び幻の銘菓となってしまった「乱歩せんべい」。
私も三度ほど口にしただけなので、今となってはもっと食べておくんだったと、卵の風味がほんのり甘く、香ばしく焼かれたせんべいを恋しく思い出します。聖地は行ける時に行け! と同じで、所縁の名物なども、食べられるうちに食べておかないとですね……。
※名張駅前の乱歩像など、またフォルダから写真が発掘されたり、新たに行くことがあれば追記していく予定です。(2023/11/27)