【エッセイ】おじいちゃんの手紙
私の祖父母は広島県の音戸という小さな島に住んでいた。川崎市で暮らしてた小学生時代、お盆や正月に音戸に帰るのは何よりもの楽しみだった。呉から車で30分程走ると真っ赤な音戸大橋が見える。音戸大橋は螺旋状の形が特徴的な橋で、螺旋のカーブの遠心力を体に感じると夢の世界に入ったような気分になり、自然と心が高揚した。
静かに広がる瀬戸内海、島ならではの細い路地。耳をつんざく蝉の声に、昭和から変わらないささやかな商店。道を歩けば誰もが顔見知りで「よう帰ってきたね」と声をかけられる。そのすべてが日本の田舎の風景そのもので、私が暮らす土地にはない温もりがあった。ないものに憧れると言われたらそれまでだが、子どもの私にとって音戸は天国のような場所だった。夏休みになると音戸大橋のふもとでお祭りがやっていた。にぎやかな祭囃子の音や夜空に浮かぶ提灯の灯り。甘い綿菓子に艶々の水風船。音戸の夏祭りは今でも私の心象風景として、その匂いや光や音の記憶が深く刻まれている。
私は初孫ということもあり、祖父母にはずいぶんと甘やかされた。「みなちゃん、ずーっと音戸におったらええ。ここにおったら勉強も宿題もなーんもせんでええ」東京に帰る日、祖父はいつもそんな言葉で私を誘惑した。
広島駅まで見送りに来る祖父母と別れる時、私と弟は毎回泣いた。側から見たら今生の別れみたいなドラマチックな状況だったが、バイバイの時の号泣は毎度お決まりのことだった。
そのくらい私たちはおじいちゃんとおばあちゃん、そして音戸で過ごす数日間が大好きだったのだ。帰りの新幹線で甘栗を食べながら、徐々に夢から醒めていく感覚がいつも切なかった。
中学、高校と少しずつ大人になるにつれ、私の音戸に対する熱は薄らいでいった。子どもの頃何よりも楽しみだった音戸への帰省より、部活や友達と遊ぶことの方が大切になっていった。
音戸は何も変わらずそこにあり続けるのに、私の心だけが変わったのだ。その変化に仄かな罪悪感もあったので毎年音戸には帰っていたが、楽しみと義務感みたいなものが半々になっていたことには自分でも気づいていた。
中学の時、祖母が脳腫瘍で倒れた。その後数年の闘病生活を経て、祖母はあっけなく死んだ。祖母がいなくなった家はガランと空洞ができたようで、あれだけ豪快で明るかった祖父はみるみる元気を失った。自分の成長と比例するように、キラキラと輝いていた明るい音戸の家に暗い影が落とされた。その後、祖父も脳梗塞をやった。癌を2回もやり、その上脳梗塞もやり、身体はボロボロだったはずだが、戦中を生き抜いただけの根性もあってか祖父はギリギリのところでずいぶん粘った。しかしそんな祖父もついに死んでしまい、楽しかった音戸が本当に幕を閉じたのだった。
祖父が死んだ翌年、たしか25歳くらいの頃だった。散らかった部屋の断捨離をしようと本棚を整理していると、本の隙間から分厚い茶封筒が出てきた。なんだろうと思い手に取ると、それは祖父からの長い手紙だった。おそらくあとで読もうと封も切らずに本棚にしまっていたのだが、すっかりそのまま忘れていたのだ。
手紙を開くと、そこには懐かしい祖父の字が広がっていた。それは私が大学受験に受かったときに送られた手紙で、私の合格がうれしくて近所の人全員に自慢したい気分だと書かれていた。そしてそのあとに祖父が書いた自作の短い小説が綴られていた。手紙を読んで、私は祖父の葬式の時の何倍も泣いた。あとからあとから涙が溢れて、止めることができなかった。なんでこの時読まなかったんだろう。なんで返事を書かなかったんだろう。おじいちゃんはもうこの世にいないのに。
もう遅い。その現実がひたすらに苦しかった。あの家で、この手紙をひとりで書いてポストに投函する祖父の姿を想像すると、胸が張り裂けそうだった。きっと大学に入りたてで新しい環境に浮かれていた私にとって、祖父からの手紙は二の次だったのだ。そんな自分の浅はかさが、とめどない後悔の念となって押し寄せた。祖父が死ぬ前から私の音戸は終わってた。私が勝手に終わらせたんだ。
祖父の最期の日々、無機質な病室でチューブに繋がれた祖父を見て、生きるって何だろうと考えた。人工的に生かされてるだけの祖父は、じっと天井を見つめたまま何も答えない。呼吸の音だけが苦しそうに響く病室で、果たしてこの状況を生きてると言えるのだろうかと考えたりもした。
脳の刺激になるので話しかけてあげてくださいね、と看護師が言うので、私は返事の返ってこない祖父に一方的に話しかけた。さすがにひとり語りにも限度があり、話すことがなくなった私は質問形式に変えてみた。
「おじいちゃんが一番好きな季節って何?」
当たり障りのないことを質問すると、少しの間を空けて「はる」と小さい声で返ってきた。
私の言葉なんて聞こえていないと思っていた祖父は、すべて聞いていたのだ。祖父はちゃんと生きていた。春、これが祖父の口から聞いた最後の言葉だった。
あれから15年の月日が流れた。ちょうど一年前、引っ越しで今の家の物件を内見したとき、心の中に音戸の風景がよみがえった。縁側の窓の鍵が昔ながらのねじ式で、それは音戸の家のものと同じだった。縁側から見える小さな庭には松の木が一本生えていて、これも音戸の庭を彷彿とさせた。祖父の庭には松が植っていて、太郎、姫、風の又三郎、破れ傘と名前をつけて可愛がっていた。私は絶対にこの家に住みたいと思い、すぐに契約を決めた。
あの手紙を開いた時に穴が空くほど心をえぐった後悔も、今ではすっかりと和らいでいる。結局すべての感情は季節のようにうつろいでいくもので、それは寂しいことでもあるが、感情を同じ熱量で持ち続けたままでは生きていけない。大切なのは、たまに立ち止まって思い出すことなのかもしれない。あの時、祖父の愛情を無下にしたことは、当たり前にいる大切な人を無視してはいけないという人生の教訓となった。
「もうええわい、そげなこと忘れちょったわ」
天国の祖父はビールを飲みながら笑っている気がする。春の新しさを愛した祖父は、きっと許してくれるだろう。後悔や悲しみが、楽しかった思い出で上書きされた時、初めて死者と対等に話せるようになる。まったく聞こえてない振りをしながら「春」と唐突に答えた祖父のことだから、きっとこの手紙も空を超えて届いているに違いない。
大好きなおじいちゃんへ。あの時、返事を書けなくてごめんね。俳句やエッセイを書くのが好きだったおじいちゃんの血なのか、私も文章を書くのが大好きになりました。音戸は今も私の心にあるよ。いつまでも私の心のふるさと。
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