【エッセイ】色気を自在に操る子
色気とは何ぞやと聞かれても漠然とした概念としか言いようがないのだが、人生で忘れられないほど色っぽいと感じた女の子が一人いた。
往々にして女同士の場合、色気は距離が遠い人にしか感じない。初対面で色っぽいと感じても、親しくなっていくうちに別の要素で肉付けされるせいか、どんどんその人の印象から色気というものが削がれていくのだ。
20代の頃、美術館の受付をやっていた時期があった。受付のメンバーは全体的に浮世離れした変わり者が多く、なかなか楽しい職場だった。
そこへ新しく入ってきたのがユリちゃんだ。華奢で小柄な体型だが、細いウエストから腰にかけてのくびれがスーツ越しに妙に目立つ。髪型はボブで、化粧気はあまりない。薄顔で童顔。特別着飾ってるわけではないのに言いようのない派手さが内側から滲み出ていて、なぜかめちゃくちゃエロかった。
ユリちゃんに諸々の業務を教えることになり、頑張って彼女に話しかけてみるのだが、いくら歩み寄ってみても壁がある。ユリちゃんは徹底的に自分を明かさない子だった。決して感じが悪いわけではないのに、彼女の反応はいつもどこか演技をしているように見えるのだ。ユリちゃんはプロ級のキラースマイルを持っていたが、その笑顔の裏には“絶対にこの職場では自己開示しないぞ”という強い意思が透けていた。
喫煙所で煙草を吸っていたら、ユリちゃんがひょっこり現れた。館内説明をした時に喫煙所の場所を教えたら「私、吸わないんで」と言っていたのに。「さっき、うそついちゃいました。実は私も吸うんです」ユリちゃんはイタズラっぽく笑って、細い煙草に火をつけた。
ユリちゃんは小さな嘘をよくついた。一番驚いたのは話題に詰まって恋人がいるかという話を振った時だった。私が質問すると、ユリちゃんの顔からスッと笑顔が消えた。「いないです。私、ひとりの人と付き合うとか、そういうのよくわからないんで」ユリちゃんは淡々と答えると、そのまま視線を前に戻した。
やってしまった、と思った。恋愛のことなんて話したくない人もいるだろうに、野暮なことを聞いた自分の無神経さに少し落ち込んだ。だがこれも嘘だった。その数日後、ユリちゃんは「実は私、昨日結婚したんです(ニコっ)」と言ってきたのだ。まったく理解が追いつかなかったが、とりあえずおめでとうと言った。彼女の嘘からは、いつも夜の匂いが仄かに香っていた。
そんなユリちゃんにすっかり翻弄されっぱなしだったが、彼女は敵意のない子だった。他人に興味がないから誰にも干渉しない。
少し打ち解けたあと、ユリちゃんって色気がすごいよねと伝えたら「私、顔は普通なんですけどね。高校の頃はセックスが歩いてるって言われてました」と返され、度肝を抜かれたこともあった。
ユリちゃんの色気について同僚の友人と考察してみたりもした。そして「やはり私らみたいにベラベラ自分の話をしないからじゃないか」という結論に至った。簡単に明かしてくれないから知りたくなる。ユリちゃんは秘密の花園の鍵を簡単には渡してくれない。でもその扉の向こうには、暗さや悲しみや孤独みたいなものがたくさん埋められているような気がして、誰もそこには立ち入らなかった。
一度だけ、ユリちゃんが自分から故郷の話をしたことがあった。彼女は雪深い北国出身で、高校卒業と同時に上京したそうだ。帰省はするの?と聞くと「実家はないものだと思ってます」と彼女は答えた。
喫煙所で顔を合わせるたびに、私たちは少しずつ会話を重ねた。どんな話をしてもどこか他人事のように話すユリちゃんだったが、彼女の瞳が唯一きらめく瞬間が映画の話をしている時だった。その時だけユリちゃんは普通の女の子になり、好きなものを語る時のオタクのように、前のめりに饒舌になった。ちょうどグザヴィエ・ドランの新作が出る頃で、「今度一緒に観に行きたいですね」と彼女は言った。絶対に果たされない口約束だとわかりながらも、私たちは共通の楽しみを心の中で交換した。
数年勤めたのち、私は美術館を辞めた。退職の日、ロッカーの整理をしているとユリちゃんが近づいてきた。「辞めちゃうの寂しいです。喫煙所で話してた時間、楽しかったです」そう言って、ユリちゃんは女優さんみたいな涙を一筋流したのだ。私は開いた口が塞がらなかった。
ユリちゃんがロッカールームを出て行ったあと、隣にいた同僚は「あんな綺麗な涙初めて見たわ」と目を丸くしていた。わかる、まるでドラマみたいな涙だ。人は泣くとき表情が歪むものだが、ユリちゃんはつぶらな瞳でじっと私を見つめたままポロっと涙を流したのだ。
心の中のおじさんをすっかり成長させてしまっていた私は、不覚にもユリちゃんの涙に感動していた。どこまでも謎多き女だったが、そんな彼女とも数年かけて薄い絆を確かに築いていたのだ。帰宅後みんなからもらった寄せ書きのノートを眺めていると、ユリちゃんのページにはコメントの最後に口紅でキスをした跡がつけられていた。さすがである。最後までユリちゃんは、天晴れだ。
それから5年後。
同期の友人からユリちゃんと3人でごはんを食べに行こうと誘いを受けた。プライベートでユリちゃんと会うことはないと思っていたから、久しぶりに会えることが普通に嬉しかった。
待ち合わせ場所に現れたユリちゃんを見て、私は目を疑った。本当に美術館で働いてたユリちゃんと同一人物なのだろうか?それくらい彼女は別人になっていた。顔や体型が変わったわけではない。ただ、あの独特な色気が消えていたのだ。匂い立つようなエロいオーラは、スイッチを切ったかのように綺麗サッパリなくなっていた。その後子供を1人産んでお母さんになったユリちゃんは、東京を離れて地方の牧場で牛や馬の世話をして働いていた。これまた思いきった方向転換である。
東京のど真ん中で異様な色気を放っていた子が、もう東京飽きたと言って自ら色気を破り捨てたのだ。達人にとって色気とは着脱可能なものだということを、その時私は初めて知った。そして生き方を180度変えられる、彼女の意思の強さにも感服した。清々しいほど未練がない。
たしか初めて会った時から、地面から数センチ浮いているチョウチョのような子だった。何にも縛られてないし失うものもない。すぐどこかに消えていってしまいそうな自由さが見ていて怖くもあり、深追いさせたくなるような魅力となっていたのだ。彼女の色気は、あの小さな体で大東京を生き抜くための仮面であり、武器だったのだろう。きっとユリちゃんは子供の頃からひとりきりで戦ってきたのだ。
ユリちゃんの変貌を見て、果たして色気って必要なものなのだろうかと疑問に思った。たしかに美術館時代のユリちゃんは異様に人目を引く存在だったが、すべてから解放された今の姿は肩の力が抜け、穏やかな優しさで満ちていた。色気は人を惹きつけ、畏怖させる。人を惑わす魔力のようなものだから、つい手にしてみたくなる。でも本当はそんなものなくても、人は自分に正直に生きているほうがよっぽど輝いて見えるのかもしれない。ぐずる赤ちゃんを抱っこしてあやすユリちゃんを見て、今度は私の方が泣きそうになってしまった。