「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ。特に今は」
ドイツにおける「フリーランス」への支援は非常に興味深いが、日本にこれと同等のものを求めるのは、それ以前の制度の問題をクリアしなければならない。
しかし、ともすればごく普通の日常においてでも、生命維持に不必要で、生活にまで不要とされかねない「ART」は、こういった厄災の中ではまず見過ごされるのだが、その辺りをしっかりとフォローしようという意識はさすが、という感じである。
ただし、ドイツがなぜこれほどに「文化」を擁護するのか、というのは、過去の戦時下での文化の統制や抑圧、迫害という歴史もあるが、教育制度による職業選択の格差の面が大きいとも感じる。
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日本にいる中で可能性を感じるのは、確かに学歴社会ではあるが、人によりその学歴を手に入れるチャンスに差はあっても、原則的にゼロではないことである。
簡単にいえば、どのようなタイミングであっても、その資格さえ得ていれば大学へ進学することができる。
しかし、ドイツにおける教育システムは(例外的な事例もあるが)原則としてかなり早期に、大学まで進学することができるか、そうではないかが決定してしまう。
しばしばドイツのマイスター制度は確かな職能を保証するものとして素晴らしいと言われるが、あくまでも個人的な見解として、これは職業の違いにおけるヒエラルキーの硬直化が起きないようにするものであり、大卒コースに乗れない人々であっても、職人としてマイスターを目指すことで、社会的な成功を収めることができるロールモデルとして機能している。
だが、このようなロールモデルが実際に多くの「非大卒」の人々に適用されるのかといえば、そういうわけではない。
たとえば農家であったり漁師であったり木こりであったり、そのような第一次産業の従事者を想定すれば分かりやすいが、都市生活における清掃員、土木作業に従事する人々、工場労働者など、「その人でなければできない」という仕事に従事しているわけではない人々はずっと多くいる。
10代前半で、将来は大卒さえもマイスターにさえもなれる可能性が限りなく低く、その時点で生涯賃金などの経済的格差が明らかになってしまう人々の、社会への諦めは想像を絶するが、しかし、これはあくまでも経済的な豊かさを至上とした場合の想像であって、ドイツにおける実際の豊かさの定義はもっと多元的である。
父親が在外勤務でフランクフルトにいた際、隣家に住んでいたドイツ人家庭の10歳にも満たない小学生は、すでにバッハのシンフォニアを弾きこなしていた。日本で言えば、小学生でそのくらい弾ければそのまま音楽高校、音楽大学に進む...という難易度の曲であるが、その少年は特に演奏家を目指すことや音楽を学ぶことは将来的には考えていないらしく、また、特に音楽教師がつくわけではなく、日常的に週に数回、母親と父親から手ほどきを受けただけのものであった。これは両親の音楽のレベルも、「小学生でシンフォニアが弾けるのは当たり前」という感覚ということでもある。
同様に、古典から近現代の美術まで、美術館に行くのは市民にとってのごく平然な行為である。
これは、誰もがアーティストになれる、ということではなく、音楽や美術に親しむという行為が日常的なこととして幼少期から刷り込まれているのであり、その知的な消費は、経済的な豊かさに関係なく、文化は誰もが消費可能なのであり、文化的な豊かさは、格差を乗り越えるために必要なのである。
ドイツで文化産業の従事者を保護しようとしているのは、文化的な豊かさが失われると、格差が前提となってしまっている教育制度によって、経済的な格差への不満を止めることができなくなってしまうからである。小狡い政策的な意図を感じずにはいられないものの、しかしそれよりももっと以前に、文化の重要性を深く理解し、日本における文化の産業利用とは別の指標で、文化を政治的に位置付けていることがうかがえる。