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大洋感情を持つ人間(1)─『大洋感情』とは?

やっと本命記事の投稿へと辿り着けました。なぜ本命かというと、誰かに伝えたい明確なメッセージであり、私の生きる意味と繋がっているからです。このシリーズは大洋感情を持つ人間の特徴を書いてゆき、これのあとには「発達の可能性を秘めた人」に向けて積極的分離理論や実存的うつについても発信するつもりでいます。

少しの前置き

本題に入る前に、今後積極的分離理論について記事を書くというのに、なぜ前置きのように「大洋感情」の話をするのか。理論については、実感を伴う体験を元に熟考を重ねてきたのですが、今の段階では、自分が捉える分離の段階において上手く表現できない部分があります。これはマズローの欲求階層説についても同じ。どこか順番が逆さになるような変な感覚です。その上手く表現できない理由がどうもこの感情と関係しているように思えたためです。

またさらに「大洋感情」を「gifted」というラベルと関連させないのは、私自身が当事者ではないことに加えて、この世界を包み込むような激しい共感性、自我境界の薄さが、知性と精神性の高い人間を意味する呼称とどれほど密接な関わりを持つのか、今の段階では全容を掴めていないからです。

宗教心の本質=共感性と神秘性

※当記事で使う『宗教心』『宗教性』とは、特定の宗教に属すことを善とする意味ではなく、人間の無意識にある本質的な心理のような意味です。

・HSPの「共感力」とは違う理由

HSPの説明で共感力という言葉がよく使われますよね。これについて先の記事で、私にとってはこれに段階があると書きました。(個人視点によるものです。少し表現を調整しています。)↓

❶ 家族や友人、今向き合っている目の前の相手や周囲にいる人に対して働く。

❷ ニュースなどで見聞きする、偶然出会す、他人だけど自分の生活シーンに入り込んでくる、誰かに対しても常に強く働く。

❸ ❷がその場を離れても慢性的に働いている。

❹ 生活シーンには入ってこないが世界に膨大な数存在するであろう苦境にある善良な人々に対して常に働いている。

❺ 不遇の人生を終えた歴史上の善人に対して生者と変わらないほどに常に働いている。

ここで話題にしたいのは❹や❺のことなので、一般的にほとんど❶や❷で用いられる「共感力」という言葉では追いつかないのですね。したがって私の中にある共感力に当てる語に一番適切な言葉として「大洋感情」というワードを使っていこうと思いました。これが一番しっくりくるからです。

先に投稿した記事でリンクを付けた、精神科医浜垣先生によるブログ記事ふたつに、目を通して頂いた方はおられるでしょうか……?  これはその中で出ててきた言葉です。

自我境界の薄さや乖離傾性の高さに興味がある方に、ぜひこの先生のブログ記事(1)(2)をお読みいただきたいです。

大洋感情とは?

私には子供の頃から自然に備わっている心があり、それは下記の言葉に集約されています。

世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない

『農民芸術概論綱領』 宮沢賢治

宮沢賢治が持っていた心と同じです。この言葉を最初見たとき、自分の子供の頃からある気持ちとぴったりしすぎて、それゆえに私はこの作家に特別な思い入れを抱くようになりました。そして自己探求を続けて最終的に見つけた自分の「原点」でもあります。

この賢治さんの心と、ロマン・ロランがフロイトと交わした書簡の中で述べた『大洋感情』という言葉が、上記の先生のサイト記事で〝同じもの〟として結び付けられていました。

これは簡単に言えば、自分の感情が他者、自分の周囲にいる人のみならず、この世のすべての存在と一体化している感覚、およびそこから起きる大きな共感的感情、神秘的な何かに導かれる巨大な感覚のことです。個を超えた世界との一体性のことです。

これについて、フロイトは「乳幼児期への退行」つまりまだ自我が未発達な段階へ戻る退行的な心理状態のことだと捉えたらしいのですが、このフロイトの言にこそ、私がこれまで「人間と人間の間には見えない大きな壁がある」と感じてきたものが表出しています。
つまり、持っていない人にはこういうことだろう、と推測でしかこれを理解できないのです。またあるいは、これを自分に当て嵌めると何だか自己犠牲を強いられてる気がして「重苦しい」「しんどい」と多くの場合捉えられるのです。……世間のほとんどの人がこうなのではないでしょうか?  自分のことだけで精一杯なのに他の多くの人のことまで考えてられない、自分は誰かを救えるような大そうな人間じゃない、というわけですね。理屈はよくわかります。

しかし大洋感情とは、強い共感性と神秘性を伴う宗教性の本質といえる心のことです。以下の引用をご覧ください。

「大洋感情」とフロイト                   霜 山 徳 爾

 フロイトとロマン・ロランの往復書簡のなかで、ロマン・ロランの使った「大洋感情(sentiment océanique)という言葉がある。宗教に対する否定的なフロイトの論文「幻想の未来」に対して使われた。ロマン・ロランは、人間があの大海原に面するときの自然の感情、すなわち、限りないもの、絶対的なものを予感する独特な感情こそ、信仰の本質なのだと静かに述べている。しかしフロイトは反対して、「大洋感情」なるものの正体は、実は自我が外界から分離する以前の、「自我と世界の一体感」への退行的願望の表現であり、無制限的な自己愛、自己の全能感の希求に他ならない、と手きびしく批判した。―しかし、フロイトは楯のもう一面を忘れていなかっただろうか。すなわち、大洋感情こそ全能的な自我の否定であり、小さな自我と外界との一体感の否定の希求であるということである。それは死と親和性の高い、きわめて「人間的な」感情であり、幼稚な気分ではなくて悟達の心眼なのである。

     『人間の詩と真実』(中央公論社)から

↓以下のブログ記事より引用させていただきました。
※太字は本稿筆者による

ご‐たつ【悟達】 〘 名詞 〙
悟りの境地に達すること。 迷いを脱し、真理を得ること。 悟入。

コトバンクより

私がごく幼い頃から自然に持っていた感情とはこの『大洋感情』だとしか今の時点では言えません。「自我境界が薄い」とも表現されます。

ところで自我境界が薄いと言うならば、他者の気持ちを自分の気持ちとして受け取ってしまうエンパス(非常に共感性が高い人)もこれに当たるのでしょうか。
いいえ。この「大洋感情」はこの「エンパス」「エンパシー」を心理機能としては含むと思いますが、それよりももっと関係しているものがあるので、同じ意味の語とはいえないと思っています。厳密なことは言えませんが。
エンパシーと同じ部分としては、自分の感情の中に他者の感情が自然に入り込んでくること。他者の痛みは自分の痛み、一体化を意味する部分です。しかし違うのは以下の点です。

大洋感情の心理の仕組み

・世界と一体化した意識

Sentiment ocanique  (Oceanic feeling)

大洋感情は、目の前にいる人や実生活で関わる人に限らず、この世に存在している人間や動植物、あらゆる存在に対しての感情であることです。人間に関して言えば、つまり実際会うことがあろうとなかろうと、現実に存在している人、もしくは存在していた人。それらの人々の感情も「自分に起きた現実」「自分だけの真実」として自分の中に入ってくることです。

社会性という性質が関わっているように思います。わかりやすくMBTIの心理機能でいえば、「Fe=外向感情」が元になっていますね。これの対象者が「この世のすべての存在」なのです。なお「Ni=内向直観」の機能も、通常を超えた宇宙の神秘性を直感で感じとるという意味で関係しているはずです。つまり、感情と直観と感覚的官能が入り混じった、他者や世界との一体化した感情です。

以下のブログ記事が、芸術性の視点から捉えたこの大洋感情の感覚(宗教性の本質)についてとてもわかりやすい説明をされているように思いました。一部を引用させていただきます。(太字部分は私が付けたものです。)

この彼岸は、真実在の世界であり、全てが眩しく光り輝き、極めて意義深さを感じさせるところに特質がある。ハクスリーはあまり詳論していないが、要するにその「意義深さ」とは、「万物は愛されて存在している」ということだろう。分かりやすく言えば、「神」と呼ばれる大いなる存在が大いなる愛の下に「いのち」を分け与えて森羅万象が成立しているということである。
実は、特別な才能がなくても、私達は日常生活において稀にこの彼岸を直観することがある。例えば、大宇宙の崇高な無限性を感じたり、生命の完全な昂揚や悠久の循環を感受したりする場合等である。これを、リチャード・モーリス・バックは「宇宙意識」と呼び、ロマン・ロランは「大洋感情」と名付け、エイブラハム・マズローは「至高体験」と呼称している。

さらに、私達は日常生活においてしばしば彼岸の存在を感得することがある。例えば、この世のものとは思えないほど綺麗な朝焼けや夕焼けを眺めたり、神秘的な美しさを示す虹やオーロラを目撃する場合等である。その時、私達は此岸の物理的事象を通じて彼岸の精神的世界を憧憬しているのである。

上記リンクのブログ記事より
※太字は本稿筆者による

このように、本来誰しもが感知し得るものです。これこそが信仰の心、宗教性の本質であるとロランは述べたということです。
これを元々強く持って生まれてきた人は、完全な形でこの大洋感情を体現する生き方をおのずと目指してしまうので、時にそれは何か特定の思想や宗教教義に関心が高まり、そこへ人生を投じてしまう場合もあります。私自身がそうでした。承認欲求や自己実現欲求などの社会的欲求を満たそうとする前から、自分の生き方(利他精神を発揮して生きる道)を貫こうとしたために、世間の人とまったく違う人生の選択をしてしまったのです。自ら喜んでそれをしたのです。

組織の中で私みたいに、子供なのに〝自ら進んで〟奉仕活動の道に献身した人はほぼいませんでした。同年代の子たちは〝親に従って〟行っていました。

・道徳的理念のことか?

さて、他者を思う心というならば、他人には思いやりをもって接しましょう、相手の気持ちになって行動しましょうなどと「褒められるべき道徳心」「実社会での有益な行動基準とされているもの」のことでしょうか?
私たちは養育者や教育者により子供の頃からこうした道徳的理念を教えられ行動するよう求められます。または「思いやりを持つべき」「相手の気持ちになって考えるべき」と〝べき論〟で他者や時に自分自身から押しつけられます。このように外側から促されて『良い』『善い』とされる価値観を受け入れて生きることを意味するのでしょうか?

いいえ。それとはまったく別の話です。

他者を思う心は、立派な精神、善良な人、利他主義、よく出来た人、人格者、などと道徳的価値観としてのみ世間では語られ評価されますが、そういうことではない、という意味です。

これはただの「遺伝」です。子供の頃から生まれつき備わっている心(おそらく本来誰にでも備わっている良心、それの強さ)なので、それを「立派」とか「善良」とか「自分を制御して努力で獲得した為人ひととなり」だとか「聖人君子」「神や仏の心」などとみなすのはまったくの見当違いなのです。自分らしい姿、本当の心として、自分の中に最初から存在しているデフォルトの価値観であり偽りない真心なのです。(なお、築き上げた人格、人間性を試された後に残った最終人格ではないため、そういう意味では未熟な心でもあるといえます。)
宮沢賢治が述べた「人にだけある心」「よいことをしたいという心」「自分より世界のさいわいを願う心」については、良くも悪くもなく、ただそういうふうに生まれてついているということなのですね。この点を、先の精神科医はこう述べています。

結局、冒頭でご紹介した、 「 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 」 という言葉の趣旨は、「個人の幸福よりも全体の幸福が先にあるべきだ」とか、「全体の幸福が実現されるまで個人は幸福になるべきではない」というような「べき論=当為」ではなくて、賢治にとってはまさに「あり得ない」という、不可避の「事実」だったのだと思います。「そうあるべき」とか 「理想論」とか「信念」として言っているのではなくて、「望むと望まざるとにかかわらず、世界とはこのようなものだ」という彼にとっての現実を、ただ「ありのまま」に述べたにすぎないと思うのです。

統合し制御する精神と解離し浸透する精神
~宮沢賢治の心性の特徴について~
高木神経科医院 院長(京都市) 浜垣 誠司
※太字は筆者による


こここそが、どんな専門家でも、どんな研究者でも、よくわかっていない点だと私には感じられてしまうのです。
もし全国の心理カウンセラーや精神科医がこの浜垣先生のような視点をもって接してくれるなら、私は苦しかった子供時代カウンセラーに気持ちを聞いてほしいと願ったと思います。世の中の人は、この大洋感情を持つ人間のことをほとんど理解していません。
絶対基準として据えられた「善」でもなく「讃えられる」ものでもないのです。ただ当人にとってはここにこそ人としての素朴な心があり、本物の喜びがあり、また時にそれは烈しい怒りとなる苦しみでもあるのです。(悪が横行する世に対する烈しい怒り。善が自然とされないことへの怒り。)

世間の多くの人の感覚=「統合し制御しようとする精神」と、大洋感情を持つ人間=「解離し浸透する精神」の違いについて、この浜垣先生が用いた、島と海面の喩えが大変素晴らしいので、ここで先生のイラスト図解を用いて解説してみたいと思います。
※引用の許可は頂いております。

利他心、無私の心、宗教性の本質

・島と海面の喩えで考える

その前に、まずは私の作ったイラストで概要を説明しておこうと思います。
「島」を自我(=自分の権利や欲求を守り満たそうとする意識)として見てください。「海面下」が自分以外の存在への意識として捉えてください。「島の標高」が高いことは自己と非自己の意識の落差を表します。「海面の高さ」は、自我感情の高まりや低さです。海面が上がると自我感情が低くなり、下がると自我感情が高くなります。海面の上下の動きは、自尊心の高まりや低まりと捉えてください。

例えば資本主義の社会に適合しようとする自我はこのように高く狭いのですね。自己と他者との境界線を引き、自分として受け入れる意識範囲を狭めています。こうであることで自分を守ることができます。
もしこの絵にある海面がかなり上がったとしても、つまり自我感情が低くなっても、高い島は水面下へ沈まないため自分の領域は確保されたままです。逆に海面が低くなると、島の領域は少し増しますので、自我境界も少し強くなります。

高くて狭い自我の島
(統合し制御しようとする精神)

自己と非自己の境界線がくっきりしており、海面が低くなっても高くなっても自我領域はほとんど変わらない。

一方、広くて低い自我の島はどうでしょう?
下の絵にあるように、これだと海面の上昇や下降から受ける影響は、上の島とは随分違うものになってくることがお分かりでしょうか?

低くて広い自我の島
(解離し浸透する精神)

海面が上がると島全体が海の中に沈み自我が消滅する。海面が下がれば、島の面積は広いので世界の多くの存在を自分として感じてしまう。

なんとなくイメージを付けて頂いたところで、さらにわかりやすい説明をします。以下、精神科医浜垣先生による説明文とイラスト図解の引用です。

海面上に出ている部分が、その十分に強い自我感情によって「自己」と感じられる場所であり、水面下に没しているのは「非自己」です。
 そしてこれは全体として、非常に急峻な岩礁が、海面上に突き出ているような断面図になっています。この急峻さは、「自己」と「非自己」の間には自我感情の大きな落差が存在しているという一般的な事実に対応しているもので、言い換えればこれは、「自我境界が明確である」ということを意味しています。これが、自我境界の明確な、一般成人の「自己」の存在様式です。

一般成人の自己の存在様式
自分と他者との区切りが明確に存在している
自我へのエネルギー補給が減る場面(例えば、他者との比較により自尊心が傷つくような場面)で多少自己意識は小さくなれども大きな影響まではいかない。
自我へのエネルギー補給が上がると(つまり自尊心が高まることがあると)自己意識は高くなり巨大化する。他者への意識より自己を強く意識する。

「自我境界」が明確である場合には、「自我感情」が変化しても、「自己」の範囲や大きさは、さほど変化しないのです。これはまあ当然のことで、一般の大人は、心的なエネルギーが増大したり減少したりしたからと言って、自分そのものが大きくなったり小さくなったりしたように感じるわけではありません。

一方、自我境界の薄い人間の場合はどうでしょうか。

自我境界が薄い人の自己意識
一般人と比較してその境界は曖昧である

先ほどと何が変わっているのかと言うと、「島」は低く、「海」は浅くなり、その高低差によって表していた「自己」と「非自己」の落差が、狭まっているわけです。
 このように形が変化しただけでも、「島」は波のしぶきをかぶりやすくなっているわけで、これは「自己」の中心部までもが、周囲の環境の影響を、より受けやすくなっていることを表しています。しかし、この種の「自己」の特徴がより顕著に表れるのは、自我感情が変化した時のことです。

自我感情が高まれば、世界との一体感による高揚感、万能感に包まれる。他者への意識も自己意識の中に存在している。

ここでは驚くべきことに、さっきまで「非自己」であった海の部分が消滅してしまい、全てが「自己」の色彩を帯びています。
 これはどういうことかと言うと、「世界」の隅々にまで「自己」が遍く充満して、世界中の全てが「自己」と感じられる状態、言い換えれば「自己」と「世界」が一体化した状態です。
 なかなか常人には、このような状態を実感できる機会は少ないでしょうが、これこそが、先に論じたロマン・ロランの言う「大洋感情」というものに相当するのではないでしょうか。自分が世界全体と溶け合う、「永遠なるものの感覚」です。

今度はそのような曖昧な自我境界の人において、自我感情が低下した際にはどうなるかということを、考えてみます。

自我感情が下がると自己が消える。つまり「自分の権利や欲求に執着する意識」がなくなる。

ここでは「島」の全体が海面下に水没してしまって、「自己」として表面に顔を出している部分は、なくなってしまいます。
 すなわち、ここにおいて本人にとって「自己」というものは、あたかも「消滅」してしまったかのように感じられるのです。
 これも、一般人にはぴんと来にくい感覚でしょうが、賢治の作品にはやはりこのような体験があれこれ出てきます〜

ぼんやりと脳もからだもうす白く
消え行くことの近くあるらし

宮沢賢治 歌稿[B]165

解離傾性が高い人、我欲が少ない人、利己的な欲求が薄い人、が強く感じる感覚の特徴だと思います。

※ここまでのイラスト図解と引用した説明の詳細は、以下のリンクよりぜひご覧ください。宮沢賢治の心理構造への考察がそのままロマン・ロランの述べた「大洋感情」の説明であることがわかります。そしてこれが、利己、利他、の軸を作り、人と人を大きく分ける違いとなることがお分かり頂けるかと。↓


今回は『大洋感情』の心理構造の解説でした。特に「自我境界の薄さ」という面を強調するものとなりました。次回から私自身の過去エピソードをとりあげて、この大洋感情について読者自身が考察できる機会を提供していきたいと思います。最低(1)〜(4)まで続きます。(中にはセンシティブな表現、生々しい表現があります。)その後、大洋感情を持つ人間の生き方と関わりが深い「積極的分離理論」と「実存的うつ」の話(別シリーズ)に繋がります。

ここまで読んでくださりありがとうございました。もしよろしければ続きの記事もご覧いただけると幸いです。以下のマガジンより該当シリーズの投稿だけを見ることができます。

続き↓ (近日投稿予定)

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