見出し画像

大洋感情を持つ人間(4)─ 善とは何か? が人生のテーマ

不思議なものですね。その当時言語化されていなかった強い感情も、こうして長い旅を経たのちきちんと言葉にできるものなんですね。心にぐっさり突き刺さったものは地下の水脈となり地中の一番深いところを脈々と流れ続けていたのですね。原点としてきちんと浮かび上がってきました。深すぎて見えなかったものの、いまがこれを言語化する最良のときであるようです。

↑前回。

前置き1  理論との関連性

過去エピソードと絡めて大洋感情について書いていますが、仮にこのような特徴を持つ人間がドンブロフスキの理論と直接の関連がなく全く無縁の話であることが明らかになったとしても、それはそれで構わないのです。私の目的は、私みたいな誰かに届くメッセージを綴ること。そんな人の気づきや救いとなる文章を書くことです。高次元に精神を高めていく人たちと万が一関連が薄くても問題ではありません。ただ、私の心理の核にある痛みは実存的うつと直結しています。積極的分離理論を、本来あるべき自分の姿への到達とみる場合、今回書くことはそこに直で関わってきます。

前置き2   宗教心の本質

また、私が二十年もの間特定の宗教組織と関わりを持ったことの背景には、この「大洋感情」という心理構造以外にも様々な外的要因が関係しています。

ひとつには家庭背景があると思います。先に少し触れた、私の生き方をさげすんでくる義理の兄に言われた言葉ですが、「宗教への関心の高さは頼れる父性の欠如から来ているよ」「心の弱さが原因だよ」「もっと理性的な強い大人になった方がいいんじゃないか」という指摘があります。こう言われ当時は心地よい思いはしませんでしたが、経緯としては確かにそうだと思っています。
安らげる場所のなかった私は、精神の庇護を求めてそこに属したのです。しかしこれそのものは何も悪くありません。善良さを愛し道理にかなう理性的な振る舞いや、科学的視点を重要視した上での信仰を成立させようとする、自己の利益の追求より他者を助ける活動に身を捧げている利他心の塊のような人々に囲まれた環境は、人間の悪に心を痛める私にとって癒し期間になったからです。ただし動機の大元はやはり大洋感情からきています。(偶像崇拝など伝統的なキリスト教の精神を完全否定する純朴な聖書研究者の組織でした。儀式ではなく述べ伝える行動こそが神の意思とし、私は開拓者として多くの時間をその活動に捧げてました。)
そして組織を離れる原因を作ったのもまた、この感情です。癒されて強くなったある日、利他心という物差しを通して見える本当の自分の生き方がここにはないことを感じ取ったからこそ離れたのです。それは精神の安楽から離脱することを意味する体験でしたが、やはりこの時も「より意味のある大きな何か」「より私らしい真理を探求する生き方」へと歩み出す時だと感じられたからでした。潮時を迎えたのですね。実際は想像以上に深い虚無との闘い、緩やかではあるものの精神的苦闘の始まりに過ぎませんでしたが。

──時を戻しまして。
大洋感情と関わるエピソードのうち今回は最大のものを書いておこうと思います。これが最も大きく私の生き方に影響した実存的な「人生の問い」であり、生涯をかけて向き合う個人的テーマ、魂の役割、極め付けの答えに向かわせる人間の命の意味、私の人格形成の最期に激突する痛みの話です。

ゆえに、たいへん重い内容です。

敏感過ぎる方は何卒自己防衛をお願いします。私自身書きあげるのにかなりパワーを消費しました。


『ベロ出しチョンマ』に自分を見る

・チョンマの死は、私の死。
・チョンマの死に様は、私の死に様。
・お前の命の意味はなんだ?
・お前はチョンマのように、自分が殺される時も他者のために何かをしようとする人間であれるか?
・チョンマのような人間として生きるにはどうすればよいのか?

小学三〜四年生頃と記憶しています(頭を殴られ続けたせいか、人間を小さいと思いすぎたせいか、私は過去の具体的なことをあまり覚えておらず、記憶力が頗る弱いです)。道徳の授業で扱われた民話の絵本ですがこの作品をご存知でしょうか?
親の離婚後、香川から高知へ引っ越してから私の通った小学校では『読書まつり』という校内の伝統行事があり、毎年本の物語をクラスごとに演技して披露するというイベントがありました。『花さき山』をクラスで演じるさい歌ったメロディーを今でも口ずさんでしまいます。……それはいいとして、その『花さき山』と同じ作者の斎藤隆介氏の絵本です。

はりつけの刑にされた兄と妹。妹思いの兄、長松は、死の直前ベロッと舌を出し、妹を笑わせようとした。表題作他、15編の創作民話。

Amazonの説明より

以下のサイトにあらすじが書かれています。こちらを見てくださると概要がわかります。

このサイト主さまのように、受け取り方がライトな方も世の中にはたくさんいるのですね。私の受け止め方はかなり違っています。だからここが私の「核」なのです。
ひょっとしたら、今の小学生にこれを授業で扱うのは内容が重すぎて賛否両論あると思います。当時もあったのだと思います。とはいえ有無を言わさず私の学校ではこれが扱われました。読者の中で同じ授業を受けた人もいらっしゃると思います。

重税に苦しむ農民が直訴したことで見せしめの為に一家が処罰を受けますが、純真な幼い子供までもが磔にされ処刑されるシーンが描かれています。  

◆物語の概略

チョンマこと長松は、三歳の妹の霜焼けに薬を塗るとき、痛がる妹を慰めるためにいつも眉をハの字に曲げ面白い顔をして笑わせてあげていました。親は夜毎集まる村人たちと圧政に抗議する計画を立てているのですが、不穏な様子をチョンマは感じ取りつつも、子供らしく生きていました。ある日突然、家に役人がなだれ込み、一家の罪状と処罰が告げられ家族は全員、無残にも皆殺しの刑に処されることになりました。親は子供に何も話さず、仲間と共に御上に直訴していたのですね。突然、チョンマと妹は無邪気な子供時代を終えて磔にされる運命となりました。妹は三歳、チョンマも十歳にも満たない子供ですよ。霜焼けのときよりも泣き叫ぶ妹をなんとか宥めてあげようとして、チョンマはこれまでしていたように眉を下げて面白い顔を妹に向けたまま槍で突き刺されて死にました。

◆物語の主題

以下のサイトにあるように、この話はストーリーの主題がどこにあるのか明確には文章で表されていません。ゆえに多様な視点でテーマ性を紐解くことができ、人によって感想が様々になります。感想はみな同じではないようです。(長年検索もできなかったのですが)私が調べたところ、とある高知能者の方などは、この本の元となった史実性に信憑性が薄いことからそもそもが考慮に値しない話だという感想まで持たれるようです。知能が高い人というのはいつも正解こそが全てで感情や人の心は二の次なのでしょうか。世界は繋がっているのに瞬間瞬間で一々線引きするのでしょうか。

主題の深読みの多さと、様々な感想について。大体想像でわかるとは思いますがもし見たい方はこちら。↓

チョンマの死は、私の死
チョンマの姿は、未来の私の姿

クラスの反応は主に、「チョンマや妹がかわいそう」「昔の農民はこんなに苦しんだんだな」「つらすぎる」「悲しい話だね」「思いやりは大切だね」……そんなところだったと思います。
物語を読んだあと、先生が何か大切なことを語っていたような気もします。クラスメイトたちは各々人情味ある何らかの感想を述べあっていたような気もします。あまり覚えていません。休み時間のチャイムが鳴って授業が終わり、いつものように時間が動き始め、私は友達に引っ張られて一緒に手を洗いに行ったのを覚えています。(お手洗いに行ったということか?)洗い場の蛇口やステンレスの色と窓の外の風景が目に焼き付いています。友達は何か言っていました。とても日常的なことを。周りの子たちは手洗い場でお喋りに興じ始めました。そして冗談も飛びかって笑ってさえいたのです。

衝撃でした。私にとってチョンマの話は、通り過ぎることができないものでした。それは自分の「心」が死んだのと同じこと。チョンマの死は私自身の死でした。私は呆然としてました。周りの子たちと反応が違いすぎて当惑しました。心臓の中に重たい石が投げ込まれ、それは重くて苦しくて息ができないほどでした。

実話をもとに話が作られたという背景がありますが、これが実話どおりかどうか、そんなことは関係ないです。世の中に現実にこういうことは存在してるじゃないですか。だから私にとっては、これは過酷な現実そのものを突きつけられたのであり、人の世とはこういうものだということであり、つまり自分が殺されたことと同じであり、また自分は「このように」死ぬのだということ、自分がそこ(自分に死が突きつけられたときでも自分より苦しい誰かを思いやる行動を決して忘れずにいる)へ行くことを示されているように感じられました。年月でいえばもう大昔の出来事なのですが、この時の衝撃は今も何より濃く心に浮かび上がってきます。だからそのとき何を感じたかもくっきり覚えているのです。

自然に考えて、目の前で泣き叫ぶ無実の幼い子供を大人が殺せますか? 権力を手にした上の立場の人間が、法律や規則という問答無用の正義の力を借りて堂々と非道な行為をする──大多数が正しいと認めた基準さえあれば、人は人間の心を失った悪魔にもなれる。できるんですよ、社会の大多数がこれを批判しない限り。上が下を支配する構図、世の中に認識されたこの構図と基準に太刀打ちできるものはいません。社会構造の枠の中で無批判に従順に行動する者は人の形をした駒みたいなものです。処刑を執行する側の人間は、その行為を罪とは思わなくても良いのです。社会が罪から放免してくれるからです。
こんなことは世の中に、歴史の中に、繰り返されてきていることです。多くの人は大人になると社会構造の枠に飲み込まれてしまい、生きていくために本当に大切なものが見えなくなるのです。一番わかりやすい例で言えば、絶大な権力を手にした大人が金の亡者になったり裸の王様になったりする様子でしょうか。「自分はどのような心で生きていくのか?」「自分はどのような信念を持って生きる人間になりたいのか?」そんなことを人はやがて考えなくなるのです。社会が答えを提供してくれるので『自分で』は決して考えないのです。提供されたものを受け取るだけです。……私は子供でしたが、大人や社会というものはお金や権力に目が眩み一番大切な心を見失うのだと常に感じていたので、それを最悪の形で目の当たりにした出来事でした。

「かわいそう」「つらい話だ」などと言って、これを他人事として捉えられる他のみなの気持ちがわからなかった。「昔はこうだった」のように過去の話として片づけられる人の気持ちが私にはわからなかった。これから大人になっていけば、昔の時代とは違う形であろうと全く同じ構図となる出来事が自分や家族に起きる可能性があります。なぜなら社会はそういう大人(権力という虚空の概念に囚われて自己を誇大に評価する大人)たちが支配しており、権力行使のために法律や規則という大義名分を得てますます増長し強欲を満たすために意のままに振る舞う。その世界では、子供の命や誰かの純真な心すらも彼らの言葉ひとつに牛耳られています。この法則は昔だろうと今だろうと、架空の話だろうと現実の話だろうと、人の世に普通に見られている法則ではないですか。むろん劇的に改善されてきた問題は多々あることでしょう。それでも人間の本質は変わらないじゃないですか。
だから子供の頃突きつけられたこのチョンマの死は、私自身の死に他なりません。自分に降りかかる悲劇的な出来事の予言を受けたに違いなかったのです。人間を生きるとはこういうことだと示されたのです。私の心はこのとき死にました。絶望というより死んだのですね。

未来の私の姿はどこにある?

同時に私は考えました。チョンマのように、自分自身が殺されるときでも弱い立場の人間を思う心を身をもって表明できるか。私にはその勇気があるか? 自分のことより、自分よりもっと困っている誰かのことを思う心を最後までちゃんと失わずにいられるか。──お前は、死の間際でもチョンマのように思いやりを示せる人間であれるか?
私にはそんな問いが聞こえていました。「苦しさを知りながらも笑いながら生きる」それは私が目指す生き方なのでつまり究極の問いはこれなのだと感じたのです。自分が無惨に不条理に殺されるとしても人として一番尊い心を最後まで失わずにいられるか? 最期の最期までお前だけはそういう人間であれるか? それがお前の生きる課題だ。心の深部にくっきりと焼きごてを押されました。そうあれ、と。

生きることの過酷さを知ったけれど、過酷であってもそれこそが本当の行くべき道のように思えました。今振り返ってもやはりここが私の原点の心です。

学者や現実主義者に、そこまで自分を追い詰めることはないよ、それはなんとか症候群だよ、精神医学的に捉えればこれは……云々言われそうです。ラベル付け、そんなもの何の意味がありますか? 人間の心の底に存在する強烈な感情ほどの真実がいったい全体この世のどこにありますか?
もしも自分の人生が生涯を通して幸せに満ちていたとしましょう。しかしそれは本物ですか? たまたまそうあっただけに過ぎないでしょう。誘拐、人身売買、戦争、紛争、内戦やテロによる虐殺の犠牲者、快楽犯罪、性的暴力、……子供が搾取され殺される出来事は現実にいまたくさん起きてますよ。善良な人間が死を見るほどの苦痛に苛まれる出来事は実際に起きていますよ。確かに心配ごとの九割以上は「自分の身には」起きないかもしれません。自分ひとりの人生なら幸福として受け取れるでしょう。だから何ですか? 生き残りゲームで自分一人助かれば人間として心から幸せだと叫べるのですか? 自分が生き残れば人間の命が不幸から完全解放されたことになるのですか? 自分の身にだけたまたま不幸が起きなければ「幸福だ」「良い人生だった」と心底笑うことができるのですか? それは現実逃避とどこが違いますか? 世界の事実を認識してないことと何が違いますか? 自分は誰よりも現実を直視している! と胸を張って言えますか?

千個を超える人工衛星が地球の上を回っています。最新技術を載せた高精度カメラが宇宙から我々の生きるこの星の地表を捉えると何が映るか。アフリカの動物たちの弱肉強食の世界。過酷な南極大陸で生きる動物の生態。大洋を悠々と泳ぐ鯨の群れ。珊瑚礁の海にも魚たちの生態系がある。湿地帯や乾燥した平原では象やカバが生活している。その「動物たちの世界」にも弱者が餌食になる構図は普通に見られます。仔象は争う大人のオス象に踏みつけられ死ぬことだってあります。だからこれは自然の摂理だ、不条理な出来事は人間世界の真理なのだとして安易に片づけられるのですか?
でも待ってください。人類は動物から進化した。ホモ・サピエンスという種族だけが絶滅を免れ地上にぐんぐん拡がり子孫を残し繁栄してきました。巨大なコミュニティを統率できるようになったからです。認知革命が起き、農耕革命が起き、文字を手に入れて歴史が始まった。ダンバー数を遥かに超えた集団を、自分たちが生成した虚構の概念を共通の価値観として据えることで、バラバラの個々をひとつに繋ぎ合わせるとこに成功し、統御を果たして都市生活を成立させてきました。(一般的に信じられている虚構概念とは例えばお金や会社や権力や地位などです。)その結果、国家などの巨大組織を生物の中で人間だけが正常に機能させられるようになりました。この点で現代は、人類史の中で急速な発展を見ていますよね。革新的なIT技術が次の認知革命を起こしかねない勢いです。それもこれも前頭前野を持つ大脳が肥大化して抽象化思考を手に入れた人類が、実体のない概念を実体として成立させ共通の価値観を人間意識の支配者とし、人間個々の一生に大きく作用するよう隅々まで浸透させてきたからですよね。だから人類は社会がすでに作り出しているその価値観を無批判で受け入れ、再評価もせず、それを個人の人生観としてまるまる受け入れて日々を生きています。その発展した意識の中で、生物学的欲求(食べたい、寝たい、性欲を満たしたい、楽しい思いをしたい、安らぎたい、愛されたい)と、社会的評価(出世、地位と名誉の獲得、高い生活水準への到達、報酬の獲得、余裕のある暮らし)を求めて彷徨いながら人生を送ります。さらに高度に発展を遂げようと進化は加速するばかりです。
だとしても根本問題は変わらない。コミュニティー、組織、集団を必要とする社会的動物ホモ・サピエンスのもっとも優れた「善き」面は平和と調和、「悪しき」面は権力と強欲の暴走、それによって悪が善を殺すという図式です。最高度の技術と科学の時代に到達してもここは解決していません。その規模が家族単位であろうと、学校や会社、国家であろうと、高度に発展を遂げようとする進化の渦の中で人間が本来とるべき姿──それは人類に繁栄を可能にさせた──と、それに害を成す思想や行動との対決としてあいも変わらず存在していますよ。善と悪。これを非現実的な「勧善懲悪」などの言葉ひとつで片づけようと片付けまいと、現実、善良な人が殺され子供が搾取され続けていることに変わりはありません。

絶対的善など存在しないのだから、この世は運任せだから、自分に出来ることだけを精一杯やって慎ましい態度で幸せを享受して生きよう、これが正解だ。現代人の多くにとって真理はこんなところでしょう。発展した社会に属してその恩恵だけ受け取りながら、都合よく個人の命に関しては社会の問題と切り離す。そこに実存する痛みや叫びを聞こうともしない。人々はいつもこんなふうです。ホモ・サピエンスが建造した豪華で巨大な船に乗って快適な客室から外を眺めるだけで、船が向かっている先にあるものと、翻って船の先端部の構造を改めて確認しなくても優雅に進んでいけるのですね。だから人間社会が理想として求めるべき善に関して、さて、自身の心にはどんな理想があるか、それを考えることを放棄している。自分の客室が快適に保たれているかどうかだけが生きるテーマなのです。

では仮に、善を護るために社会に対して何が出来るのか? 個人の活動など微々たるものではないか。組織に属し世界的に影響を与える高潔な活動に身を投じない限り完全正義の生き方は果たせないではないか? それを成せもしないのに善と悪について語るのは身の程をわきまえない自己欺瞞や偽善行為だろう。……こんな考え方も非常に多いですよね! 疑問を持つ人間の心根を、結果とだけしか結びつけられない白黒な考え方です。行動の話をするならば、自分の能力に合わない活動に安直に手を出したところで自分も他者も骨折り損のくたびれ儲け、害を被るだけ。まずは自己理解を徹底して能力を見越した範囲で実際的な効果を持つ何かをなさなければならないはず。

しかし、そこが問題じゃないです。
まず、善に関して心に何があるかを見つめることが大事では? あなたは何を尊重し、どのような善を求めて生きてゆきたいのか?

私は二十年間、絶対的善を信じない無神論者や不可知論者である見知らぬ方々と面と向かってよく論じ合いました。不可知論者の意見は宇宙の真理として正解に近いのかもしれませんよね。でもそういう正誤の話ではないのです。正解を出す──それが何ですか。絶対善を強く求めて欲してもがき苦しみ尽くしたわけでもない人間が、経験もないのに頭だけで出す答えを押し付けるなんて、薄っぺらで反吐が出ます。真理に飢え乾く苦しみを知らない人が、たまたま先人が苦しみ抜いて出した答えを発見して、それに同意するだけで、まるで自分自身が体験して悟りを得たかのように陶酔してる人もこの世にたくさんいます。彼らの、人を見下す表情や気持ちの温度を長年肌身に感じて生きてきました。答えを知ってることが大切なのでなく、答えに「どうやって」辿り着くのか、その道筋、過程で自分が何を感じ取ったかが真実なのでは。それが純粋な経験であり、人間の究極の感情を知ること、生きる意味を知ること。

例え苦しくても人は真実、本物を見なきゃいけない。殺される善を傍観して涼しい顔で幸せを語る人にはなりたくない。私は、わが身に起きてないからそれを感情的に見過ごせるような人とは、魂レベルで分かち合うものが何もない。

大洋感情というのは、こんな人生を送らせます。途中で何度も辿り着く答え、そこに絶対を感じようと虚無を感じようと、過酷な人生の課題に向き合い、真の自分の姿──それは悲しみ苦しむ人の心を生々しく感じ取りそれに対して自分にできる何かを感じ取ること──に辿り着くための道筋を示してくれるのです。だから世間の人々とまったく違った価値観をもって生きることになりますね。私の周りにはこんなことを真剣に考えて胸を痛めている子供はおらず、本当に自分はこの星の子供なのかと思っていました。

ベロ出しチョンマは入り口に過ぎませんでした。現実の歴史に起きたホロコースト、戦争の犠牲者たち。人間というものは戦争による死者の数を見て(それは大量虐殺と何ら変わらないというのに)戦争という概念として捉えたとたん「歴史の一ページ」といとも冷静に受け止めますよ。その大量の人間たちの個々にカメラをフォーカスしてゆけば、そこにあるのは誰かの悲痛な叫びそのものが聞こえるはずなのに。それは理論や合理性では測れない、人間の強い感情や恐怖です。本質なんか通用しない実存です。
一人暮らしを始めた16歳のときアパートの部屋で昔の白黒ドラマ『私は貝になりたかった』を観て、人の命の意味について何日も何日も考え続けました。苦しかった。人は誰も愛され必要とされていることを一人一人が心ゆくまで感じられなければならない。それが何より大事なことであるはず。子を持つ親ですらこの事実を理解できない者が世の中沢山います。幼い子供を平気で精神的に虐げる有り様です。過去、この本物を理解できない人々により尊厳まで奪われて亡くなっていった人間の何と多いことか。

人はみな最後、真の人間性を試される

私は子供の頃からずっとこう思ってきたんですね。今どうあろうと、人生のどこかで究極の場面に出会し、そこで人は誰も真の人間性が試されるに違いない、と。
あなたは自分のことだけを考える人間なのか、それとも自分より苦しむ誰かのことを思い行動を起こせる人なのか、と。人間として堕ちるのか、上がるのか。人間として生まれた以上、それをどこかで必ず問われるはずだと小さな頃から確信していました。

カウンセラーなどに話せばきっと「あなたは幼い頃目の前で誰かが亡くなるのを見て助けられなかった経験を持っていませんか? その時の罪悪感が意識の奥に潜んでいるのでは?」などと言いかねないですね。しかし申し訳ないことながら、私自身は何ひとつそのような経験をしていないです。幸いにも私は個人の経験として大切な誰かを亡くして悲しむという体験を子供時代にしていない。小学生から中学生まで虐めに遭ったことも一度もない。だけど心はいつも報われない誰かと共にあり、誰かの悲しみを感受しながら生きてきました。クラスも普通クラスでなく擁護クラスに入りたかった。困っている人たちの側にいたかった。泣いてる誰かの心に常に接していたかった。そうでなければ自分じゃなかった。
一番感じたのは、歴史の中で人としての尊厳を奪われ苦しんで亡くなった人たちのこと。人間は試されるために生きてるとしたら、彼らにももう一度命のチャンスが与えられたらどんなにいいだろう。ただ一つ願いが叶うならそれが欲しかった。……だから、聖書にあるハルマゲドンという神による裁きの日と死者の復活の話を見過ごすことができなかった。この感情に従ってとことんまで調べてみたかった。本当だと思えたならそれを信じて生きようと思った。中でも特に復活は、苦しんで亡くなった人たちのことを思い過ぎる私の深部にあるうつの鎮痛剤として相当に効きました。先にも書いたようにこれは私には必要な処置だったのですね、きっと。私のことを「かわいそうな人だ」と世界中の人が笑おうとも。どう思われてもいいです。それが私なので。時が経ち、遂に自分で信仰を否定したときは、彼らが報われないという現実を突きつけられ、私は絶叫しました。それでも真理を求めて暗闇の中を進んでゆかねばなりませんでした。

歴史の中にいる献身的英雄

世間の人々と違うこの違和感を癒してくれたのは、歴史の中にいる、真理を知ろうと必死に生きてきた人たちの存在。命への問いに真摯に向き合う彼らは苦しみを知るゆえに、同じ苦しみを持つ人々を助けようと奮闘しました。いちいち名前をあげる必要はないでしょう。そんな聡明で賢く理想と信念を持ち慈愛に満ちた人々の存在を思いみるときだけは私の心に一条の光が差し込みました。そうした人物たちは、決して多数派の中にはいません。本当にそれは少数派の中の少数派であり稀なる人々です。本物や真実を訴えてる人は多数派に罵られ、自由を奪われ、処刑されてさえきました。真理は多数派の中には存在しない。これだけは子供の頃から変わらずに今も信じていますね。

ここまで読んで、私のこの本との出会い、これはある種のトラウマだとみなす方もいるかもしれません。しかしそうではないです。これは、見るのを避けるべき現実ではなく、見るべき現実だからです。私の激しい感情からきています。感情が激しいからといってこれは病気ではありません。
そしてこの実存的うつを発生させてしまう激しい興奮性を持つ人間は、みなまったく同じエピソード体験をするわけではなく、個々に特徴があるかもしれません。私は自我境界が薄く共感性が強く感情が激しい人間です。悪への怒りが激しいです。行動に表れないので普段は憂いとして心に貼り付いており外面は穏やかな人と思われますが、善人を苦しめる悪への怒りに満ちている人間です。

チョンマの話は何だったのか?

この話を通して、子供の私は私なりに世界の構図を認識したのだと思います。人間の心が生み出すもっとも深い悪を見たのだと思います。人間の暮らしの中で生ずるもっとも避けるべき問題を見て、生きるとはどういうことかを知ったのです。私自身がどう生きるかを考え始めたのです。私はどんな人間になるのかを問われ始めたのです。

世界ぜんたいが幸せにならないうちは、
個人の幸福はあり得ない。

問題はやはりここに集結します。これは不要な心の傷などではなく、本当の心、原点、真理を求め続ける心であり、これが「大洋感情」です。

激しい感情の興奮性を持つ人たちへ

これを読んで、私も同じだと思った方、同じだったから世間の人たちとまったく違うスケール感をもって生きることを進めてきた方、……苦しかったですよね。個人の生活レベルでは楽しいことが沢山あっても、いや、きっとその生活も過酷な試練の連続だったと思いますが、この心の深層部にある痛みを癒すのは難しく思ってきましたよね、きっと。無くしてはいけないと思ってきましたよね。だってこれが自分自身だから。

でも大丈夫です。死の恐怖、善人の苦しみを思う心の痛み、これを同じように強く感じている子供や大人は、数は少ないけどこの世に確実に存在しています。この痛みをわかってくれる方がいて、これは正しい痛みだと言ってくれています。そして自身の力でこれを治癒する道があることも教えてくれています。それが「積極的分離理論」、ドンブロフスキという先生が構築してくださった理論です。ただしこれは方法論ではありません。乗り越える力を出すのは自分であることを教えてくれるものです。必要な力は自分の内面に起こる強い意思と欲動です。感情的痛みが強いぶん、そこを離れるときも強い情動が起きます。

チョンマは私に、私だけは、苦しんで亡くなった人の心の声が聴き取れる人であるようにと、自分のあるべき姿と役割を伝えてくれました。忘れそうになった時期も正直あり、私は分離段階で退行しかけた経験も持っています。でもこの心だけは無くしたくない。他の人がこれを忘れて生きていようと私だけは忘れてはならない。今は元の心に戻ってきました。

そして痛みを感じながら生きた今、ほんとうの善は、主観や客観で捉える何かではないことが分かり始めています。それは善を思いながら生きてきた自分自身の体験が伝えてくれる実体のある感覚です。日本初の哲学者西田幾多郎が述べた『純粋体験』に近いもので、自分の体験そのもので獲得してゆくのです。既存の教義や思想の中にそれが存在してるわけではなく、誰かから示されて受け取るものでなく、自分の中にほんとうの善を掴む力があると思うので、痛みに負けないで立ち向かい、自らの力で掴んでほしいです。
あなたには見えているのですよね。自分が向かう道が。あなたは子供の頃から知っているのです、自分がどれほど利他心を発揮できどこまで無私に近づいていける人間か。また自分が果たすべき役割も見え始めています。それは世界中の人たちの理想やビジョンとは大きく違っていますが、内面に息づく強い創造的本能に目を背けずいれば到達できるはずなのです。
仲間がいることを知り、仲間と共に情報を熱心に学び、生き方のビジョンを明確にし、役割を探し、痛みを忘れず、勇気を失わず、自分らしく生きていきましょう。
──人はどうあるべきか?を問うことは他者ではなく自分がどのように生きるか?を問うこと。

過去エピソードを交えた感情的な文章にお付き合い頂いた方、ここまで読んでくださり誠にありがとうございました。もし次回があれば、この感情を持つ者に起こる美への過剰な興奮性と自然と一体化した時の巨大な喜びについて書いてみます。



お読み頂き誠にありがとうございます。お金は貴方にとって大切な人の健康や幸福のためにお使いください!貴方の幸せを願っています。