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積極的分離をする人とは?

予定変更して少し早めた投稿になります。
積極的分離理論(TPD)について、今の私が「こういうことだ」と捉えていることを大洋感情シリーズの後に投稿するつもりでしたが、並行して投稿していこうかと思いました。
今no+e界隈で一定数の方々がこの理論についてご自身の見解を熱心に発信されており、妙な熱を勝手に感知してしまい、また私が「痛み」や「苦悩」などのワードを書き過ぎるせいで一部の方々を心配させたり、場合によっては重苦しい気持ちにさせたりしているようにも思いまして、一旦私の捉え方の概要をシェアしておこうと考えました。ただしこれは、理論について語る本元の投稿の「前置き」として書いた文章です。きちんとした基本原理はこれの後に書こうと思っています。(表現の推敲とイラスト図解制作に時間を要します汗)

つまり本元の投稿の前置きではあるものの、私自身の理解についていくらかは伝えられるかなと思います。その前に……。

注意点:
この積極的分離理論(TPD)は、刺激増幅受容性(OE)、中でもドンブロフスキが「より豊かな形態」と呼び、高度な人格発達と創造性の大きな可能性をもたらす三つのOE(知性、想像性、情動性)が備わっている人にとって特に重要となる理論です。よって、私が書く文章の体感的理解、実感として獲得できる理解は、これを持つ人以外には本質的に伝わらない可能性もあります。しかし人類全体の未来を明るい方向へ切り拓く、真に価値ある理論と思うからこそ書いています。

独自の解説入り:
ともすると余計な注釈になりますが、本題の前の前に、今読んでる本の影響を受けて独特な解説を少しだけ試みます。これは偉大な心理学者ユングの内面で分たれていた二つの人格から概念を拝借しており、なぜ借りるかというと、ユングの持っていたこれは創造的本能そのものだと私が感じたことによります。(これ関連の投稿も後日致します。)

分離する二つの人格
No.1……社会適合するための人格。実生活を大事にする。生物的本能からくる欲求や、社会的立場を元にした欲求と共にある。
No.2……No.1を批判し破壊しようとする巨大な精神。主軸が実生活にはない。無意識の奥に潜み、自己を精神の深淵部、その先にある高みの領域へ引っ張り上げようとする破壊神の役割を持つ。私が普段「創造的本能」と呼ぶもの。諸刃の剣。過度の興奮性、情動や欲動(感受性が高く高敏感性の人が抱える破壊的なまでの情動の激しさ、自己変革への欲求、矛盾への耐性、新奇な世界への好奇心など)を持つ。

人格分離の感覚及びNo.2人格は誰でも持っているが、濃度やパワーが人それぞれ違う。巨大なNo.2を持っていると、精神の不安定さや場合によっては精神が病んでしまう状態を避けられない。不安定さと痛みは不可避。巨大なNo.2を持つ人は人類の中のごく一部。このNo.1と巨大なNo.2を平和的に調和させ統合させるには長い長い年月がかかる。なぜならユングいわく「体験して、知る」必要があるから。多くの人は「知って、信じる」(科学や宗教やスピリチュアルや理論などを調べて理解して納得して生きる)をしている。これはそこまで長い年月がなくても可能。「体験して、知る」場合は、非常に強い感情体験を伴う精神の痛みとの闘いを要する。尋常でない勇気が必要。だからこの勇気を分離感覚の薄い方々に強いるのは酷なことである。強いてはならない。それゆえに分離感覚が激しい人間は孤独である。

ちなみに、ユングとTPDの関わりについての考察はここでは致しません。では、以下。投稿予定だった記事になります。いつもの如く長ったらしい前置きから入ってますがご寛恕ください。


知性はIQのことか:
分離には、知性と精神性が大きく関わります。知性とはIQ(知能指数)のことでしょうか?
ごく一般的にいって、知能や才能が高い人はgiftedと呼ばれています。ただし積極的分離は、知能の高さのみでするわけではありません。今や一般に知られるようになった(?)知的能力指数の分類においても、知能指数よりむしろ感情知性(共感性をもって他者との調和を図る心の知能指数)や、逆境指数(逆境に対処する知的能力や精神パワー)の方がより重要になるはずです。

知性のすべてをIQのみで測ることはできない。

後ほどまとめますが、IQの高さは、分離する人の複数ある資質のうちの一部と言えます。ドンブロフスキが感情の発達のない知性に警告を与えてきたように、発達の可能性には感情知性、感情的欲動を伴う知性が大きく関わっていると私は捉えています。したがってIQの高さと積極的分離理論に相関関係はありますが、それがすべてではありません。高知能者のすべてが自動的に分離する人とはなりません。

giftedについて:
これは主にgiftedのための理論と思い込んでいる方もいるかと思いますが、giftedに限ってはいません。関わりが深いのは、気質分類ラベルでいえば、gifted(単なる高知能者でなく知性と精神性の高さと複雑さと豊かさを持つ人)、HSS型HSP(リスクを負う意欲と激しい創造的本能を持つ人)、HSP(非常に強い共感力と想像力と研究心を持つ人)と言えるはずです。なぜならOEが分離のための資質として必須であり、これらのどれかに該当する人たちにはOEが見られるからですね。特に冒頭で述べた三つのOEが必要です。

なおgiftedについては世間で各発信者が様々に解釈し、自称し、情報発信し、活動されているようですが、私個人がこの呼称に関する「真実」として捉えている発信は、以下の方々の記事や情報提供にあります。マガジンへのリンクを掲載させていただきました。(ご挨拶もせず勝手にリンクを貼り申し訳ありません。)真剣に探求したい意欲のある方はぜひとも以下の方々の記事をご覧ください。

私のほうがただただ一方的にお世話になっており、たいへん貴重な学びを得ています。また精神や心理や社会に関わる私自身の解釈を評価する機会にもなっており、さらなる理解を深めたり、新たな視点を加えたりできていて、この上なく貴重な情報を得られています。百冊の本を読むより学びが深いです。気持ちが高まりすぎて軽く声もかけられない状態です。この場を借りて心より感謝を申し上げます。飼い慣らしたキツネさまは私の心の支えとなる存在でもあります。(学んでいるからといって私自身はgiftedではありません。私の場合はもう見事なまでに彼らの特徴である学力の高さや知的能力、アカデミックな人生と〝無縁すぎる〟人間です。一種のアレルギーを覚えるほどに笑  この私の感覚の強さは、まともな家庭で学生生活や社会生活を送ってきた人間にはほぼわかって頂けないと思うので、いずれ『あなたの知らない世界』という題で何もかもがアウトサイダーだった環境の奇怪さと愉快さについて書いてみたいと思います‪^ ^‬)

ソース:
私が積極的分離理論に本格的に触れたのは、『傷つきやすいのに刺激を求める人たち』というトレイシー・クーパー博士の著書、HSS型HSPの研究本に載っている記述でした。そこに、強い創造的本能を持つHSS型HSPが人生を意義あるものとするために役立つ理論、理解しておくべき理論として出てきたからです。↓


また、皆さまが最も目を通されているであろう日本のウィキペディアや情報発信サイトについては、私はあまり熱心に見ていません。上記の本の情報と本にある出典サイトからの情報が主な理解を得た場所です。だから他の方と少しズレがあるかもしれません。エリザベス・マイカ博士など、ネオ・ドンブロフスキアンの方々の解釈が入っていると思います。

これらと上記のno+eクリエイターの方々による情報配信により、既にわかりやすい解説が読めるので、私などが書く必要性があるのかわかりません。しかし鈍重ながらも平易な表現に徹した私の解説もそれなりに価値があると思い、特に強度HSS型HSPを自覚する方のためにも、あえて自分の言葉に直しこれを投稿します。

やっと本題。笑

※解説調になっていますが、あくまでも「私が個人的に解釈している」理論の捉え方に過ぎません。まだ表現の推敲が足りていないため、説明の過不足や誤謬がある可能性はゼロではないです。

積極的分離理論の本質

※理論のアウトラインではなく、クオリアを得る手がかりから切り出してみる。

積極的崩壊理論(TPD)は、ポーランドの精神科医および心理学者であるカジミエシュ・ドンブロフスキ(1902〜1980)によって策定された人格形成の段階を示した理論です。道徳的行為に焦点が置かれています。ただしほとんどの方が想像する「人が努力により人格を高めていく」「頑張ってコツコツ築いていく人格」という一般的な人間成長の概念とはまったく違った性質のものです。
(人格の定義などは今後解説しますが今回はざっと概要を掴む形で。)
これは最も高次の人格者になるよう生まれついた者が、「本来のあるべき姿」へと近づいていくための段階を示したものなのですね。人間のための理論ではあるものの、高次のレベルへ到達できる可能性を持って生まれてきた人が辿る特異な人生の道筋とも言えるのです。

そういえる理由は、主に

・理論構築に至った経緯
・到達のために必要な先天的資質

この二点からわかります。

なぜこの理論ができたのか? 背景を知ることで、これが一部の限られた人間のために示された道筋であることがよくわかります。
ドンブロフスキは、悲惨な戦争体験を通して、人間には人格の段階(一番低いものから一番高いものまで)があることを理解しました。人間性の全体像を捉えることでその開きの大きさを理解したということです。

簡単に説明するとこういうことです。実存危機が迫る逆境に置かれたとき、人は尋常でない苦しみを経験しますよね。ある人は、自分の苦境を打開しようと略奪したり暴行を働いたり、過激な暴力であるかないかにかかわりなく何らかの利己的行為により他者から搾取する道を選びます。またある人は他者から奪おうとはしませんが、苦しみにより精神を病み再起不能になったりしますし、挙句自死を選択してしまう人もいます。戦争によるトラウマで苦しむ人々の想像を絶する苦しみをあなたも何処かで見聞きしたことがあるでしょう。またさらに、体験者の多くは何らかの手段で苦しみをひたすら癒していくことにより、元の精神状態へと回復しやがて順境へと戻ります。治療、リハビリ、時に精神の鎮痛剤となる特定の思想への傾倒などが、一番一般的に理解されやすいパターンでしょう。

しかしこの恐ろしい逆境体験(実存的危機、生死が関わる痛み)を通して、それを乗り越え、さらには逆境体験以前より人格を高めてしまう人が一部にいるのです。その人たちは以前当然の権利として持っていた欲求(生物的本能に導かれる欲求)が低くなっており、より他者のために何かを成そうとする意欲に満ち、本人の心に「自己の倫理 」として息づく、高い道徳基準に突き動かされ行動する人へと変化しています。自分にも他人にも利益をもたらす人、また心からそれを自分らしい生き方として自由と喜びを感じながら行う人、になってしまうのです。すごいことですよね!

ここで少し目を閉じて考えてみてください。あなたがもし、自分や家族や仲間を含め尊厳ある人間の命が大量に無残に奪われていく光景を目の当たりにしたとき、自分や愛する者がその犠牲者となる現実に直面するとき、精神のダメージをどれほど受けますか。その体験をすることで、以前より利他心に満ちた強い人格者へと変化することはできそうでしょうか? 「できる」と言い切れる人がこの世にどれほどいるでしょう?
順境にあってさえ人々は自己の権利を守るために必死ですよ。自己の当然の権利を侵そうとする相手に怒り、苛立ち、場合によっては憎しみ、疎み、争いを続けています。日本という治安の良い国に生まれ、深刻な事情を抱える他国と比較して非常に恵まれているはずの多くの人間が「生きづらい」と日々嘆いて生きていますよ。実存危機にないだけでも人生丸儲けと言えるはずなのに「私は恵まれている」と公言している人はどれほどいますか? みな自分の生きづらさにばかり注目していますよ。

話を戻しましょう。このように、同じ逆境体験をしても人はそれぞれの反応を見せます。当然です。人は皆違いますし、人間社会というものは善良な人や悪人やどちらでもない人や、様々な人格レベルの人間で成り立っています(多様的に多層的に成立するのが人間社会ですから)。この中でドンブロフスキは、非常な苦しみの体験を尋常でないパワーで潜り抜けたあと以前より人間性の輝きを増してしまう人、逆境をバネにして最高度の人格者へと変貌を遂げてしまう人、言わば「とんでもないスーパーな人」に注目したわけです。

ほとんどの人間は、実存危機を体験すれば精神が病み、トラウマを治癒して元の元気を取り戻すことでいっぱいいっぱいではありませんか?  危機をバネにしてより優れた人物へと変化するなんてそうそうできるものではないのです。歴史上にはそういう稀な人がいますが、物語や映画などでも時々苦境を乗り越えた高い人格者が命を賭けて人を救おうとする行為が描かれることがありますね。多くの人がその強く深い人間性に胸を打たれ、感動に打ち震えます。しばらく現実に戻れないほどに心が揺さぶられることもあるでしょう。しかし自分がそうあれるかと問われれば、瞬時に肯定できる人がどれほどいますか?

さて、彼らと他の人との間にある違いは何でしょう。
ドンブロフスキはそれを観察し研究したのです。そして、この特異な人々が最高レベルへ向けて辿ることになる精神の段階を五段階に分けて理論としました。
つまりこの理論は、人間誰しもが漸進的に一方向へ進んで行くための、つまり努力や研鑽を重ねコツコツ人格を高めていくための先の見えない道筋ではなく、まず最高度の人格段階ありきとした上で、その最高地点へと近づいていくための道筋を示している理論なのです。頂点から逆算的に構築されています。そのように生まれついた人間が、既に据えられている最高度レベル(二次の統合:マルチレベルの段階)へと到達するまでの長い道のりを示したものです。

全人類が五段階のどこかに必ず当てはまっていますから、そういう意味では「すべての人に当てはまる理論」です。しかし全人類がレベル5へ行けることはあり得ないので、そういう意味で捉えるなら「特殊な人々のための理論」となります。
(人類の85%がレベル1にいるとの情報も見ましたが、ドンブロフスキによれば人類の65%がレベル1かレベル2だそうです。つまりこの理論における発達の可能性を秘めている人は35%であり、高次の段階へ進むのはそれよりも少ない人々となります。)

下記書籍より出典サイトの図解を元に作成
(多分に私的表現を含みます)

※この時点で、優劣感情を刺激された人、上下意識を感じたり、優越感や逆に劣等感でもやもやした人は、このあと読むのをお勧めしません。例えば、アヒルも白鳥もどちらも同等の価値ある鳥であることがわかる人だけ進んでください。また、何か重苦しいものを感じた人もやめた方が良いです。外側から高潔な精神を強いられて努力で何かを成す人の話ではありません。あなたには幸せになる権利があります。精神を安定させて生きる権利があります。問題ない方だけ続きをどうぞ。

『みにくいアヒルの子』で喩えてみましょうか。アヒルの子は最初他のアヒルの子と暮らしていますよね。他のアヒルの子はみな将来、成鳥のアヒルになります。しかし主人公のアヒルの子は、今の見た目はアヒルのようでも将来、白鳥になります。アヒルより大きな鳥になる潜在能力を秘めているといえるのです。一見似通った子供ですが、最終的に到達する成鳥の姿が別物です。この理論は、言わば最後白鳥になるみにくいアヒルの子の理論とも言えると思っています。
周りとの違いを感じながら成長しますが、最後は周りの子より大きな鳥になります。ただし、白鳥というと一見立派で輝かしい存在に思えるかもしれません。しかしその生涯の道のりはアヒルに成長する子よりもずっと過酷です。恐ろしく苦しく険しく、実存的苦悩を経験して乗り越えていく必要があり、簡単に辿れるものではありません。言ってみれば、白鳥の遺伝子を持たないアヒルがアヒルへと成長する生涯の方がずっとずっと「楽で」「幸せな」生涯なのです。ただし白鳥の遺伝子を持って生まれたアヒルの子には、たとえ過酷であってもこの道を行くことこそ、本来の姿へ到達する道に違いないのです。自分らしさを感じて完全自由を得られる生き方であるからこそ、痛みを恐れず、自分を信じて進むほうがずっと優れているといえるのです。
自由とは実存的自由、実存的解放のことです。つまりこれを得るには束縛の根源である実存的苦悩の実体を知る他にありません。痛みなくして得るものなし、です。

では、自分が白鳥であるかどうかはどうやって知ることができるでしょう。それを続く記事で考えます。その前に、質問コーナーを設けました。

Q  :誰でも苦しみは経験しますよね? もがき苦しみそれを乗り越えて成長することを繰り返して生きていますよ。分離する人が経験する実存的苦悩とそれと何が違うのですか?

A  :あなたが苦しんでいるのは、社会に向けての悩みです。社会で「よし」とされているもの、例えば元気でいること、上手くやること、正しくあること、成果を出すこと、と自分の思考や感情を同調させることに悩み、弱さや動揺や矛盾感をどう処理すればよいのか苦しんでいるのではないでしょうか? 大抵いま世間で生きづらさと呼ばれているものはこれです。
社会適合のしづらさ、社会的に価値ある者になれていない、親や友人や社会から認められ評価される行動や生き方となっていないことから来る悔しさや恥辱、自尊心の欠如、自己卑下、他者との比較により感じる劣等感、嫉妬、怒り、孤独、葛藤。他者への怒り、自責や他責の念。これには意識的なものも無意識的なものもあります。それにどう折り合いをつけ乗り越えるか、の悩みや苦しみだと思います。
必ずしも肉体的に精神的に実存の危機となるほどの恐怖、実存的苦痛や不安まではいかない苦しみです。もちろんそれらの苦しみを超えるにも大きな精神の飛躍が必要です。それもいわば一種の分離と統合のプロセスです。しかしこの理論でいうところの分離と統合との違いは、この実存的な痛みにあります。

先にも述べたとおり、最終的には実存の自由と喜びと解放へと到達する理論のことなので、実存的苦悩の体験を避けて語れる理論ではないはずです。分離は、実存的な問いに繋がる激しい内部の葛藤、危機、道徳的ジレンマからなる精神神経症を通じて展開されます。

理想、利他心、自己の倫理

分離を可能にする生得的な資質には過度激動[刺激増幅受容性、過興奮性](OE)があります。さらに他の要素として特別な才能や能力(知能の高さや音楽や芸術的才能など)があります。第三の要素である意識的な欲動(解消のダイナミズム、発達のダイナミズム※図解中青色文字)も重要です。実存的苦痛と共にこれらも改めてまとめて書いてみたいですが、その前にごく個人的な視点からひとつ書いておきたい私的観点があります。

積極的分離を辿る人に見られる大きな特徴の一つだと私が思えるのは、若い頃から世界への理想を抱いていることではないでしょうか。なぜそう思うかというと、多様性を持ち多層的に成り立つ世界への深く複雑な認識が、分離に必要だと思うからです。多くのひとにとって「理想」とは、自分が社会的に価値のある人になること、社会で成功すること、個人的な夢を叶えること、など自分が誰かに認められ評価され守られ誉められる範囲内で何かを成し遂げることです。または社会的成功者にならずとも、日々の生活を快適に過ごして命を全うすること、ささやかな喜びを守り生きていくこと、自分らしい世界を築きその中で幸せになること、などです。

自分や家族の権利が守られ自分や愛する人が利益を得ることが主体となっています。一方ここでいう理想とは、自分の利得とは絡まない、世界の完全なる平和や調和を強く望む心です。人間社会のすべてがこうあるのが自然なことである、という自分なりの強いビジョンを子供の頃から(早熟な感性で掴み取って)感情的に強く感じているのです。……え? でも世界の平和や調和なら誰しも望んでいるのでそれは誰でも持っているじゃないか、と思うかもしれません。しかしそれは自己の権利を確保した上での「社会が掲げる理想」にあなたが「同意」しているだけではないでしょうか。自己の権利と自由の確保より前にある、世界中から嘲笑され反対されたとしてもこれを貫きたいと願う自分自身の本心とまで言えるでしょうか。

また「それは理想論だ。現実は甘くないことを認めるのが実際的で賢明で道理をわきまえた人の道だろう」「そんな理想を抱くだけ時間の無駄だ」「理想はきれいごとにすぎない」と思うかもしれません。もしこのように強い感情(悪への怒り)を覚えることなく、現実に対し平静に線引きをして生きてゆける人は、この種の苦しみを経験することはないと思います。そういう人は生死の境目を漂う、あるいは漂いかねないほどの痛みや葛藤を体験することなく、積極的分離をしなくても問題なく生きていけるという意味で、安定感のある幸せな人生を送っていく人なのです。

また、当然のことながらこれは単に地位や名誉を得る社会的立場、社会的成功者や自分の欲求を叶えることを成し遂げた人、という意味ではないことがわかります。その人は道徳的に高い基準を持ち、利他心に根ざした行動をとっているはずです。本物の自分へ到達する道といっても、自分の利己的願望を叶えるための自己実現を果たす、自己顕示欲を満たすための個性化、身勝手な自分らしさの達成などではありません。
ただしこの利他心というものは「こうあるべき論」の奴隷になるという意味ではありません!!

自分らしさを発揮した結果が、自ずと、他者の益を望む道に繋がっている、ということにすぎません。闇雲に自制心を働かせ他者に与えることが善である、などのように「絶対的価値観」として既に設定された、世間で善として据えられている基準に自己を合わせようとするわけでなく、自分の内面から生まれ育った倫理観のもとに「あらゆる人にとって最善の方法」を探った結果が、自然と、社会から見れば道徳的行為、利他的行為となってしまっているということです。ここを間違えると理論の本質を履き違えてしまいます。

つまり、「こうあるべき」とされる既存の倫理、規範、道徳的基準、宗教教義、人道的ルール、価値観などに合わせ、評価という見返りを得ようとする行動ではなく、自分らしさそのものを発揮したいという願いを満たすということです。誰しも道徳者でありたいと思うものですが、もしそう行動すれば、誤解や不評や嘲笑や不理解や排他や攻撃というリスクを負うとしたなら、ほとんどの方はそこまでして貫きたいとは思わないのではないでしょうか?  自分は上中下の「中」で良いと思うのです。これが、その「立派な行為」と捉えるものが「自己の倫理」とは呼べない証拠です。何かの慈善団体や宗教組織に属していようがいまいが、外側の形式に関係なく、他者から定義された倫理基準に従っているのか、それとも痛みを乗り越える際自身で創った倫理基準に従っているのか、の違いです。その利他精神は自分で打ち立てた自律心のことです。本当に自分らしく振る舞っているか、という意味です。

つまるところ積極的分離をする人には一般的基準とはかけ離れた内面的特徴があります。道理にかなった行動(善と呼べるもの)に関し強い主体性を持ち自律心を持ち、人生の早い段階から高い理想を抱き、オリジナルのビジョンを抱え、それに対し、譲れないほどの強い感情を抱いている人が辿ることになります。

それゆえに、自分の幸せや安楽に主体を置いて生きようとする多くの人や社会の一般的価値観と自分の生き方が相容れず、多くの激しい葛藤が起こり苦しみます。そういう人にとってこの積極的分離は、この葛藤を乗り越える最善の方法と言えるわけです。段階を辿ることで、葛藤を乗り越え、それを受容し、統合へと進み、本来あるべき姿、生まれ持った自由の翼を広げる瞬間へと近づいていくのです。

本来自分のあるべき姿へ到達する


まだ他にも書くべきことはあるのですが、以上、私が捉えている積極的分離理論の本質部分のイメージです。……今回は必要な先天的資質や各段階の特徴の話はしていません。この理論の特異性を掴めるヒントを書いてみました。

今後、積極的分離理論の各段階(レベル1からレベル5まで)における特徴を私なりに表してみたいと思っています。

続きはこちら↓
(後日投稿予定)


ドンブロフスキが残したこの貴重な理論について身勝手な語りをしてしまい、もやもやしてしまった方がもしいましたら申し訳ありません。これはOEの中でも特に「感情OE」が強い私自身の主観と体感も交えた言葉なので、ご容赦いただければ幸いです。聡明なgiftedと比べ知性面で劣るせいで鈍重で周りくどい説明となりました‪^ ^‬
しかし私のように中間的立ち位置からの発信を聞きたい人がどこかにいると思うため書かせていただきました。また重ねて述べますが、情報提供をしてくださるgiftedの方々に感謝しております。ここまで読んでくださりありがとうございました。

↑ おそらく日本語で書籍に収められた積極的分離理論の情報としてかなり貴重であると思われるこの本をお薦めいたします。


(冒頭の)二つの人格の分離の話

「あなたの苦しみはこの考え方で取り去ることができます。あなたのすべきことはこれこれです」
「あなたはもう苦しむ必要はありません。なぜなら真理はこれこういうことだからです。あとはあなたが信じれば良いだけです。これを信じて、安らかに生きましょう」
No.2の刃を鎮めようと外部からもたらされる教え、サポート、慰め、真理……は、確かに痛みを鎮めるのに大いに役立ちます。
私は16歳のとき、これを特定の宗教教義により得ました。「鎮痛剤」を打ってもらったのです。酷い実存的うつを持っていた子供にこれは効果的でした。おかげで一定期間安らぎを得て、その間に様々な内面の問題を解決していくことができました。
しかし結局私のNo.2は目覚めたのです! それを今度は「創作欲求」により癒し、再び一定期間の癒しを得ました。しかしなおそれは頭をもたげたのです。この春の苦しみと共に目覚めてしまいました。
ユングが生涯このNo.2と向き合い続けたように、私も一対一でNo.2と対峙しなければならないのだと感じています。結局(段階がどうあれ)私にとっての最終的な真の統合は、私自身が内面から気づくことにかかっています。ユングがそうしたように「知って、信じる」を否定し「体験して、知る」──完全なる自律心によるものとして成し遂げねばなりません。
たしかに外部からの導きは驚くほどたくさんあり有り難く頂いていますが、その瞬間自体は私の内部から起こすものなのです。それは破壊神No.2を完全受容した上でNo.1のホームグラウンドである人間の実生活へと戻る道です。魂がこの身体にしかない以上、最後はNo.1へ戻らねばなりません。私が生きるこの人間社会は、みなそれぞれ違う分離感を持った人々で成り立っているからですね。そこを認めさせるのです、この激しいNo.2に。自身の創造性で「体験」したものだけがそれを成せるのです。

お読み頂き誠にありがとうございます。お金は貴方にとって大切な人の健康や幸福のためにお使いください!貴方の幸せを願っています。