コンプレックス産業の中心で
東京という街には、個人のコンプレックスを育成する種子がそこらじゅうに植えてある。
電車に乗って広告を見上げると「女も男も全身脱毛しろ」だとか「ハゲは医者に行け」だとか「英語を覚えろ」だとか「今の仕事はあってないから、転職しろ」だとかなんだかんだとうるさい。
うるさいのでみんなスマートフォンを見るしかできない。
このコロナ禍で精神をおかしくしそうだったので、私はしばらく東京を離れて奈良、大阪など関西エリアに逃亡していたのだが、そこで衝撃的なことに気がつくのだ。
広告がうるさくない。
奈良県の駅や電車にある広告といえば、鹿の顔が映った写真を使った奈良旅行のすすめのようなものくらいで、あとはその街の病院やラーメン屋の広告が中心だ。
人口密集地である大阪府でさえ、東京ほどのうるささのある広告は見かけなかった。ごくたまに、脱毛の広告があるだけでやはりこちらも病院や、ショッピングモールなどの広告が中心である。
東京が特別、おかしいのだ。
(とはいえ、コロナでの自粛期間後から少し暖和している)
そんなコンプレックス産業の街で生まれ育った私も、コンプレックスの塊である。
まずは容姿だ。
私の母親はすこぶる美人で、彼女の昔の写真などを見るとクラスの中でも飛び抜けており、集団で映っていたとしてもすぐに見つけることができるほどである。
なぜ役者とかアイドルじゃなかったのかと娘の私が聞きたいほどの美貌の持ち主だ。
幼い頃からそれが苦しかった。
親戚に会えば、「お母さんに似ればよかったものの、可哀想にね」と言われ、かくいう母親には「顔も良くなければ歌も上手くないんだから、あんたは勉強だけちゃんとしなさい。」と、容姿も良く愛嬌もあった妹と比べられた。( 今思うと、何それwwだ。)しまいには祖父に「整形するか?金なら出すぞ」と言われる始末である。
私の容姿が"可哀想”であることはさておき、そんなことを言われてしまう少女の私が可哀想でならない。
親戚にはコテンパンに罵られる中、世間の声は意外にも優しかった。
高校生の頃くらいから何故だかクラスメイトらにちやほやされはじめ、(※女子校です)その頃には両親・親戚らと縁が遠くなっていたため、すっかり「自分はもしかしたら可愛いのかもしれない」と思い込むようになった。
というか、そう思い込まないとやっていられない。
ここから、自分の容姿をどうにか愛す努力をし始めることになる。
アジア人の特徴である一重まぶたの目を、凹凸の少ない骨格や、黒くてコシのある髪。その全てを「私にしかない可愛さ」として認めることから始めた。
そうして自分の特徴をめきめき愛すようになると、不思議と外の人から賞賛を得られるようになったのだ。
両親、親戚らにいくら容姿をバカにされようと、「勝手に言ってやがれ、お前らが生んだんじゃ😄」と思えるようになった。(※実際は少し泣いてます)
晴れて容姿のコンプレックスを多少なりともどうにか封じたところで、次の問題が吐出してくる。
人格がクズなのだ。
なんと言ってもクズ。容姿は愛せるのに人格が最悪だ。
未来への希望がなんと言ってもない。
生まれなければよかったのだ。本当に。
お母さんがあのままアイドルとか役者とかになってて、違う人と結婚したりしてくれてたら私なんて生まれなかったのに。
お父さんがあのまま前の奥さんと別れなければ、私なんて生まれなかったのに。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、なんで生まれたんだ。
なんで産んだんだ。馬鹿野郎。
こんなことを思いながら10年以上が経ってしまった。すっかりクズになった。底辺の底辺まで辿りついてしまったのでこれ以上、クズになることもできなくなってしまった。それなのでようやく、未来をもう少し建設的に歩いてみようかと、やっと何か努力をしようとし始めたのである。
実は、私は人生において、『自分の未来に向けての努力』というのは初めてである。"何かにチャレンジする”ということを、ことごとくしてこなかった人生なのだ。なんせ、生きる気がさらさらなかったから。
ただ死ぬことだけを考えて生きていたのだが、なかなか死なない。
意外と死ねないのだ、残念ながら。こんなクズなのに、生きてたいなんてなんという放漫さだろう。
しかし、クズだった人生に初めて目標を持つことで、人々が言っていた「楽しい」という概念が初めてわかるようになった。
なるほど、人生を計画的に生きるようとすると、心に少しの余裕が生まれるんだな。
なるほど、人って夢を持つと自堕落にならずに生きることができるんだな。
なるほど、より良い自分の未来を想像すると、わくわくするんだな。
27年間生きて来て、初めて生きても良いような気分になっている。
生まれて初めて、夢という概念を体験している。
そんな調子でここ2ヶ月ほどは前向きに生きていたのだが、低気圧のせいだろうか、季節のせいだろうか。どうにもいかん。
もし、失敗したら?
努力が全然足りていなかったら?
といった不安が突然襲ってくる。
元々、クズだったのを奮い立たせて、多少なりともまともな人間になろうとしてるだけなのだから、ちょっと指先でつままれてしまうと、またクズの自分になってしまう。
前向きでいられるよう、ネガティブな気持ちになったらどうにかする努力をしている。人並みでいられるように。
もし今見つけたばかりの目標に失敗してしまったら、私はどうすれば良いのかもうわからない。いよいよ死ぬしかないかもしれない。
容姿のコンプレックスの次は、人格のコンプレックスをどうにかする。次から次へと湧いてくるコンプレックス。人格をどうにか愛せるように、成長させて、それができるようになった次はなんだ?次は自分のどこを嫌うんだろう?
不安と希望の境界線を毎日行き来しながら自分を奮い立たせる。
しかし、一体なんでだってこんなに辛いのに苦しいのに無理に自分を気張らせて"頑張って”生きないといけないのだろう。
だいたい、世界のみんなはどうしてそんなに平気で、当たり前のように夢とか希望とか生活とか結婚とか恋とか愛とか怒りとか子供とか人生とか仕事とか言えるのだろう?
今日、涙を流さないように踏ん張って立って、微笑むだけで精一杯なのに。
本当に、産まないでくれれば良かった。
さて、がんばろ。
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