見出し画像

おたく年表2024〜世界の終わり学生時代編(前編)

おたく年表というか、ほぼ自分史です。
私のおたくが読んで楽しいやつ。(私のおたく?)
長過ぎるので学生時代編(前編)と大人編(後編)に分けました。あととにかく話が暗い。

幼少〜小学時代

平成初期女子あるあるだが、CLAMP生まれ峰倉かずや育ちど真ん中であり、初恋のキャラクターはカードキャプターさくらの桃矢お兄ちゃんだった。そんな桃矢お兄ちゃんは親友の雪兎(ゆきと)さんとアレでアレな感じになるため、アレでアレな感じの目覚めも当然ここからである。私が早熟なのか、なかよしが悪いのか。多分両方であろう。

ちなみにこれも平成初期女子あるあるかもしれないが小学生のとき、ジャニーズのファンクラブに入っていた時期がある。当時もドラマを観る雑誌を買うぐらいのレベルでそこまで熱心なファンではなく、今思い返しても何がそんなに好きだったのか思い出せない。ただなんとなく女の子らしいことがしたいというだけだった気がするな。ド田舎に暮らす小学生女子には「ジャニーズに憧れる」それぐらいが精一杯だったわけだ。

中学時代

このぐらいの時期からとにかく家庭環境が悪くなり自殺者は出るし、借金取りは来るしでさすがに多感な時期にこれらは中々ベビーな出来事だろう。結果自分の世界に閉じ籠もるようになった。妄想だけが楽しい時間。
当時ハマったのは京極夏彦とラーメンズミッシェルガンエレファントの3つである。この3つは今でも文学、お笑い、音楽の何を持ってして素晴らしいセンスが良いとするかの判断基準になっている。

特に京極夏彦からミステリー好きになり綾辻行人、有栖川有栖、森博嗣などのミステリーから遡って横溝正史、江戸川乱歩なども読み漁っていた。京極作品が民俗学や心理学を扱うので柳田國男、折口信夫、フロイトにユング………とりあえず作品世界をより理解するために必要なところは結構読んだと思う。
あとは三島由紀夫や寺山修司、安部公房、坂口安吾なんかも読んだ。小説だけじゃなく詩集なんかも読んだし、母親が歴史小説好きだったので幕末には詳しくなった。漫画でお気に入りだったのが多重人格探偵サイコで原作者である大塚英志の作品はどれも好きだった。

いわゆる文学少女でサブカル好き。この時期に培った感性は三つ子の魂百までというか、性根に染み付いている。今では絶対気力体力共に年間で数百冊なんか到底読めない。異常な読書量、これだけは中学生時代の自分に感謝したい。
ただし京極夏彦先生はまだチャンスがあるが、ラーメンズとミッシェルガンエレファントは結局生で観る機会を得ないままだった。機会はたくさんあっただろうに。大人になるとほんとだめだな。

高校時代

悪化の一途を辿っていた家庭環境はこの頃には完全に終わりになってしまい、さらには母親の方針で携帯電話を持たされず(当時まだガラケーで早ければ小学生から、周りはみんな高校進学をきっかけに買って貰っていたので学年全体でも見ても携帯持ってないの私一人ぐらいだったと思う)ストレス過多で不安障害を患うようになる。(抗不安剤は未だに手放せない。かれこれ20年近く飲んでるのか…)創作活動だけが精神的な支えであり進路として美大を選んだので土日でも受験対策のために学校に行ったりファミレスで勉強するようになった。
そしてここがただのサブカル好きから気持ち悪いオタクに変化するターニングポイントだった。小中時代にはなかった日曜日朝に早起きして出掛ける準備をするルーティンが生まれ、仮面ライダーを観るようになったのだ。このときの作品が「仮面ライダーカブト」である。奇跡的にも初めて観た回が第一話だった。カブトは平成ライダーシリーズの中でもまあまあ変な作品である。今ならそう分かるが仮面ライダー自体初見だったのでシリアスとコメディの塩梅が絶妙ですべてが面白く、何より出ている俳優すべてイケメンだったのでそれも目当てにリアタイで一話から最終回までしっかり観た。イケメン若手俳優というものに触れたのもこれが初である。
ここがまたもう一つのターニングポイントになるのだが、昼休みだったかカブトにハマっている話をクラスの友人にしたところカブトの俳優が出ているテニミュのDVDを貸してくれるという。テニスの王子様はもろに世代なので一応読んでいた。喜んで借りて観た。物凄い勢いでハマった。何がそんなに良かっただろうか。とりあえずその友人が大量にテニミュ関連のDVDを所持していたのと、斎藤工のBL映画が観たい!と言えばそのDVDも貸してくれた。ドラえもんか?というぐらい何でも貸してくれたので勢いが加速してしまった。ちなみにその20年来となる友人はまだ現役のテニモンで今は新テニミュのおたくをしている。マジですごい。
仮面ライダーに関してもカブト→龍騎で見事にハマり倒してしまい、特に北岡と吾郎ちゃんの関係性にアレがアレしていた。とにかく妄想癖があり、のめり込みやすい性格の人間には「余命幾ばくもない弁護士と献身的な秘書」なんて持って来いだった。

そんなこんなで上京したら生でテニミュを観るぞ!と意気込んで実際にその通りになる。

大学時代

美大には進学したものの、バイトしないと学費が稼げない、しかしそのバイトのせいで学校に行く時間が取れない、作品が作れないという本末転倒な状況に陥り、創作活動自体を諦めるようになる。金持ちしかあんなところ通っちゃだめなのだ。中退だけは避けたくて必死に卒業したが4年のうちに作った作品で今手元にあるものは一つもない。まだ中高時代のが残っているレベルである。10代の苦痛を灰色の青春とするなら、大学は屈辱的で頭に真っ赤な血が上り続ける4年間だった。
ただし課題として自分の趣味ではないような映画や舞台を多く触れられたのだけは良かったかなと思う。有名な演出家のワークショップなんかにも参加したりしたし。
念願叶い、テニミュ通いもスタートする。生活に困窮はしていたが娯楽がないとやっていけないと自分を誤魔化して通っていた。もちろん氷帝厨である。1stと2nd共に跡部キャストの追っかけになり、テニミュ以外も色々見に行った。

後編でも語るが、忘れもしない2nd氷帝キャストの発表は2011年4月のことである。東日本大震災の1ヶ月後だ。福島にある実家は被災し、母親は手術入院を控えていた。そんな事情もあり大学を休み、東京から福島に帰っていたのがちょうど2011年4月である。放射能の話が毎日毎日報道されていた時期だ。福島に居ていいのか?早く東京に帰りたい!東京に帰ればすぐに夏になる!そうしたらテニミュ!テニミュ!テニミュ!新しい氷帝メンバーに会える!もう少しの辛抱!と毎日母親の見舞いに行きながら思っていた。それしかなかった。人はそうやって極限状態中で救いを見出したものには、その状況が落ち着いても異常に執着し続けるんだろう。その後約10年近く2ndの跡部キャストに異常執着することになる。

(後編へ続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?