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梅雨物語(短編小説)

はじめに

こちらもタイトルのない小説とほぼ同時期に書いた作品です。内容的にはちょっとホラーテイストな作品にしたいということで、やや怖い話になっています。気楽に読んでもらえたら嬉しいと思いつつも、内容が気楽ではすまないような気がしてなりませんが。ゾッとする話です。

ーーー

俺の名前は田中智紀(たなかともき)、都内でとある企業の経理を担当している。35歳となり、課長まで出世したものの、奥さんがいないことが残念と言える独身貴族だ。しかしながら、それで寂しいわけでもない。実際、今広報室に勤めている女性と付き合っており、そろそろ彼女との結婚を考えても良いくらいには長い付き合いと言える。それにもうすぐ6月だ。ジューンブライドという言葉に従って結婚を考えても良いかもしれない。それに、彼女の誕生日は7月にあるし、その日でも良いわけだ。つまり、結婚するには申し分のない条件が整っている。そして、今日は彼女とのデート。せっかくだ、決めよう。

デートが終わりそろそろ別れの時間というタイミングで景色の良い橋にやってきた。彼女も察してか、なんとなく緊張しているように見えた。
「柚乃(ゆの)、俺たち付き合って、もう3年だな。」
「うん。」
「俺は今度で36で、完全にアラフォーだ。」
「うん(笑)」
「そろそろ身を固めても良い時期だと思うんだ。」
「うん。」
「柚乃、結婚しよ。」
その言葉とともに、隠していた指輪を取り出した。少し沈黙したが、すぐに返答が来た。
「はい、喜んで。」
そういって彼女は右手の薬指に婚約指輪をはめた。
「ありがとう。これから長年お世話になるけど、よろしくな。」
「こちらこそ。」
そんな重大な儀式は無事に終わり、柚乃と別れた。

次の日は仕事が手に付かなかった。日取りをどうするかなど基本的な準備を早急に行わなければならないという意識から、頭の中では様々なパターンを想定し続けていた。
そんなうわな空な様子を同じ部署で、後輩の花咲さんに見られてしまったのは恥ずかしいばかりだった。しかし、その日事件が起こった。いつものように、課の同僚が全員帰宅したことを確認し、課の扉に鍵をかけ、帰路につこうとすると、会社と駅の途中にある、公園のちょっとしたベンチに花咲さんが俯いて座っていた。
「花咲さん、どうしたんだい?君も電車を利用していたよね?」
「あっ、課長… 」
「元気がないなあ。どうした?」
「課長… ちょっと話を聞いてもらって良いですか。」
そこで、近くの喫茶店に入った。その喫茶店は穏やかというのが正しいほど落ち着いた雰囲気の店だった。
「っで、どうした?」
「あの実は、最近ストーカー被害にあっているんです。」
「なんだって? それは本当か。」
「はい、スニーカー、真っ黒なパーカーと紺のジーパン、サングラスとマスクという怪しい見た目の男性が電柱の陰から部屋を覗いてくるんです。」
「警察には相談した?」
「もちろんしました。でも、あまり掛け合ってもらえなくて。巡回を強化するとだけ言われたんです。」
「そうか。ちなみに他には被害はあったかい。」
「特には。ただ、どうやらいつも最寄りの駅から付いてきているみたいなんです。」
「最寄りはどこなんだい? 」
「雪ノ下(ゆきのした)です。」
「そうか、俺と一緒じゃないか。今日はとりあえず家まで送ろうか?」
「でも、悪いですよ。課長は広報室の方とお付き合いされていますし。」
「こういう事態だし、それにあいつなら浮気しているなんて勘違いをするわけない。」
「そうなんですね。信頼関係がしっかりできているんですね。」
そして、俺らは電車に乗り、最寄りの雪ノ下に着いた。
雪ノ下は閑静な住宅街なので、適度に人が降りる駅である。
「北口?南口?」
どちらの出口か確認すると、返事が返ってきた。
「北口です。」
「花咲さんも北口なんだ。俺も北口。まさかこんな近所に住んでいるとは。」
「本当ですね。」
さすがに出口は一緒だったが、帰りの経路は全く違うものであった。なんとなく視線に注意して歩いていたが特に怪しいやつはいなかった。今日はたまたまいなかったのだろうか。
彼女の家は駅から20分程度と少し距離がある。しかし、人通りが少ない道はなく、特に危険はないように思えた。駅から歩いて10分くらいのところに、小さな広場があった。小さなとは言ったが、50人くらいは余裕で収容できる程度の広さがある。そこの中央に大きなアジサイの花壇があった。本当に大きく、広場の3分の1くらいの広さを占めていた。まだ時期ではないため、咲き誇っていないが後数週間もすれば見頃になることはわかった。今はまだ色がわからない程度の成長だが、花の色を見ればその土のphがわかる花だから実に珍しい。酸性の土なら青、塩基性の土なら赤と、明白な色の違いを持つ。
そんなことを考えながら、花咲さんと話をしていたが、やはり付いてくるものはいないようであり、まして黒いパーカーにジーンズの男などは駅に向かう人の中にもいなかった。
「着きました。」
「そうなんだ。」
彼女の家はオートロックの比較的新しいマンションだった。しかも入り口には警備員が常駐しているようで、オートロックの扉を超えた先の小さなホールの一角に小さな窓があり、そこから警備員の青い制服がチラチラと見え隠れしていた。
「今日は何もなかったね。」
「はい… きっと、課長が駅から同行してくれたからだと思います。」
「そうなんだ。」
「いつも、駅から出てすぐのコンビニファイブマートあたりから視線を感じるので。」
確かに駅から付けられているというのは正しい表現だと気付かされた。ファイブマートは駅から出て数歩で付けるほど駅近くのコンビニであり、そこから付けられているなら改札から出たあたりからすでに目を付けられている可能性は高い。そう考えると、同じ改札から出てきた俺を見て、ストーキングをしないのは納得がいく。
「そうか。なら、しばらくはここまで送るよ。」
「本当ですか。でも、やはり課長にご迷惑をおかけするのは申し訳ないですし。」
「気にすんな。それに大きなアジサイが植わっている広場があったし、見頃の満開のアジサイを見たいと思ったから、見頃まではこっちにきて様子を見に来ることにした。だからそのついでさ。」
我ながらに適当な理由だと思った。しかし、彼女の反応は良かった。
「本当ですか! ありがとうございます。それにあのアジサイは毎年綺麗なんですよ。」
「そうなのか。」
「はい。毎年、綺麗な赤色の花をつけるんですよ。」
「そんなのか。なら土壌は塩基性なのか。」
「いえ、あの土は酸性なんですよ。」
「ではどうして赤くなるんだ?」
「それがよく分からないんです。しかも、あのアジサイ、綺麗な反面吸血アジサイとも呼ばれているんです。」
「はて、それはまたなぜ?」
「赤い花と言ったんですけど、ここに咲くアジサイは血を吸ったかのように赤いというほど濃い赤い色を呈するんです。そこから、あのアジサイは人の生き血で赤くなっているという都市伝説もあるくらいで。本当かわかりませんが、花の見頃が近づくと、突然血なまぐさい匂いを放っているという話もあるようで。」
「あれだけデカければ奇妙がられるのも当然というわけか。」
「そういうことですね。」
そんな都市伝説があったなんて知らなかったなあと思ったが、綺麗なことは間違いないようなので、楽しみにしたいものだ。
そんなことを思いながら歩いていると、妙な視線を感じた。花咲さんの家と違い、暗がりもたくさんある自宅の道はストーカーにとって好都合と言える。しかしながら、一度も視線を感じたことがないが、今日は感じた。だが、一方でストーカー被害にあった花咲さんの話を聞いてなんとなく意識をしてしまっているというのが正確なのかもしれない。そんなことを思い歩いていたが数メートル先まで至っても感じた。どうやら勘違いではないようなので振り返ってみると、誰もいなかった、一見すると。だがよく見ると、十字路の電柱の陰からパーカーにジーンズ、サングラスにマスクの人物が闇に溶け込んでそこにいた。まさに、花咲さんが言っていたストーカーそのものだった。だが、そんなストーカーを見つけたからといって捕まえに行くほど度胸なんてあるわけもなく、すこしたじろいでいると、すぐに姿がなくなっていた。
「見間違えか? 全く、幻覚が見えるなんて、気にし過ぎだなあ。」
そんなことを思いながら、帰宅した。むしろ、そう思い込んで、帰宅した。
後はいつも通りの日課をこなして就寝した。
「あれは一体なんだったんだ?」
例のパーカーが頭に焼きついており、なかなか眠れないでいたが、少し横になっていたら仕事の疲れもあり、そんな不毛な思索はすぐに夜の闇へと溶けていってしまった。
いつも通りの朝。今日は雨が降っているらしく、空が灰色がかっており、雨粒が地面や外階段の手すりに跳ね返る音が聞こえる。どうやら、なかなか激しい雨であるようだ。そんな思索をしていては仕事に間に合わなくなってしまうので、素早く準備を始めた。
雨が降る中を傘をさして歩く。雨は苦手だ。あのときのことを思い出す。家族を失ったあの日を。そういえば、母が亡くなった病院の近くにはアジサイが植わっていた。さすがに、例の広場のものよりは明らかに小ぶりだったが。アジサイに雨に人の不幸と、いろいろイメージが重なる灰色の空の下、駅に着いた。色とりどりの傘の中、パステルイエローの目立つ傘を手に持つ女性がいた。
「花咲さん、おはよう。雪ノ下で会うのは初めてだね。」
「ああ、課長、おはようございます。そうですね。」
「ところで、あの後は大丈夫だったかい?」
「えっ… 大丈夫と言えば大丈夫でした。」
彼女の顔がかなり曇った。
「どうかしたのか?」
「はい、おわれなかったんですが、部屋の窓からちょっと外を見たら、マンション近くの電柱の陰からこちらを見ていたんです…」
「本当か!?」
「はい…」
正直、驚いた。ストーカーの習性についてあまりにも無知だったと気付かされた。彼女の家の前まで送り自宅に直接帰っては、花咲さんが1人暮らしであることをハッキリと示したようなものだったということだ。甘い自身の見立てを後悔した。
「今日は気をつけて帰る必要があるな。」
「はい…… 」
「とにかく犯人らしき人を特定できる対策をしよう。」

その日の仕事での俺は気もそぞろと言ったところである。仕事で大きな失敗をしたことがないし、人生全般でも大きな失敗はなかった。だからこそ、小さいこととは言え、大きな失敗をしてしまったことがかなりショックだった。

「花咲さん、今日も付いて行くよ。」
「ありがとうございます… でも、もし課長が巻き込まれた… 私…」
「気にするな。部下の不安を取り除くのも上司の仕事だ。」
「本当ですか。 課長の言葉なら信頼できます。」
今回は作戦を変えて、彼女の後をそれなりに離れてついて行くことにした。今日はラッキーなことに雨だから昨日と同じ人物が彼女の側を歩いているということに気付きにくいはずだ。だからこそ、それなりに離れればストーカーも尻尾を出してストーキングをすると考えられるわけだ。その後は相手を特定する作業に移るだけだ。「掛かってくれよ」と願いながら作戦を実行した。
青、紺、緑、ベージュ、黒、透明、赤、黄、白など色とりどりの傘によって、道が色づいていた。そんな状況は彼女の家の側まで変わらなかった…
つまり、ストーカーは尻尾を出さなかった… しかしながら、ここで作戦失敗だと言って彼女に声をかけてしまっては元も子もないので、距離を取ったまま彼女の家まで送り終えると、前回とは異なり遠回りを多くして帰宅した。
今日は例のパーカーを見かけなかったから、きっと大丈夫だろうと安心していた。
が、しかし、その勘は外れることになるということはこのとき知る由もなかった。

ちなみにだが、俺の住むマンションは花咲さんと同じようにオートロックだが、俺の部屋は角部屋にあたるので、非常用の外階段がそばにあるのが特徴だ。だからこそ外階段に当たる雨音を寝起きと同時にかすかすに耳にすることができたわけである。その他の情報としては、1人暮らしするには少しばかり広いという点も付け加えておきたい。要は、柚乃との2人暮らしを考えると、良い部屋と言えるということだ。オートロックなら彼女の不安は全くないだろうし… そもそも、オートロックによる不安の軽減という点が強調したくなるのは完全に今抱えている、花咲さんのストーカー問題のせいではあるが…
ピンポーン
「あれ? こんな時間にチャイムなんて珍しいなあ。」
時計を見れば、21時を回っていた。インターホンに近づき画面を見たが、誰もいないエントランスホールが写っているだけだった。
「おかしいなあ。 間違いか。」などと思いながら、リビングのソファに座りなおした。
ピンポーン
「まただ。」
そう思ってまた近づいたが、やはり誰もいないエントランスホールが写っているだけだった。
「全く困ったイタズラだ」と思いながら、音量を下げようとしたときに異変に気付いた。画面をよく見てみると左端に何かが見切れていることに気づいた…人だ! そして、その辺りをジッと見ると急に例のパーカーがサッと画面に姿を現した。
「うわっ!」
驚いたときには時間経過で画面が暗転していた。そこで、インターホンを少し操作することで、一時的にエントランスホールを見ることができる例の機能で、再度姿を確認しようとしたが、すでに誰もいなかった。
「まさか、標的にされたか。」と不安に思い始めた。
次の日。今日も空はほの暗かったが、それ以上に俺の心はどんよりとした状態だった。しかしながら、そんなことを気にしてはいられない、早く会社に行かなくては。
駅に着くとやはりパステルイエローの彼女がいた。
「課長、おはようございます。」
「おはよう、花咲さん。」
花咲さんはどこか機嫌が良いように思えた。
「花咲さん、どうしたんだい?元気そうだけど。」
「はい、昨日はストーカーがこなかったんです。課長のおかげです。」
「それは良かった。」
「どうしたんですか。何か元気がないようですが。」
「いや、何でもない。」
「もし良かったら、これ落ち着きますよ。」
「うん、これは?」
「書写セットです。硬筆、つまり鉛筆用の書写セットで、松尾芭蕉の『奥の細道』と鴨長明の『方丈記』が入っています。文字を無心で書いていると落ち着きますよ。」
「そうか、ありがとう。」
「見本はある程度書いたら返してくださいね。私も書きたいので。」
「わかった、ありがとう。」

花咲さんの言に従い、仕事の休み時間に書写をしてみたら確かに落ち着いた。
「しばらく書いてみよう。」と思った。また俺は根っからの凝り性なので見本に近づけたいと思い、何度も同じ部分を書くことにしたい。
仕事が終わり、花咲さんを送って帰宅し、家で早速、例の書写をやっていたらいつの間にか時間が経ち、いつの間にか寝ており、いつの間にか朝になっていた。
「やっぱりパーカーは気のせいか。」と思い、部屋を出た。今日はなぜか無性にメールボックスが気になった。いつもより早く出勤しないといけない日だったのだが、思った以上に早く家を出ることができたので、心の余裕もあったかもしれない。ただそれ以上に無性に気になってしまったのだ。なので、通常とは異なり、帰宅時ではなく出勤前にメールボックスを開けたわけだが、とても後悔することになった。
「うわっ……」
赤ペンで書き殴られた「近づくな」という文字によって気分を害された。そう、メールボックスには警告文がはいっていた。
何も見なかったことにし、ごみ捨て場にその警告文を捨てて会社に向かった。驚くべきことだが、今日も花咲さんとともに会社に行くことになった。いつもより早い時間に家を出たはずだったが、たまたま花咲さんも早く家を出たらしく、駅で出会うことになったようだ。
彼女の話を聞くとストーカー被害はなくなっているようなので、安心したが、どうしたものかと悩みが増えてしまったのである。
柚乃との生活を考えると、何とかストーカーをどうにかする必要はあるし、結果的にそれが花咲さんのためにもなる。
そんなことを考えながら書写をしていたら、部下の女の子に話しかけられた。
「課長何しているんですか?」
「書写だよ。書いていると落ち着くだ。」
「そうなんですね。何を書かれているんですか?」
「『奥の細道』だよ。」
「旅に出たいんですか(笑)?」
「そんなことないけどなあ。」
単純に彼女はからかってきたのだろう。そんなことを思いながら会社を出た。今日は柚乃との食事の約束があり、また花咲さんも今日は1人で帰ってみるとのことだったので、今日はストーカーのことは気にしなくて良い日となった。とはいえ、意識しなくても意識下には存在し、常に心に引っかかり続けるのがストーカーという存在なのだと改めて感じさせられる。
柚乃とのデートは彼女の最寄り駅である、藤乃丘(ふじのおか)周辺が多かった。今日も同様に藤乃丘にあるフレンチレストランだった。そのレストランに行くのは初めてだったので、楽しみにしていた。
「お待たせ。待った。」
「いや、今来たところさあ。」
「そっか。じゃあ行きましょう。」
「そうだな。」
たわいもない話をしながら、レストランに向かった。レストランに着くと、通りに面した席に案内された。「なかなか良い雰囲気だね。」
「そうね。」
料理が運ばれてきた。
「きれいね。」
「そうだね。」
色鮮やかとはまさにこのことだなあと思った。夏野菜により、食器の上が赤、黄、緑に彩色され、その真ん中にメインの鶏肉が鎮座している。鶏肉の上には、ちょっとした添え物としてパセリのようなものが添えられているが、これも色のバランスを一層高めている。
「あっ、美味しい!」
「確かに、うまい。」
料理が美味しかったこともあり、その後の会話も進んだ。とりわけ話題になったのは式についてだった。かなり盛り上がったところ、突如として、柚乃の顔が曇った。
「どうかしたか?」
「えっ、うん、大したことじゃないけど、さっきから通りの人に見られている気がして。」
「確かに、見られているかもしれないけど、気にするほどじゃ。」
「違うの。ちょっと見られているのじゃなくて、かなり長い時間見られているの。」
「どこにいる?」
「ちょうど反対の通り。」
そこで、俺は嫌な悪寒と予感に苛まされながらそちらへと視線を向けた。すると、そこには黒いパーカーの男がいた。いやむしろ、暗闇に溶け込んでいて顔の白いマスクだけがぼやあと浮かんでいるように見えて、それが本当に存在しているのかどうか怪しいようにさえ思えた。こちらの視線に気づいたのか、急に物陰に隠れて消え去っていった。
「なんだったんだろうね?気味が悪い。」
「ああ…」
「大丈夫?汗で額が濡れているよ。はい。」
柚乃から白いレースのハンカチを受け取り、汗を拭った。
「ありがとう。洗って返す。」
「良いわよ。智樹の匂いを家でも楽しめるじゃない(笑)」
「ありがとう。そんな冗談を言ってくれて。」
「えっ、半分くらい本気よ(笑)」
「全く。」
指で少しおデコを小突いた。
「イタッ(笑)」
こんな感じで、いつも柚乃に助けられるわけだ。
「それじゃあ、また今度ね。」
「じゃあ、また。」
柚乃を自宅まで送り別れた。
柚乃を無事に送り届けることができた。とはいえ、とうとう完全にあいつが別の駅にまで現れたことになる。どれほど花咲さんに執着しているのかが窺い知れる。困ったものだ。これでは柚乃とのこれからの暮らしも危ぶまれる。
そんなことを考え続けて、道を歩き電車に乗り、雪ノ下で降りて歩いていると、誤って例のアジサイのある広場に着いていた。
「はあ。癖とは恐ろしい。」
引き返そうと思うと、広場の小さなベンチに座る見慣れた影が目に入ってきた。
「花咲さん? どうしてこんな時間に。」
「あっ、課長。こんばんは。ところでどうしてこんなところに来たんですか。」
「いや、間違って。そうじゃなくてなんで君がここにいるんだい? 危険だろう?」
「昨日も今日も誰もついて来なかったので油断しているというのもあると思いますが、雪ノ下に住んでいてしかもこの広場の側に住んでいたらアジサイを見ずにはいられませんよ。」
「でも、まだ蕾がつくか、つかないかくらいじゃないか。」
「そうなんですけど、やはり待ち遠しいというか。」
「そこまで、気に入っているだね。」
「はい。ところで、どうしてストーカーのことを気にしているんですか?私、最近はめっきり被害を受けていないですよ。まるで、ターゲットが変わったかのように。」
「そうか、なら話が早い。俺にターゲットが変わったんだ。」
「えっ… 本当ですか。」
「ああ、毎日俺に嫌がらせをしてくる。きっと、俺を追い込んで、君との関係を絶って、その後ストーカーを続ける気なんだ。」
「本当に? えっ…」
「とにかくどうにかしてやつの正体をつかもう。そうすればお互い危険はなくなる。」
「そうですね。落ち着かないと。」
彼女は徐にカバンから水筒を取り出して、何かをコップに注いで、飲みほした。
「課長も飲みます?」
「それはなんだい?」
「甘茶ですよ。花祭りに飲む、あれです。」
「ああ、なるほど。ちょっと時期が違うけど、お茶だから落ち着くな。それにアジサイ好きここに極まりという感じだ。」
「はい、っでどうします?」
「じゃあ、いただこうか。」
花咲さんはコップに甘茶を注いで、俺に手渡してきた。思った以上に香りが強く、どことなく落ち着かせてくれた。
ゴク
「ああ、案外落ち着くね。」
「ですよね。良かったら、まだあるので茶葉を差し上げます。」
「いや、悪いよ。」
「ぜひ!」
強引とまではいかないが、なかなか積極的に押し付けてきたので、仕方なく受け取った。
そして、別れを告げて帰宅した。「せっかくもらったものだから、飲んでみるか。」
早速、甘茶をいれて飲んだ。さっきのより、少しえぐ味があったが、まあ美味しかった。
その後作業をしていると、少し目の前が霞んで、正確にはボヤけて見えた。
「疲れすぎか」と思い、その日は作業を止めて、寝ることにした。
「はあはあはあ」
「花咲さんに近づくなあ!」
グチュグチャ
ポタッポタッ
バタン

「ハア。夢か。パーカーに追われて刺されている夢を見るなんて。」
嫌な朝だった。
「ああ、ヤバイ。だが、仕方がないか。」
時間は既に10時を回っており完全に遅刻だった。
「今日は会議もないし、急だが休みにしてもらおう。」
部長に連絡をしたら、怒られるどころかむしろ心配された。厳しい場合には明日も休みで良いというほど気遣ってくれた。まあ、当然といえば当然か。今、会社全体で行っているプロジェクトの資金管理などを任されているから、ここで倒れられては困るということだろう。ということで、せっかくだから休みをもらうことにした。
お昼過ぎになり、昼食を取ろうとすると携帯がけたたましく鳴った。
ブーブー
「思ったより早いなあ。」
パカ
「やっぱり。」
予想通りというか、予想通りすぎて嬉しいというか、そんな感情を抱かせたのは柚乃からのメールだった。柚乃は情報が早く俺が休んだことを知って連絡をよこしてきたわけだ。不安がらせるのも良くないからメールをすぐに返した。どうやら、柚乃も待ち構えていたらしく返信が早かった。
「なるほど、そうか。掃除をしておこう。」


ピンポーン
ポチ
数分後
ピンポーン
カチャ
「いらっしゃい。」
「いらっしゃいじゃないわよ。急に休んでビックリしたじゃない!」
「悪いな。」
頭を軽く撫でた。
「もう〜、ズルい。」
少し、照れ臭そうにしていた。
「ってか、合鍵使って入ってくれば良かったじゃん。」
「良いじゃない、たまには。っで、お粥とかで良い?」
「サムゲタンで。」
「そんなに韓国被れてはしていません。全く冗談が言えるなら、激辛のカルビクッパでも作ろうか!」
「やっぱり韓国じゃん!」
「ああ、間違えた。まあ、お粥にするから座っていて。」
久しぶりに柚乃が来て夕食を作ってくれた。腕の立つ彼女の料理はお粥という単純な料理ですら、匙が進む。
「美味しかった。ごちそうさま。さすがだね。」
「そんなことないよ〜」
まんざらでもなさそうだった。
「今日、泊まって行こうか?」
「夜のお誘いかい? 女の子が言うものじゃないよ(笑)」
ベシッ!
「もう、そんなことあるわけないでしょ。…ちょっと嬉しかったけど。でも、元気ないんだからゆっくり休んでほしいし、看病してあげようと思って。」
「ありがとう。でも、まだ週末じゃないしな。柚乃の家の方が会社から近いし、悪いよ。」
「でも。」
「じゃあ、明日お願いしても良い? 明日は金曜日だし、次の日は休みだから柚乃の迷惑にもならないだろうし。」
「うん、わかった。」
そう言って、柚乃は自宅へと帰っていった。


十分経つか経たないかくらいで、急に玄関の扉が開いた。
ガチャッ
カチャ
少し驚いたが、鍵を持っているのは大家さんと柚乃しかいないので、誰が入ってきたかはすぐにわかった。
「柚乃? どうしたいんだ、そんなに慌てて。」
「はあはあ。」
かなり息が乱れていたので、コップに水を汲んだ上で、背中をさすり、少し落ち着いた後にコップを手渡した。それを受け取った柚乃はコップの水を飲んですぐに叫んだ。
「はあ…チェーンロックをかけて!」
気迫のあまりの強さに驚き、すぐにロックをかけた。
「どうした?」
「黒のパーカー… はあ… 男が… はあはあ…いきなり道に… はあはあ…走ってきて…… 逃げてきたの……」
「大丈夫か。」
まさかと思いながらも、柚乃の背中をさすってリビングに入れようとした瞬間、扉がノックされた。
ゴンゴン
「おかしい? なぜ、外のチャイムが鳴っていないのにいきなり玄関の扉がノックされるんだ? 大家さんか? そんなわけはない… もしかして…」と不安がよぎった。だが、柚乃が怯えている以上はこれ以上、柚乃を関わらすことはできない。奥の寝室に連れ込み、寝室の扉を閉めた。
そして、玄関に行き叫んだ。
「もう、うんざりだ! お前はだれなんだ!」
「…………」
反応がない?
と思った瞬間だった。
ドンドン
ドンドンドドン
ドンドドンドンドドン
ドドンドンドン
ドンドドドンドドン
ドンドンドンドン
ドンドドドンドンドンドン
…………………………
あまりにもけたたましい音に、少したじろぐと今度は奇妙な音が聞こえた。
バンキューキュギュキュッキュー
バンキュッギュキューギュッー

これ以上関わってはいけないと思い、外の様子をインターホンで見ると何か光を反射するものがバッと映った。その何かがなんであるかに気付いたときにはもう遅く、後悔をした。その何かは不規則に蠢き、ときたま何かによってその姿が消え失せる。そして急に、その何かが消えたり出たりをかなり素早くバチバチバチバチと繰り返された。そう、カメラに映ったのはパーカー男の目玉だったのだ。あまりの気持ち悪さに電源を切り、静かに地面に崩れ落ちた。
「俺が何をしたっていうんだ… 」
そして落ち込んでいると、寝室にいた柚乃が落ち着きを取り戻してリビングにやってきた。
「もう… いなくなった?」
「……」
放心状態になっている俺を見て、柚乃はインターホンのカメラを起動しようとしたので、止めようとしたが力が出ない……
ポチッ
柚乃は画面を凝視している。
柚乃もあれを見たのか、せめて目を隠そう…… 最後の力を振り絞って立ち上がり、柚乃の目の前で目隠しをした。
その行動に少し驚いた仕草をしたがすぐに。
「もう、イタズラしないでよ。 もう誰もいないじゃない。」
「えっ? 」
画面を覗いてみると誰もいなかった。
「本当だ…… はあ…」
「大丈夫? どうかしたの?」
「それはこっちのセリフだよ。今日は泊まっていけ。」
「うん、そのつもり……」
まさか、柚乃と一夜を一つ屋根の下で過ごすのがこんなにムードのない状況になるとは思わなかった。とはいえ、やつはいなくなったし、鍵もかけてあるから安心だ。しかも、寝室は内鍵がある分、さらに安心というわけだ。
お互い、眠れない夜を慰め合いながら過ごした。
だが、いつの間にかお互い寝ており、朝柚乃に起こされて目を覚ました。
「うっ? どうかしたか?」
「いや、チャイムが鳴ってたから。起こしたの。」
ピンポーン
「本当だ…… ちょっと見てくるから柚乃はここにいろ。」
「うん… 気をつけて…」
恐る恐るインターホンの画面を見ると、隣に住む丹下さんが映っていた。
「何の用だろう?」
ポチッ
「はい。丹下(たんげ)さん、どうなさいました?」
「ああ、田中さんいらっしゃったか、良かった。いや、説明するよりも早いと思うので、玄関に来てください。ちょっとイタズラされているようなので。」
「はい」
なんのことだろうか?
そんなことを思いながらも玄関に向かった。
カチャ
ガチャッ
「おはようございます、丹下さん」
「おはようございます。早速ですが、この扉を見てください。」
「はい。」
そこを見ていると、真っ赤な線が2本、扉をストライプ模様に変えたかったのかと思わせるほど綺麗に真っ直ぐ、扉の上から下まで引かれていた。
「なんでしょうか。」
「田中さん、多分、これは手でつけたんだろう。ほら、はじめのあたりが5本に分かれている。」
確かにはじめのあたりが5本に分かれており、指のようになっていた。
「困ったイタズラだよね? 外階段の扉が開いていたからきっと犯人はここから入ってきたんだろう。前から危険だとは言っていたんだけど、これで大家さんも外階段を取り外してくれるだろう。」
確かに、錠が完全に床に落ちていた。しかし、妙だった。もし、階段から登ってきて開けたとしたら、扉の内側の方に傷がつきそうなのに何もついていない。しかも、錠はどう見ても、綺麗に専用の器具で切断されていたからきっとパーカーは脱出のために用いたんだろう。
「まあ、田中さん、気味が悪いと思うから早く落としたいだろうが、一応警察や大家さんに言うために残しておいた方が良い。後、もう大家さんには連絡済みだからもうすぐ来るでしょう」
「わざわざ、ありがとうございます。」
「いえいえ、構いませんよ。」
丹下さんはすぐにいなくなったが、その後交代したかのように大家さんと警察官がやってきて事情聴取されたがあまり時間がかからなかった。なぜなら、犯人は今朝路上で捕まっていたからだ。犯人であるパーカーの男は合鍵で慌てて入った柚乃の後に続いてマンションに侵入したことが防犯カメラに映っていた。さらに、警察の話によると、柚乃にエレベーターに乗られてしまったため、犯人はエレベーターの到着した階を確認して俺の部屋の階に階段で登り、一軒一軒明かりを確認し、唯一玄関から明かりが漏れていた俺の部屋に来たようである。また、最近俺をつけ回していたことも自白したらしく、ある意味事件は全て解決した。だが、不思議なことにその犯人は吐き気を起こして路上に伏していて、その状態を巡回中の警官が今朝発見したらしい。
だが、全て解決した。これで、俺らは解放された。まあ、確かに怖かったし、おぞましかったし、置き土産に扉の清掃までよこしたが、それらさえ乗り越えれば、何もなくなる。
そんな喜びがあった。さらに、柚乃とのんびりすることができると思うと、本当に落ち着いた。
「さっさっと掃除しないと。」
柚乃に事情を話して、警察署には後日来てくれれば良いと言われたことも合わせて伝えて、新婚生活のように2人で扉の掃除をした。手の跡は絵の具で付いていたので、案外簡単に落とすことができた。少し気になったことがあった。掃除をしていたときに、柚乃が聞いてきた。
「犯人は華奢な人なの?」
「なんで?」
「だって、男の人にしてはちょっと指が細いし小さいと思って。」
「そうか、どうなんだろうね。ただ、フリーターらしいから体格は良いことはないだろうね。」
「そっか。」
柚乃も今回の事件で休みを取ることになったので、本当に新婚生活のような日々を送った。こんな日々が手に入ることがとても嬉しく感じた。「そうだ、あのアジサイが咲いたら柚乃と見に行こう。」
そんな先のことまで考えた。
だが、そんな妄想も許して欲しいほど穏やか1日だった。ストーカーからの開放感もあり、一層楽しめているのは間違い。なんたって、例の甘茶をほとんど飲み尽くしてしまったほどだ。だが、少し頭がクラっとしたが、柚乃が言うには甘茶の飲み過ぎだとのことだ。確かに、甘茶は毒性はないとされてはいるが、類種のアジサイは毒性があるし、甘茶による中毒事故もなかったわけではないから、飲み過ぎは良くない。とはいえ、ちょっとクラクラするなあと思い、伏していたら、いつの間にか、柚乃が夕食を用意していてくれたらしく、いきなり声をかけられた。
「あなた、ご飯できたわよ。」
「うっ? おう。って、まだ新婚じゃないぞ。」
「良いじゃない。ご飯食べましょう。」
「ああ。」
今日の食事はハンバーグとライスとスープという定番な夕食だったが、やはり美味しかった。
「ごちそうさま。」
「お粗末様です。そうだ、お風呂も沸かしてあるよ。」
「ほんと? ありがとう。じゃあ…」
言いかけたときに、柚乃に口を押さえられた。そのため、モゴモゴと言葉にならないことを言ってしまった。
「ちょっと待って。あのセリフを言わせて。」
「え? 何?」
「うっうん。 あなた、お風呂にする? ご飯にする? それとも、わ・た・し?」
ご飯は食べ終わってるだろうとツッコミを忘れてしまうほど、かわいらしく笑みを振りまいて言ってきたために、あまりにも高揚してしまい完全に口を滑らせてしまった。
「じゃあ…… 柚乃が良いな。」
「なあ…… えっ…… うそ…… でも…… 」
かなり戸惑ってしまったようだが、気持ちの高揚は収まらずに、柚乃に口づけをしてしまった。
「うっうん。もう…ズルいよ。」
「ごめん… 大人しくお風呂に入るね。」
「全くもう。背中流してあげるから我慢してね。」
そして柚乃の言葉に従いお風呂に入っていると、柚乃がお風呂場に入ってきたのだが、完全に仕返しをされてしまったのであった。
柚乃は一糸まとわずに浴室に入ってきたのだが、そういう場面に慣れていない草食系の典型である俺の心理を完全に理解したイタズラであったが、効果てきめんで柚乃の方に視線を向けられずにいると、柚乃は何もなかったように俺の背中を流したため、その指示に従ってじっとしていると背中が洗い終わり、風呂に入るように言うので、そのまま入ると柚乃も浴槽にいたので、驚き叫んでしまった。すると、柚乃は「これ以上のことをせがんだ癖に。」と全く正論を言って、すぐにお風呂場から出て行った。とはいえ、そんなイタズラをされてはすぐにのぼせてしまうので長湯はできないわけで、俺もすぐに出た。
だが、脱衣所に出て気づいたのだが着替えがなくなっており、代わりにバスローブが置かれていた。いくら柚乃の前とはいえ、裸はおろか、タオル一枚で歩くのも気恥ずかしいし、用意されているのだから着ておこうと思い、着てリビングに向かうと柚乃はいなかった。
どこに行ったのか探していると、寝室のドアが開いていたので中を見ると柚乃は涼んでいた。柚乃は誘っているのではなく、寝室にしかない扇風機にあたりたかったのだろう。それは彼女がエアコンがあまり得意ではなかったからである。
だが、こちらが風呂から出たことに気づいていないのは好都合であり彼女は何かの本に熱中しているようなので静かに背後にまわり、急に後ろから抱きしめると、「キャッ!」とあまり聞き慣れない声をだした。そして、「彼女が彼氏の家に泊まったときの振る舞い方・過ごし方特集」というタイトルの女性誌のページを読んでいることに気づいたので、「雑誌にある通りにしようか」と言うと、柚乃は静かに頷いた。後は雑誌にある通りの手順に従い逢瀬を遂げたのであった。
次の日になり、朝起きると横には柚乃がいた。昨日の朝とは違い、幸せに満ちた彼女の寝顔を見て、この子と出会えた喜びを噛み締めていた。
先に起きてリビングに行くと、携帯が机の上にあった。
「そういえば、全然見ていなかったなあ」と思い、画面を見ると、花咲さんからメールがきており、内容は例の書写のテキストを返して欲しいというものだったので、せっかくだからもう一度書いてから返そうと思い朝から書いた。そうしたみたところ、今まで一番上手に書けたので、それだけをリビングの端の小さなテーブルに残して他の作品をゴミ袋に詰めてゴミ出しに行った。
部屋に戻ると、柚乃はまだ目を覚ましていなかったので朝食の用意をして待っていると、柚乃が寝室から出てきた。だが、改めて顔を見合わすとどこか恥ずかしくお互い視線を外したが、お互い恥ずかしがったことがおかしくて笑みが出た。
その後はのんびり朝食を取り、柚乃は帰宅の準備を済ませて、帰宅した。
俺はといえば例の甘茶を一杯だけ飲んだが、やはりなんとなくクラクラする気がしたが、飲みたいという気持ちを起こりやはり飲んでしまう。花咲さんとの約束の時間はかなり遅いが俺が休んだせいか彼女は仕事があるらしく、どうしても23時になってしまうとのことだった。これがもし、やつがいるとなっていたら話は別だがやつは拘置所にいるから危険はない。
そんなことを思いながら、過ごしていると約束の時間に近づいたので例の広場に向かった。

すでに花咲さんは例の広場に来ていた。
「ごめん、遅くなった。」
「いえ、課長、こちらこそご足労いただきありがとうございます。それにストーカーの方はお礼を言っても言いつくせません。」
「気にしなくて良いよ。わざわざお礼をしたいなんて。いえ、とはいえとりあえず重いかと思いますので書写セットを預かりますね。」
「あっ、そっか、はい。」
花咲さんは書写セットを受け取った。
「ちょっと荷物を置いてくるので、また甘茶ですが少し飲んで待っていてもらえませんか。お礼の品も部屋にあるので。」
「ああ、構わないよ。それになぜか甘茶ばかり飲みたくなってしまうんだよね。」
「そうですか。気に入ってもらえてとても嬉しいです。」
彼女が去った後、静かに甘茶を飲んでいた。
30分くらいたったときに異変が起きた。急な吐き気に襲われたのであった。あまりにもキツイ吐き気に地面に伏していると誰かが近づいてくることに気づいた。その人に助けようとして、そちらに視線を向けると一瞬にして血の気が引いた。
履き慣らしたスニーカー、紺色のジーンズ、黒い上着、視線が上まで行ったときに気付いたがその上着はパーカーで、さらにマスクをしていた。そう… やつが再び現れたのだ。
「お…前がなぜ…ここに…」
すると、パーカーは素早くこちらに近づき、何か器具を押し当ててきた。
バチン
「うっ」
スタンガンだ。体に力が入らない。まずい… すると、パーカーが話し始めた。
「田中さん、こんばんは。わざわざこんな夜中に出歩くなんてアホですね。」
どこかで聞いた声だ。
一体どこでだ…
「声に覚えがあるようですね。まあ、今の状態では厳しいでしょう。あっそうだ。携帯を預かりますね。このスタンガンを最高出力にすれば簡単に壊せるので。」
バチン
「それでは自己紹介をしますね。私、○◇商事の経理部の花咲紫陽です。」
「は・な・さ・か・さ・ん?」
「ええ、そうですよ、課長。」
「どうしてこんなことを…」
「力を振り絞っていますね。さすがにそろそろ人の死に目は見慣れてきたので声だけでわかりますよ。」
「なぜ?」
「理由を説明する前に、何で課長は地面に伏したと思います?」
「………」
「勘付いたようですね。そうです。甘茶ですよ。アジサイ系の毒はめまいや吐き気が特徴なんですよ。だけど、それでも飲みたいと思ったでしょ? 実は課長にあげた甘茶のパックには脱法ハーブが少量混じっていたんですよ。ああ、今は危険ドラッグでしたね。だから、依存してしまったんですよ。」
「あの……あの男は?」
「ああ、あれは前から目をつけていたファイブマートの新人バイトのフリーター君ですよ。バイト終わりに誘ったらついてきてくれて何回かご飯を食べさせたら簡単に言うことを聞いてくれました。馬鹿なやつですね。就活に失敗して今の状態になったみたいですけど、馬鹿としかいえない。大学はそこそこの私立みたいですけど、勉強もしていないのに大手ばかり受けたって受かるわけないのに。非常階段の下で待たせておいたんですよ。私が犯行を終えて、非常階段を下った後、あいつにアジサイ毒入りのお茶を飲ませて中毒を起させて放置したの。だから、あれはただの生贄。とはいえ、どうせ罰金刑が関の山だから良いのよ。私はストーカー被害にあっていない。もう1人の被害者はもの言わぬ証人になるのだから。」
「お前、なんてやつなんだ!」
「あっ、声が出始めている。そろそろ効果が薄れてきちゃったか。はいもう一回ww」
バチン
「うっ。」
「さらにもう一回w」
バチン
「ぅっ……」
「やりすぎちゃったかな? でも男の人が苦しむのは好きなんですよw はあ、またこの瞬間がきた〜!」
「うっ…………うっ……」
「動く力も話す力も出ないのに頑張りますねw どうしよう? たのしくなってきちゃった。 課長は楽しいですか?」
「うっうっ……」
「そうですよね〜 答えられないですよね〜〜 さあ、そろそろ課長には私の役目を果たさせてもらいますね。」
「うっ…………うっ。」
「ああ、もう動けないくせに抵抗しないでください〜 うざいから片手と片脚、地面に止めちゃいますね。」
カーンカーン
カーンカーン
「はい、これでオッケーw 金具で止めるのが至福で〜〜す。 さあ、生贄になってください、か・ちょ・うw」
「君の名前は花を咲かせるで花咲だったのか。だからアジサイを」
「課長って体力自慢ですか? こんだけ痺れたら舌が麻痺して喋れないと思うのに? まあ、そういうことです。それでは。」
サクッサクッ
グチュグチユ
「うっ……うっ……うぐ。」
クチュクチュ
「うっ……うぐうぐ……うっ。」
「あっ、これを打つの忘れていた。痛みますか?痛みますよねw だって、ナイフでお腹を開かれようとしているですからw 苦悩する顔が素敵ですよね、か・ちょ・うww まあこれ以上はかわいそうなので、はい麻酔というか、睡眠導入剤。 」
プスッ
「さあ、もっとえぐらないと。」
クチュグチュクチュグチュグ
「これで大丈夫。」
どんどん身体が冷えていく。ああ死ぬんだ。クソ。まだ死ねない…… ダメだ意識がかすれてきた。
シャッシャッシュッシャッシャッ
シャッシュッシャッシャッシャッ
スコップで土を取り除く音が辺りに響いた。「はい、じゃあ埋まってくださいね。他の人たちと一緒にアジサイのために。」
ズズズズズズ
ズズズズズズ
身体が引きずられていく……
シャッシャッシャッ
シャッシャッシャッ
土が静かに被せられていく。

「な……ん……で……」
「だって、赤い花が見たかったから。」
シャッパンパン、土が元通りの状態に戻された、何事も無かったかのように。

ーーーーー
「3丁目のマンションって例の35歳の男性が行方不明になる前に住んでいたところだそうね。」
「そうそう、平成の世の中だっていうのに『奥の細道』の冒頭が書かれた置き手紙があったらしいわよ。わざわざ名前まで書いて。旅に出るって書けば良いのにね。」
「全く婚約した彼女がかわいそうじゃない。」
「ああでも、彼女の方は帰ってくるのを信じているんですって。献身よね?」
「そう言えば今年もアジサイ綺麗ね? あの広場の。」
「そうね〜」
「あれって土がアルカリ性なんでしょ?」
「ああ、関係ないわよ。あの広場の品種は赤い花がつくのよ。土とか何も影響しないの。」
「そうなの〜〜」
パタンと本が閉じられる音が響く。
「ヘぇ〜そうなんだ。じゃあ、課長だけじゃなくて今までの人たちも無駄死になんだ。残念。でも、花は赤いし、きれいだなあ。ころしちゃったけど。…………………………………………………………………………まっ、良いか。」
今年も雪ノ下のアジサイはきれいに咲き誇ったのであった。

あとがき

いかがだったでしょうか。結構、ゾッとした話になっていたと思います。最後の最後に、花咲紫陽(はなさかしよう)という名前の読みが明かされるようになっています。紫陽花の花を咲かせるという意味と、花咲しよう(let`sの意味で)という意味で、紫陽花への異常なまでの執着を名前にしてみました。その執着が端的に現れた、狂気的な行動を表現したかったのが、今回の作品だったので、とても気味の悪い感じがしたのではないでしょうか。書いた本人も、何か恐いというか、ゾッとするというか、その異常性に血を引くような感覚を味わえるように表現したかったという点は5年前の自身が目指したものであり、今読んでも意外と表現しきれていると思います。

ところで、タイトルのない小説の続編を実は過去の自分が書いていたようなので、少し誤字訂正をしながらアップの準備ができたら順次公開していきたいと思います。


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