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『シナの五にんきょうだい』―絶版の裏にある伝えたいことと様々な技法―

大学生の時書いたエッセイです。少しだけ誤字訂正しましたが、基本的にそのままを掲載しています。今思えば、読み込みの甘さもありますが、20歳前後の若々しさで少しでも作品の奥底に触れたいと思う姿勢は感じられたので、読書熱を感じたい方は読んでみてください。

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1、はじめに
 子供のときに読んだ本と言われて思いついた作品がこの作品と「あらしのよるに」だった。その中で、この作品に決めた理由は児童文学作品に時々ある絶版の経験をこの作品もしているからであり、なぜと思ったことに端を発する。

2、作者の経歴
作:クレール・H・ビショップ
 出生地はフランスとする説とスイスのジュネーブとする説の2つがある。パリ大学を中退後、1924年にフランスで最初の児童図書館を開設した。アメリカのピアニストだったフランク・ビショップと結婚後、渡米しニューヨーク公共図書館に勤めた。カトリックの護教論者で、反ユダヤ主義を批判した。
絵:クルト・ヴィーゼ
 1887年、ドイツのミンデンに生まれる。 幼い頃から絵に興味を持ち、芸術家になりたかったクルトであったが、芸術家で生計をたてる人は当時前例がなかったためあきらめ、中国への輸出貿易に関して学習する ためにハンブルクへ移住した。 その後、1911年の革命が始まる直前の1909年に中国で6年間過ごす。第一次世界大戦が始まり、クルトは日本人に捕らえられ、 オーストラリアで捕虜として5年間過ごした。その後、ブラジルに渡り、子供の教科書や絵本の挿絵を描くなどした。1927年にアメリカに移動してから、絵本20冊以上にイラストと、他の著書本の挿絵300冊以上作った。 主な作品に「シナの5にんきょうだい」「あひるのピンのぼうけん」などがある。 1974年、ニュージャージーの農場で永眠した。
訳:川本三郎
 1944年生まれで、阿佐ヶ谷で育つ。東京大学法学部に入学し卒業後、1年間の就職浪人生活を経て、2度目の受験で朝日新聞社に入社した。1972年に取材上のトラブルで逮捕され、懲戒免職となった。以来、フリーの文筆家となり文芸・映画・都市など幅広いジャンルで多数の著書がある。

3、あらすじ
 シナ(現、中国)に母親と仲良く暮らす5人の兄弟がいた。その5人はそれぞれ特殊な能力があった。例えば、長男は海の水をすべて口にため込む力があり珍しい魚を集め村で売るなど、その特殊な能力を利用し生活していた。あるとき、村の子供がその長男に「貝殻を拾いたいから海の水をためてくれ」とお願した。はじめは断ったが子どもがあまりにもお願いするので長男は合図したら戻ってくるという約束で願いを聞くことにした。しかし、実際に海に行き水をため込むと、子供の態度が急変し合図しても完全に無視し、どんどん沖のほうに向かっていった。なんとか戻そうと、長男は合図するが、一向に戻らず、水をため込む限界を超え、水を海に戻してしまい、子供はおぼれて亡くなってしまった。村に帰ると、子供を殺した罪をかけられ、死刑に処されることになった。そこで、長男は「最期に母親に会いたい」と許可をもらい、家に帰り代わりに、次男を行かせた。刑の内容は断頭の刑だった。しかし、刑を実行すると、首は切れることなく、次男は無事だった。次男は鋼鉄の首を持っていたからだ。その様子を見て新たに海に放り込む刑に処されることになった。次男は長男と同じ言い訳をして家に戻り今度は三男に向かわせた。三男はどこまでも足が伸びるという特殊な能力を持っていたため、溺れることなく無事に村に戻ってきた。戻ると、今度は火あぶりの刑に処されることになったので、次男と同じ言い訳をして家に帰り、四男を行かせた。四男は燃えない体をしていたためやはり刑は失敗してしまった。そのため、村人は失敗続きでカンカンに怒ってしまい、生き埋めにすることにした。そこで、上の兄たちと同様に言い訳して、家に帰り末っ子に行かせた。刑が実行され1日中かまどに入れられたが、いつまでも息を止めておける力があり何事もなくかまどから出てきた。それを見て、裁判長が「我々はお前を死刑にしようと色々やってみたが、どれも駄目だった。お前はきっと無罪に違いない。」と言い、村人も納得したため、末っ子は解放され、家に帰った。そしてその後、5人兄弟と母親は仲良く暮らした。

4、考察
4-1なぜ、絶版になったのか。
 この作品は、アメリカと日本で非難を浴び、日本では1978年に絶版になっている。アメリカでは主に2点の問題点が指摘された。1点目は細長の目や辮髪など、中国人を戯画化して描いている点だ。2点目はアメリカ社会が中国からの移民労働者に強制した服装が描かれている点だ。日本では、「シナ」という言葉の背景に侵略と差別の歴史があると問題視する意見が出て絶版することになった。これらの意見は確かにまっとうな意見なように聞こえるが、2点問題がある。
1点目は問題視している部分はすべて内容に関するものではないという点である。アメリカの方は絵の問題であり内容の問題ではないし、日本の方も原作は”The Five Chinese Brothers”というタイトルで訳者が意図的に訳さないと「シナ」とはなりえないためやはり内容の問題ではない。とはいえ、内容・絵(・訳)のすべての要素がそろって初めて児童文学、文学作品と言えるという指摘もあるかもしれない。
しかし、2点目も含めるとどうだろうか。2点目はそもそも作者の意図が中国人蔑視を目的にしたものだったのかという点だ。しかし、この作者の経歴から考えると少し考えづらい。反ユダヤ主義を否定しているように、虐げられたマイノリティーを擁護したいという考えを持っていたのではないだろうか。そのような意図があると読んでみると、むしろ戯画化した絵や強制した服の絵を内容に添えることで今までアメリカ人がやってきた、中国人への冷遇を非難する目的があったのではないだろうか。この本を通し、いままでしてきた行為を思い出し反省を促すものだったのではないか。また、日本でも同様のことが言えるだろう。訳者がわざわざ中国と訳さず「シナ」と訳したのは、上述の過去のマイノリティーに対する行為を非難する作者の意図を組んでわざと「シナ」と訳したのではないか。だからこそ、問題視は出るかもしれないが、それを超えた指摘を行いたかったのではないだろうか。

4-2内容の考察
4-2-1なぜ帰宅できたのか。
 この作品の特徴である、兄弟の特殊能力を生かすために、帰宅と刑に合わせた兄弟の交代が必須である。しかし、なぜ毎回言い訳が同じ内容なのだろうか。言い訳を変えなくても裁判長や村人が帰すことが出来る理由があったからだろう。まず、1番分かりやすいのは、その次に行う刑に自信があったからだろう。次の刑で必ず上手くいくという自信があったからこそ多少の願いなら叶えてやってもいいと判断したと考えられる。
 では他にどのような理由があるだろう。それを読み解くにはやはり言い訳した内容がポイントになるはずだ。その内容は、もう1度だけ母親に合いたいというものだ。これを受けて、もっともな理由として帰宅を許している。ここから分かるのは、母親より先立つのは良くないという意図が読み取れる。裁判長や村人に自信があったとしても、確実に成功させるために帰宅を許さないという手もあったはずだし、失敗するごとに怒りを増していったが、それをしないのはやはり言い訳の内容が重要視されるべき内容だからだろう。そこから考えると、やはり親より先立ってはいけないという考えがあり、作者もそのことを、文章を通して伝えたいのではないか。

4-2-2父親がなぜいないのか。
 先述のように、親より先立つのは良くないという考えがあったからこそ親が登場人物に必要だ。しかし、父親は全く登場しないし、少しも触れられていない。なぜ父親はいないのか。これを解くには物語に登場する母親を分析する必要がある。とはいえ、母親は登場するも情報がほとんどない。だが、1つだけ分かることは特殊な能力を持っていない可能性が高いという点だ。この作品では最初にかなりの情報が与えられており、兄弟の特殊な能力は冒頭に述べられている。ここで、兄弟が特殊な能力を持っているということに論理的に担保するためには親も何か特殊な能力を持っていたほうが良い。しかし、その点は一切触れられていない。そのときに、いない父親が何からの能力を持っているとするかなりストーリーのつじつまが良くなる。
まず、父親が持っていれば、子どもである兄弟たちは能力を持っていておかしくない。しかし、父親の能力がかなりすごいものであったら兄弟の活躍の舞台がなくなってしまうし、全く役に立たない能力では兄弟たちの能力がむしろ便利すぎると違和感を生んでもしまう。そこで、1番良いのは、母親に能力はなく父親を登場させないことだ。父親には何の能力があるか分からないが、なにか能力があるんじゃないかと想像できるようにした方が創造力をかきたてるし、ストーリーもつじつまがあう。まあ、色々述べてきたが、一緒に読み聞かせする母親が上手く言い訳する逃げ口を作ったと考えるのもありかもしれない。そう考えると、やはりつじつま合わせのために母親のみの登場なのではないか。

4-2-3なぜ兄弟の能力の認知度は低い。
 兄弟たちの能力はどれをとっても特殊なものだろう。なのに、村人はその事実を知らずに刑を行い、結果的に、許すことになった。もし兄弟たちの能力を村人が知っていたとしたらどうだろうか。例えば、針山に投げ込んだり、雪山に置き去りにしたり、兄弟の能力ではしのげない刑を実行できたはずだ。しかし、そうはしない。怒っていたなら、なおさら確実な方法を取るのが自然なので、知らなかったと考えるのが良いだろう。
ではなぜ兄弟の能力は村人に認知されていないのだろうか。挿絵から察するに、村の郊外に住んでいて直接的な村人との交流はないように見える。つまり、そもそも兄弟が5人もいることを知らないかもしれない。なぜなら、長男の特殊な能力を子どもが知っていたように長男の能力は浸透していたのにもかかわらず、その他の兄弟に能力があるんじゃないかと思う人がいなかった。このことから、やはり兄弟の存在を村人は知らなかったのだろう。では、このような設定にした理由は何だろう。それは読者にドキドキ感、すなわち臨場感を与えるためだろう。サスペンスの手法に似ている。サスペンスは犯人が既に分かっている中で、犯人が追い詰められていくさまをどのようなプロセスで追い詰められていくのかを楽しむ仕掛けとなっている。これをこの作品に当てはめると、能力は先に知っていて、それをどんな風に使っていくかを楽しむように意図されているのではないか。そう考えると、村人は兄弟の存在や能力については詳しく知らない方が良いし、冒頭で能力を紹介しておくのも良いことだろう。

5、終わりに
 かなり粗い考察だったかもしれないが、何かを伝えられたなら幸いだ。この論文を書き上げて思ったのだが、何かを伝えられたらと思う気持ちは動機として重要だなあと感じた。それを考えると、この作品の作者たちも伝えたいことがあったからこそ、非難を浴びるかもしれないという覚悟の上で、この作品を世に出したのではないか。それを考えると、4-1で挙げたような考察ではまだまだだと感じてならない。とはいえ、今回の出来る限りは尽くせたと思うので、後悔はしていない。もし、優れた洞察力を持つ方がいたらぜひこの論文よりも深い考察をしてほしいと願うばかりだ。

6、参考文献
『シナの五にんきょうだい』、瑞雲舎、1995年。

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