わたしは最悪。は最高だった話
先日「わたしは最悪。」を観て、おこがましくも、人生における違和感を大切にしているユリヤに共感した。そして、だからこそ観ていてしんどい部分もあった。
「自分らしい決断」をするには犠牲が伴うが、ユリヤは自分の人生を生きるためにも自分のための決断をし続ける。
医学部生としての道はだいぶ序盤に断念するし、恋人も自分の心に従って変えていく。(少し違和感があったとしても、ある程度の名声と富を持つアクセルのような男性が相手であれば、あのまま結婚する人も多いのではないだろうか...)
でもユリヤの場合は、自分にだけは嘘をつかない。嘘をついても長続きしないことを理解しているからこそ、対象の相手や仕事とのケジメをつけられるんだろうなとおもった。
結婚や出産、キャリアに関する社会の規範に従うことなく、自分の軸で動いているそんな主人公ユリヤはとても強い女性だ。
違和感には敏感だけど、自信も確信もない主人公。
そんなユリヤ、違和感には敏感だけども、自分自身への自信や確信はない様子。色々と迷子になってしまい、「あなたは一生コーヒー注いでるつもり?」と、カフェバイトをしている二人目の恋人アイヴィンにあたってしまうシーンはみていて辛かった。
だからこそ、一人目の恋人アクセルが亡くなる前に「人生の後悔は君に自信を持たせてあげられなかったこと」というシーンが個人的にはとても印象に残った。
それだけ女性にとって「自信」は大きなテーマなのだろうなあと。
この作品では、社会での女性の扱われ方があらゆる形で表現されていた。
あくまで私の解釈なのですが、
例えば、第1章「ほかの人々」ではアクセルの実家にお邪魔するのだが、兄夫婦の子ども(女の子)が、「まだ寝たくない」と暴れまわる。すると、彼女は母親にとっても怒られて部屋に連れていかれる。子どものころはみんな自由に想いを表現していたけど、特に女の子はちゃんと振る舞わないとすぐ怒られちゃうから、どんどん自分の主張をしなくなる、というのを表現しているのかなあとか
あとは、夜、頭から出血するほどの大怪我をしてしまうお母ちゃんに対して、アクセルは「あの人は大袈裟だから」で済ませてしまっていたり。ユリヤは自分のせいじゃないのに「自分のせいだ」と自分を責めていたり。
あの章では、あらゆるシーンでの女性が経験する「特有の扱われ方」が描かれているようにみえた。だからこそ女性は複雑な生き物になるし、自信も持ちにくい。故に、何事においても男性ほど単純明快になれないんだぜ、というメッセージを示しているのかなと思った。
レビュー
冒頭でもお伝えした通り、自分と被る部分があるからこそ、この映画を観て少し凹む?気持ちもあったんだけど、レビューに救われた。
レビューを読んでいると、本当にいろんな意見があるけど「ユリヤのように生きたい」という声が割とあったことに驚いた。
なんだか「自由にやっちゃっていいんだ」と思わせてもらえた。
また、有名女優のダコタ ジョンソンは、これまで映画で泣いたことはなかったけど、この作品では号泣だったらしい。
客観的に見ると”成功”しているように見える人も超共感していたりする姿を見ると、「なんだ、みんな一緒じゃん」と思える。生きる以上、みんな色んな葛藤があるんだなーって。この作品がこれだけ話題になっているのは、共感の声が多いからだと思うし、そんな声の多さに励まされる。
同時に、共感どころか、不快な気持ちになっている人も一定数いる印象だった。
ただ個人的には、ユリヤは別に”最悪”ではないと思う。自分に正直に、思うようにやっているだけだ。
心に従うって、割と当たり前なことをしているだけなのに、”最悪”と見受けられてしまう今の社会を皮肉った映画タイトルなんだろうなあとか思ったり。
取り留めないけど、思うことがたくさんある映画でした。
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