刀剣男士の記憶の話


※修行(手紙)・極・2.5次元の内容にも触れるので注意
※完全なる個人の解釈です

ゲームは映画の数か月後に始めたのですが、1年ほどたち刀剣乱舞2.5作品をほぼすべて見た私は疑問に思っていることがあります。(アニメは半分ほどしか見てない)

刀剣男士の記憶は事実か想いか

たぶん結論としては「刀によって違う」のだとは思います。ですが、作品に触れていくにつれてこのことがすごく気になるようになりました。

映画の三日月宗近の記憶は事実によるもの。これはほぼ間違いないと思います。少なくともあの本丸が守るあの歴史の中では織田信長が死んだのは安土の城であって本能寺ではない。
しかし、信長の懐刀だったはずの薬研藤四郎は信長は本能寺で死んだと記憶していました。

薬研藤四郎は焼失したせいで記憶があやふやであるということであるならこの矛盾を生んだ可能性は否定できません。手紙でも信長がどこで死んだかというのは明記されていませんし、骨喰や鯰尾のように明言はしてないというだけで一部記憶がないという可能性だってあります。粟田口の燃えた刀は一部記憶がないと言っている刀が多いわけですし。最終的には正しい記憶を思い出したわけですし。

でも、人間の認識の強さが元の主の死に場所を間違えるほど薬研の記憶に影響していたんだとしたら、薬研藤四郎という刀の記憶は人の想いによるものだと言えるのではないでしょうか。

他の刀剣男士で考えてみましょう。例えば今剣と岩融の場合。

今剣の顕現時の台詞に「義経公の守り刀だった」とあります。しかし、修行で義経公の元へ向かった今剣は自分(今剣)が存在しないことを知ります。
岩融も同様に、弁慶が所持していたのは自分(岩融)ではないということを知ります。

今剣と岩融という刀は物語の中の存在だったわけです。

ミュージカル刀剣乱舞の歌合で鶴丸国永はこう言っています。

人の思いで紡がれた物語を縁(よすが)とし、この世に生まれいずるのは歌も我らも同じ事

そもそも人に長く愛され大切にされたものに付喪神が宿るというのですから、付喪神は人の想いの結晶であるというわけです。
だからこそ、この二人の記憶は事実ではなかった。今剣と岩融は刀剣男士として生まれることができたのは義経公の物語が皆に愛された存在だったからこそということになります。

結論としては伝承があやふやなものほど人の想いが記憶になるということなのかなと思います。いつ、どこにあって、誰が使っていたかが歴史的にはっきりしている刀はその事実をよりどころとして生まれる。
物語の存在であったり、自分や元の主にいろんな説がある刀は人の想いをよりどころとして生まれる。
手紙でも人の想いで形作られている刀もあるみたいなことを言ってるみたいですし。

まあそもそも歴史というもの自体があやふやなものが多いわけですから、刀剣男士の記憶や来歴があやふやでも何らおかしいことではないのでしょう。

よりどころとする記憶を事実とするかこうであってほしいという思いとするか。刀剣男士をそういう風に見てみるのも楽しいかもしれません。


余談を一つ。
よく、二次創作で顕現した審神者に影響されるという設定がありますよね。
あれが本当だとしたら、ちょっと怖くないですか?もし、歴史が好きな人が審神者になったとして、今剣や岩融は物語の中の存在でしかないと知っていたら?その記憶が想いが、今剣と岩融を顕現させるときに影響したら?

あの二人の記憶はどうなるんでしょうかね。

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