私は確かに”青春”していた 4
初めて賞状をもらうことができた3月末の試合のあと親友は受験勉強のため引退した。最初11人いたはずの私の代は5人になっていた。6月頭の団体戦が終わって引退することが多かったが、私の代は早くから1人、また1人と去っていった。
願いが叶うとき 2
高校3年生になり、私は弓道の腕前がどんどん上がっていた。4月末の試合の団体メンバーに順当に入り、後輩と仲良く練習していた。そんな中この試合で男子二人が引退するという話をきいた。受験という言葉がちらつく中、私は6月まで引退しないと決めていた。上位大会に出るという目標のためIHの予選は絶対に出たかった。
4月末の試合は私以外全員後輩というメンバーだったが、仲のいい子たちばかりで練習も楽しかった。調子が落ちることなく試合当日を迎えた。
個人の結果は8射4中で個人戦決勝には進めなかった。しかし、私の努力は再び報われた。
団体戦で上位8校の決勝トーナメントに進むことができたのだった。1戦目こそ20射7中と振るわなかったものの2戦目で全員が爆発し20射11中という過去最高レベルの的中があり、3位タイで予選を通過した。
決勝トーナメントで一回勝てば中国大会に出場できるとわかった私たちはテンションが壊れた。絶対出場権をとってやるとみんなの気持ちが一つになった。夢がすぐそこまで近づいていた。
決勝トーナメント1回戦(準々決勝)、壊れたテンションのままやった試合は20射7中、相手校は20射4中で私たちが勝った。中国大会に出場できる。泣きそうだった。
2回戦(準決勝)、相手は優勝候補の県内強豪校。先程と同じく20射7中と健闘したものの相手校は20射12中であっさりと負けてしまった。3位決定戦はなかったので、最終順位3位タイとして、この大会は幕を閉じた。
高校2年生の時、悔し涙を流したこの大会で入賞できたことが本当に嬉しかった。1年越しのリベンジが叶った瞬間だった。
思わぬ刺客
中国大会に進めることを喜んでいた私たちにある重大な問題がふりかかった。私以外が全員2年生。そして、中国大会は6月末。おわかりだろうか。
修学旅行被ってない?
私は知っていたが、おそらく2年は知らない人ばかりだった。大会は公式練習を含む21日から23日の3日間。修学旅行は国内が18日から21日の4日間で海外は22日までの5日間。
そして、ほとんど全員が海外組だった。
私は中国大会に出たかったけど、それは修学旅行という一大イベントを無視していい理由にはならない。お金もかかってるしね。2年生に親と話し合って悔いのないように決めるよう話をした。
次の日、国内に変えられるとわかると、数人が国内に変更して試合に出ると言ってくれた。もともと国内だった子も補員としてくることを了承してくれた。
先生と話し合いをした結果、2年は21日の公式練習は出ず、修学旅行にフルで参加し本番1発勝負をするという結論に至った。公式練習は私一人で参加することになった。
何度も後悔しないか確認した。すると、後輩たちはこういってくれた。
私たちは先輩と一緒に試合がしたいんです
話が決まってからは、中国大会で入賞するという目標の元、練習を始めた。
3年の引退
中国大会出場に喜ぶ中、男子二人はあっさりと引退した。そして5月頭、IH個人予選をもって女子二人が引退し、3年は私ひとりとなった。
他の部活でも次々と引退していく中私は弓を引き続けていた。受験に対する焦りがなかったわけではない。この時私はまだ、志望学部すら決まっていなかった。オープンキャンパスなんて行ったことないし勉強してないからいける大学があるかすら怪しいレベルだった。少しずつ受験を考えながらも、弓に対してだけは真摯に取り組んでいた。
ずっと真面目に取り組んできたからだろうか。的中率がひたすら上がっていた。4月ごろから50%を切ることがほとんどなくなり70%台に近づきつつあった。しかし、相変わらず試合ではポンコツ。
IH個人予選は、地区予選は突破したものの6月の県予選1回戦で敗北。6月頭のIH団体予選は全員振るわず敗北となった。
そんな中、ひとつ顧問から嬉しい話を聞いた。高校弓道連盟の方が私のことを憶えてくれていたらしい。その方は中学の元副校長で、初めて試合会場で見たとき驚いて、先輩と一緒に「副校長ですよね?」と確認したのを覚えている。
そんな不思議な縁のある方が名前を憶えてくれていた。個人で成績を残したわけでもない1選手の私を憶え顧問に賛辞を伝えてくれたらしい。
中学以降先生に褒められたことなどほとんどない私にとってこれ以上ないほど嬉しかった。
5へ続く