私は確かに”青春”していた 3
自分の性格の悪さに嫌気がさしながらも、あきらめないことを決意した高校2年の9月末。私の決意が揺るがないかを試すように私は問題を抱えていた。
不仲の軽減
部長と私の雰囲気が過去最悪になっていた。
副部長がいない中1人で勝手にルールを決めだす部長。部長が頑張っているのは理解していたけど、顧問の話を聞いて勝手にやり方を変えていく部長に対して私は不満を抑えられなくなっていた。せめてまじめに来ている2年にくらい話を通してくれるならまだよかったのだろうが、そんなことは一切なし。
練習終わりの連絡でいきなり「変えます」と言うだけ。そんな部長の態度に納得がいかずきつい態度で接する私。
まあ、なんというか、戦争が始まらないわけがなかった。
ちょっとした愚痴から始まり文句の言い合いになり、ついには口も利かなければ目も合わせない、お互いがいないものとして部活をする日々。雰囲気は最悪で、精神状態が良くないこともあり気が付けばスランプが再発していた。
結局、このままではまずいと思ったのか部長が3年の先輩を頼った。部活に現れた先輩は最初は「暇つぶしに来た」とごまかしていたが最終的に「部長から関係改善のために仲介を頼まれた」と教えてくれた。
受験勉強で忙しい時期のはずなのに(10月末)私の話をじっくり聞いてくれた。先輩という第三者を挟んでお互いの主張を伝えることで関係は少しずつ険悪なものから改善されていった。
新たな決意
部長との関係が最悪だったころ、私は弓道に対する熱が冷め始めていた。
1年の時は大好きな先輩と一緒に戦いたかった。先輩が引退してからは後輩と仲良くなりたかったが指導することがほとんどなかった私は心を許せるほどの後輩はいなかった。
団体戦に出ても楽しくない。スランプが長引き、弦で顔を払うことも多く、的中率は下がり続け、だんだん弓を引くことが苦しくなっていた。そんな中で出場した11月の試合は8射1中と最低記録タイという結果になった。
帰りのバスで親友に打ち明けた。楽しかったはずの部活が楽しくない。苦しい。何で中らないの。こんなに頑張ってきたのに結果が出ない。親友は黙って聞いてくれた。
偶然顧問が前に座っていて私の話が聞こえたらしい。帰りながら顧問と初めてちゃんと言葉を交わした。そこで私はやっと気が付いた。
指導者いるじゃん。私が求めていた強くしてくれる人が目の前にいる。
精神的にも追いつめられていたのだろうか。スランプになった後も、顧問に見てもらうことは一度もなかった。ただ一人で悩み続けていた。
やっと指導者がいることに気が付いた私は、新たな決意をした。
嫌いだろうがなんだっていい。現状を変えられるならなんだってやってやる。
帰りのバスの中で、顧問に試合の批評、射形のアドバイス、どう改善すればいいかなど気になったことを全て聞いていきメモに書き留めた。次の練習から積極的に顧問に話しかけ、やりながら気になったことを聞いたり、射形を見てもらったりするようになった。
すると必然的に後輩との接触も増え、仲良くなれた。この後輩となら団体に出たいかもと思える子たちもできた。射形もだいぶ改善され試合から1か月ほどたつ頃にはスランプから抜け出すことができた。
後輩の成長は相変わらずすさまじく思えたが、それで焦ることもなく、12月の1年生大会で入賞してきた後輩を素直に喜んであげることができた。
寒い冬の練習を乗り越え、代替わりした高校2年の3月、先輩たちが卒業していった。これからは、何かあっても自分たちで解決しなければいけない。先輩に頼ることはできなくなったが不思議とそこまでの不安はなかった。だいぶ遅くなったものの後輩と関係を築けたことが大きかったのだろう。
卒業式から1週間ほど後のこと、審査を受けて2段に合格した。
願いが叶うとき
3月末、2度目となる団体リーグ戦に出場した。1年前、3部リーグに落ちて来年絶対2部に上がると目標を定めたこの試合で私は目標を達成することができた。
個人の結果は皆中一回を含む12射6中。単純な結果は去年に劣ったものの、試合で皆中するという念願を叶えることができた。久々に試合が楽しかった。
団体の結果も3戦2勝1分け(規定により勝利扱い)で昇格戦に臨むことができた。時間がおしていたため昇格戦は1人1手(2射)、合計10射の的中本数で競うことになった。私はその昇格戦で親友とそろって1手皆中を成しとげた。
昇格戦に勝利した私たちは、2部昇格が決まり、3部リーグ優勝の賞状を持ち帰ることができた。
入部してから約2年、苦しくても諦めず続けた努力はこの日確かに報われた。
初めて試合後に写真を撮った。とてもいい笑顔だった。
4へ続く