日本短距離界の可能性、山縣亮太はどこまでも切り開く。
こんにちは、大変ご無沙汰しております!
1ヶ月ぶりの更新となるが、タイトルに違和感を感じた方もいらっしゃるであろう。
私のnoteを楽しんで下さっているサッカーファンの皆さんには申し訳ないのだが、今回の記事ではサッカーには触れず、日本の陸上競技について過去2度のオリンピックを中心に触れていく。
私自身、主にスポーツ全般を観戦するが、陸上の短距離(スプリント)は、サッカー、野球に並んで大好きなスポーツだ。
自身のベストタイムを更新するために練習を重ね、その重ね上げてきた練習の日々は1年、2年、そして3年と過ぎる。
言い方を変えると、彼らは100分の1秒もの差を縮めるために何年もかけていく。
しかし彼らにしてみれば、自身の結果がドンと出るレースはたったの約10秒。
何年もの努力が数字となって結果に表れ、自身の評価が約10秒で決まる。
こんなにも嘘をつかないスポーツはない。
スプリント競技の醍醐味である。
現在、日本短距離界には数々のスターが名を連ねる。
「10秒の壁」と呼ばれ続けてきた、日本人史上初の9秒台を記録した桐生祥秀。
それに追い討ちをかけるように、桐生の持つ9.98を0.01秒更新したサニブラウン・アブデル・ハキーム。
そして更に9秒台スプリンターとしての名乗りを上げた小池祐貴。
また、「和製ボルト」の異名を持つ飯塚翔太や、今後更に9秒台を狙えるケンブリッジ飛鳥、多田修平も十分な可能性を秘めている。
そこで今年、6月に行われた布勢スプリントの決勝で、新たな日本新記録〝9.95〟が誕生した。
タイトルを見てもらえれば分かるであろう、その名は山縣亮太。
陸上をよく見る方なら知っていると思うが、彼は苦労人だ。
リアクションタイム(スタートの号砲が鳴らされてからスタートを切るまでの時間であり、これが0.1秒以内であるとフライングとなり失格)はボルトやデグラッセを抑える0.109。
世界レベルのスタート技術を持ち、ロンドン、リオデジャネイロと2度のオリンピックで自己ベストを更新するなど勝負強さを兼ね備える一方で、怪我や病気といった度なる逆境に苦しめられてきた。
「どうか、無事に育ってください」
山縣は生まれた時から逆境に立たされていた。
未熟児として生まれ、出生体重は1730グラム。
生きるか、死ぬか、という危険な状態で呼吸も弱々しく、新生児治療室で約2ヶ月間を過ごし、退院後も1年間の外出禁止令。
「こんな風に育って欲しい」などと考えられるような状況ではなく、普通の子と同じ生活が出来れば良い、と両親も願うしかなかったそうだ。
そんな未熟児だった彼がメダリストに。
運動神経は抜群に育ち、4年生から陸上を始めると、数々の記録を残す。
山縣の特徴である、軸がブレない精密な走りは小学生時代から健在だった。
そして他のトップスプリンターとはひと味違っていることがある。学歴だ。
高校は私立校では広島県内1位の偏差値を誇る修道高。
その中でも東大や京大への進学を目指す生徒もひしめく文系のトップクラスに籍を置き、後期でのAO入試を経て慶應義塾大学へ進学。
前期日程での入試は、大会と重なり受けられず。
後がない状況での受験だった。
そこでもし不合格となってしまっていたら、東大の受験を考えていたほどのインテリ・スプリンターだ。
度重なる怪我やライバル・桐生の出現などに苦しみながらも戦い抜いた大学時代。
卒業後は、陸上競技では有力選手は実業団に進むのが一般的である一方、山縣は陸上部のないセイコーホールディングスに所属。
異例中の異例の決断だった。
「より良い競技環境という意味では実業団だと思う」
「だけど、セイコーさんは〝選択肢〟を与えてくれる。何が必要か考えて会社側に提示することで、できることの可能性が広がる。自分はわがままだし、人と違ったことをしたいという気持ちがあったから」
自らの頭で考え、自分で判断して進んでいくことにプライドが持てるのは、70を超える偏差値を持つ学力と走りを磨く能力に長けていることに他ならない。
セイコー入社1年目は、痛めては治し、治しては痛めを繰り返してきた腰の治療に専念。
どんなに休もうとも、万全になれば速く走れる。桐生にも負けない。そういう自信があった。
リオ五輪を見据えて休んだ2015年。
本番で一泡吹かせる準備は整っていた。
2016年6月、日本選手権。
決勝では良い飛び出しを見せるも、フィニッシュライン手前でケンブリッジに刺され、惜しくも0.01秒差での2位フィニッシュ。
優勝こそ逃したものの、その後リオ五輪の出場権を見事に勝ち取った。
本大会。
個人種目では、5着で決勝進出とはならずも、オリンピックの準決勝という舞台で自己ベストを10.05と更新。
ともに100mに出場したケンブリッジも準決勝で敗退、桐生はまさかの予選敗退。
飯塚をはじめ、200mの藤光謙司、高瀬慧も誰一人として準決勝に勝ち上がることができず、陸上短距離でのメダル獲得への望みはリレーのみとなった。
山縣ー飯塚ー桐生ーケンブリッジの走順で出場することが決まった4×100mリレー。
予選での狙いは、個人種目からの修正はできているか、ということだった。
自己ベストを更新した山縣は調子を維持出来ているか、ベストの力を出し切れなかった他の3人は本来の走りを取り戻せているのか。
タイムは日本記録を一気に0.35秒も縮める37.68で、ケンブリッジが最後に軽く流しての1位フィニッシュ。
直前に中国が37.82と更新していたアジア記録も一気に奪い返して見せた。
8月19日、決勝当日。
昼まではフリーで、殆どの選手が選手村近くで過ごす。
午前10時、山縣は1人でリオ市内の練習グラウンドに向かった。
「確認したいことがあったんで」
前回ロンドン五輪、務めたのは今大会と同じく1走。
予選は9レーン、決勝は4レーンと5つ内側に入ったため、カーブがきつくなり、体にかかる遠心力が大きくなった。
「対応がちゃんとできていれば、外に振られずに走れていただろう」
予選から区間タイムを落とし、その後悔が頭の中を占めていた。
リオでは予選が6レーン、決勝は5レーン。
そのわずか1レーンの差を微調整するため、5レーンを走ること3回。
その確認から、本番ではスターティングブロックの先端を予選よりも1〜2cm外に向け、これが結果へ大きく繋がることになる。
出発前、最後のミーティング。
「足長、どうする?」
1、2走の場合、2走の飯塚はスタート位置から31.5足分のポイントにチェックマークを貼り、山縣がそこを踏み越える瞬間にスタートを切ることにしていた。
「半足行けます」
すぐにそう答えたのは山縣。
32足に伸ばすことで、ワンテンポ早めに動き出し、より加速に乗ってからバトンの受け渡しをする。
山縣は追い付く自信があった。
全体としてはその方向であったが、コーチを務める土江寛裕は4年前の話を始めた。
ロンドン五輪でも、予選でバトンパスに余裕があったため、決勝には全区間において足長を伸ばして臨む。
しかしそれが裏目に出た。
3区間ともバトンが詰まり、5着に終わった。
リオでは絶対にこの話はしておかなければと思っていた、と振り返る土江。
予選の記録でもメダル圏内であるため、攻めなくても良いという考えも出始めたところで、反応したのは飯塚。
「半足だとちょっと不安なんで、半の半でいいですか?それで思い切り出ます」
31.5を31.75、1足の4分の1、およそ7cmでの調整。
桐生とケンブリッジの区間は余裕が大きかったので半足伸ばすことで決定した。
〝半の半〟
こんなに細かく足長を刻むことはまずない。
聞いたことのない単位だ。
銀メダルという快挙には、このたった7cmの調整は不可欠であった。
午後10時。4人のメンバーは招集場所に向かった。
会場では棒高跳びの女子の決勝がようやく終わったところで、フィールドにおかれたクロックが22時36分50秒を回った。
「4×100m Relay」
場内のビジョンに文字が浮かぶ。
ついに決戦の時間がやってきた。
入場時には、4人は小走りに入ってくると、今や"リレー侍"の代名詞となった、飯塚考案の「侍ポーズ」を披露。
飯塚の「せーの」の声に合わせて刀を抜いた。
山縣だけ一拍遅れている。
飯塚が音頭をとったタイミングで刀を抜くということまでは覚えていたが、直前に招集場所でジャマイカチームのメンバーを見た際に、パウエルが自身と同じ1走だということを知って驚き、頭の中でレースプランを再確認していると、気付いたら飯塚が隣で「せーの」と言っていたそうだ。
プラン通り、山縣はスタブロを1〜2cm外側にセット。
飯塚、桐生、ケンブリッジが慎重に足長を測る。
飯塚はレース直前にはあまりダッシュをせず、桐生が軽くスタートの動きを確認、ケンブリッジも軽く流す動きを繰り返す。
紹介が終わり、場内の熱気が高まっていく。
「On your marks.」(位置について)
全ての1走の選手たちがスタブロに足を掛け、両手をスタートラインに沿って置く。
「Set.」(用意)
スタートの準備は整っている。
日本一足の速い4人が、日本国民の夢と希望を背負って、リオデジャネイロのトラックに立っている。
歴史を作る準備は出来た。
号砲ー。
良いスタートだ。山縣の飛び出しは抜群だった。
1つ内側のレーンにはジャマイカのパウエル。
山縣はパウエルよりも、いや、誰よりも良い走りを見せている。
位置を気にせず、飯塚のみに意識を絞り、スピードを作る。
そして2走への繋ぎ。
テークオーバーゾーン(バトンの受け渡しが可能なゾーン。この区間内で渡さなければ失格)に入り、バトンパスのタイミングを知らせる「はい」の掛け声に応じて飯塚の左腕が上がる。
バトンが飯塚の中指と人差し指の間で遊ぶ。
空振り。
「ヤバイ」
「渡らなかったら失格だよな」
「日本に帰れないかも」
山縣の焦りが募っていく。
それでも飯塚のスピードはどんどん上がり、ゾーンの出口が迫る。
山縣はミートポイントを探り直し、必死に右腕を伸ばし続ける。
渡らない。
すると、飯塚はバトンをひったくるようにして奪っていった。
少し詰まったか。でも大丈夫だ。
2走の区間では他チームとの差がつかみにくい。
後ろからブレークやガトリンが追ってくる。
だが桐生だけを見て突っ走る。
順位ははっきりしないが上位は確実だ。
「桐生は決勝、ボンと出るよ」
レース前から土江にそうアドバイスされていた通り、中腰の体勢から駆け出した桐生のスピードは予選よりも明らかに速かった。
個人種目では不完全燃焼に終わってしまっていたため、多くのプレッシャーから解放されていたのだろう。
飯塚も気持ちと走りを乱さず、距離を縮めていく。
半身になるように左腕を目一杯伸ばし、桐生の右手にバトンをねじ込む。一発で決まった。
桐生はぐんぐんとスピードを上げていく。
「外側の選手を、全部抜いてやる」
1つ外側のレーンを走る中国の蘇炳添をコーナーの中間あたりで視界の端に捉え、9秒台ランナーと互角以上の走りを見せている。
コーナーの出口が近づくと、桐生はわずかに外にコースを取った。
レーンの外寄りいっぱいに構えた選手が走り出す時、振った腕が隣のレーンまではみ出してくることがあり、当たらないようにするためだ。
今回1つ内側のジャマイカの4走はボルト。あの大きな体だ。
無心の走りの中に、しっかり冷静さを宿す。
「早くボルトと一緒に走りたい」
ジャマイカ人の父を持つケンブリッジにとって、ボルトは憧れの存在だ。
高揚感でいっぱいになるのを体の内側から感じながらバトンを待つ。
はやる気持ちを抑え、タイミングを見計らい、構えて、スタート。
すぐさまに桐生の「はい」の声が鋭く飛び込んできた。
トップの位置で最後のバトンパスは完了。
「これは行ける!」
桐生はゴールへ向かうケンブリッジの背中に1回、2回と吠え、右の拳を振り上げる。
ギアを上げていくケンブリッジ。
4走へのバトンパスは日本がトップだったが、内側のレーンであることとオーバーハンドパスの利得距離を生かしてジャマイカが逆転。
ボルトがケンブリッジの左前に出て加速し始めるが、スピードの乗りはケンブリッジの方が良い。
差が詰まる。日本が王者に競り掛かる。
するとケンブリッジの左手に握られたバトンに衝撃が伝わる。
ボルトが引いた右手に、前に振ったケンブリッジの左手が当たった。
ボルトがケンブリッジを一暼、今までには有り得ないような一瞬の光景だった。
現在第2位、アメリカよりも前だ。
ボルトにどこまで着いていけるか。
後ろからはアメリカのブロメルに加えカナダのデグラッセが追い込んでくる。
しかしそのまま粘ってフィニッシュ。2位だ。
ゴールを駆け抜けたケンブリッジに後ろから抱きつく桐生、満面の笑みで両手を広げて2人に駆け寄る山縣、3人の歓喜の輪が出来た。
飯塚からの距離は遠く、余韻を噛みしめるようにゆっくりトラックを回り、3人と合流。
なんて素晴らしい光景だ。
ちなみに私はこの日、北海道での旅行期間であったため、ホテルのテレビで観戦。
4日間の旅行の中で私を1番興奮させてくれたのは、他の何よりもこの4人だった。
再び日本記録を塗り替えての37.60。
史上初の銀メダル。
ウイニングランが始まると、日本の4人のもとに、ジャマイカの選手たちの群れから1人離れて近づいて来る者がいた。
「グッドレース。コングラチュレーション。」
ボルトだった。
汗に光る手を差し出され、1人ずつ固く握り合う。
最強王者の飾りのない真っ直ぐなこの言葉は、日本短距離陣が世界の頂に迫った、その証明だ。
日本人選手がボルトと肩を並べて走ることなど、誰が想像しただろうか。
史上最高のレースだった。
2017年。
リオ五輪での活躍を背景に、9秒台への期待が更に高まった山縣。
しかし、日本選手権では6位に終わり、世界陸上への切符を逃してしまう。
シーズン序盤から苦しんでいた怪我を完治させ、再スタートと走り出した9月、先を越される。
9日、ライバル・桐生が日本インカレの決勝において9.98を記録し、「10秒の壁」を先に破られた。
「9秒台を先に出したいか?」
「桐生と僕で言ったら僕の方が年上なので、先に出す必要が僕にあると思います」
悔しかっただろう。
心から悔しかっただろう。
"日本人初の9秒台"の座をライバルに奪われる、どれほど悔しかっただろう。
それでも悔しさは跳ね返す。
9月の全日本実業団陸上では、惜しくも9秒台には届かなかったが自己ベストを更新する10.00。
見事な2連覇を達成した。
2018年。
4月の織田記念では2年ぶりの優勝を決め好スタート。
5月に大阪で行われたセイコーゴールデングランプリでは、100mで日本勢トップの2位に加え、リオ五輪銀メダルメンバーでの出場となった4×100mリレーでは37.85という好タイムを記録し、2位に圧倒的な差をつけての優勝。
6月には布勢スプリントも制し、勢いは止まらない。
23日、5年ぶりの日本選手権優勝。
大会タイ記録となる10.05をマークし、2位のケンブリッジ、3位の桐生も及ばない圧巻の走りだった。
8月にジャカルタで開催されたアジア大会。
100mでは決勝まで駒を進め、自己ベストタイの10.00で銅メダル。
9.92で優勝した蘇炳添に最後まで食らいついて見せた。
山縣ー多田ー桐生ーケンブリッジでの走順で出場した4×100mリレーでは日本勢20年ぶりの金メダルを獲得し、最高の形で大会を締めくくった。
その後も9月の全日本実業団陸上、10月の福井国体と制し、2018シーズンにおいて出場した全19レースで日本勢に無敗という偉業も達成した。
その一方で、9秒台には僅かに届かず、10秒の壁に跳ね返され続けていた。
過去2年では、再び怪我が重なり、満足のいく走りが出来ずにいた。
2019年には肺気胸を患い、戦線を離脱。
期待が大きくかかっていた世界陸上の出場も棄権せざるを得なかった。
怪我は2020年にも響き続け日本選手権を棄権、シーズンベストは10.42とかつての輝きを失いつつあったが、私は決して彼を諦めなかった。
山縣がここで終わるはずがない、
ずっとそう信じていた。
2021年4月の織田記念では桐生を抑え優勝。
完全復活を遂げる走りだった。
そして6月の布勢スプリント。
全陸上ファンの悲願であった〝山縣の9秒台〟。
9.95。ついに出た。長かった。
未熟児から日本新記録保持者へ。
「普通の子と同じ生活が出来れば…」
出生時はそう願われていた〝ミスター逆境〟は、29歳になる手前で歴史を変えていた。
未熟児の子どもを育てる方々にも、大きな勇気付けになっただろう。
コロナ影響により、1年延期での開催が決定した東京五輪への大きな1歩を踏み出した。
26日、3大会連続での五輪出場を掛けた日本選手権。
3位以内で代表権獲得といった中で、3位入賞。
日本選手団の主将を務めることも決定した。
7月23日に開会した東京オリンピック。
しかし、3大会連続での100mの準決勝進出は逃してしまった。
悔しいが、残すはリレーだ。
北京で銅(1位ジャマイカの1走カーターのドーピング発覚で金メダル剥奪、日本は後に銀に繰り上げ)、リオで銀、あとはもう金しか残っていない。
金メダルのみを狙う、そういった4×100mリレーでの雰囲気は初めてだ。
多田ー山縣ー桐生ー小池の走順で、予選を38.16の3位で突破。
決勝に進出した8チームの中では1番遅いタイムであったが、予選では走者同士が近づいてバトンの受け渡しを行う"安全バトン"を擁していたため、バトンを攻めていけばタイムは大きく縮む。
決勝では全員がベストの走りを見せて前大会よりも良い色のメダルを取ろう。それしかない。
決勝当日の8月6日、私は朝から気持ちがフワフワして落ち着かなかった。
今夜、歴史が大きく塗り替えられるかもしれない。
何とか心を落ち着かせながら、その日のやるべきことをこなす。
決戦の時間が迫った22時40分頃に、私はパソコンの画面をYouTubeに変えた。
決勝のレースを観戦する前に、最後にしておくことは既に決めていた。
前回、リオ五輪で史上初の銀メダルに輝き、歴史を作ったあのレースを見ることだ。
今日また更に歴史が塗り替えられる。
そう思いながら動画を視聴、そして1階のリビングへと向かう。
テレビの前に座り、私の生活音で起こしてしまった祖父母も一緒に観戦。
「リレーは面白いから見たい」と言っていた祖母には、
「起きちゃったら起きちゃったで、一緒に見るから良いよ」
と言われていたため、ともに日本の入場を待った。
桐生を推す祖母、山縣を推す私。
それぞれの選手の登場に目を輝かせていると、あっという間にスタートの時間に。
今回、日本は9レーン。
1番外側から頂点を狙う。
1走の多田が良いスタートを切って飛び出し、2走の山縣が勢いをそのままに3走へ、桐生のところで先行し、アンカーの小池がトップでフィニッシュ。
そんな青写真を陸上ファンの誰もが描いていた。
まさかの結末だった。
多田のスタートは抜群、1番良い走りを見せているのではないか。
チェックポイントを踏み越え、そこで走り出した山縣のタイミングも完璧だ。
「はい」の掛け声で山縣の左腕が上がる。
しかし2人の距離は一向に縮まらない。
テークオーバーゾーンの出口は迫り、当然ならバトンを受け取りスピードを上げていく位置だ。
もし、このままなら、このままなら…。
嫌な予感が脳内を埋めつくしていく。
渡らなかった。
肩を落とす多田、山縣。
立ち尽くす桐生、小池。
唖然とした表情を浮かべ固まる日本短距離陣。
頭が真っ白になり、テレビ越しの事実に着いていけない私たち。
〝バトンミス〟〝日本途中棄権〟
その事実を受け入れるのは難しかった。
信じられなかったよ。
日本の伝統かつ、世界で通用してきた正確なバトンパス。
その失敗でメダルを逃すなんて、想像したことがなかった。
現実を受け入れられた頃には大号泣してしまった。
その後、どのようにして眠りについたのかは全く思い出せない。
あくまでも陸上ファンの1人である私がこんなにも悔しいのだから、4人の悔しさは私たちが計り知れるものではない。
ではなぜ、バトンは渡らなかったのか?
まずリレーにおいて、2走以降の選手は、レース前に決めた足長分のポイントにマークを貼り、そのマークを前の走者が通過した瞬間にスタートを切る。
マークの位置を伸ばせば伸ばすほどスピードに乗った位置でバトンの受け渡しができるが、その分リスクは高まる。
次走者は走り出した時点で、バトンパスのタイミングを知らせる掛け声を待つことしか出来ないため、絶対に追いついてくれるという前の走者への絶大なる信頼がないと、思い切って走り出すことは出来ない。
要は、バトンを貰う側が思い切って出られるか。
バトンパスとは、いわゆる、チキンレースのようなものだと言われている。
よって理由の1つとしては、前述の通り、決勝進出チームの中で日本は予選のタイムが1番遅かった。
タイムを縮めるにはバトンパスをより高速で行う必要があり、より加速した位置でバトンを貰おう、という賭けに出たが、敗れてしまったこと。
だが要因はこれだけではないと考え、そこで思い出したのが、前回リオ五輪、桐生からケンブリッジへのバトンパスの際に、桐生が僅か外にコースを取ったシーンだった。
今大会、多田から山縣へのバトンパスシーンのスロー映像を解析すると、1つ内側のレーンを走るイタリアの2走、ジェイコブスが外寄りに走り出すと同時に、多田は衝突を防ぐため、外にコースを取り始めたことが分かった。
レーンのアウトコースに寄ったことで、その分走る距離は長くなる。
だが、2走以降の選手というのは前の走者がマークを通過した瞬間に走り出すので、山縣は既に完璧なタイミングで走り出している。
したがって
『2人のバトンパスの間に、衝突防止のために外寄りに膨らんだ分の誤差が生じてしまった』
ということが、1番の要因と考えられるのではないか。
だからこそ、ここで私たちが彼らに出来ることは、批判でも叩くことでもなく、お疲れ様と激励の言葉をかけてから、彼ら陸上短距離陣を応援し続けることだ。
今回バトンは繋がらなかったが、世界と戦うために、「攻めた結果」。
決して誰も悪くない。
彼ら4人に誰が何を言おうと、これは決して間違っていない。
「多田と山縣の不仲」
「山縣戦犯」
レース後、こういったワードが多く見られたが、それは発言者の妄想にすぎない。
何故なら?理由は簡単。
証拠がないからだ。
根拠のある題材など存在していない。
インタビュー時に多田と山縣が離れた位置に立っていたことや、山縣の受け答えや態度などとあるが、それがどう直接、そのような妄想に繋がってしまうのだろうか?
本人から直接不仲とでも聞いたのか?
山縣の受け答えが、自分は悪くない、のように聞こえたというのは個人の受け取り方の問題ではなかろうか?
逆に、他の3人が泣いてしまった中で、インタビュアーの方の目をしっかり見てはっきり答える山縣の態度は素晴らしかった、との声も多く見られた。私も同意見だ。
山縣のところでレースが終わってしまったことやインタビュー時の受け答えなどから、勝手に山縣の人格を批判しただ叩く、非常にバカバカしい。
山縣の何を知って言ってるのか?
人格まで批判出来るということは喋ったことでもあるのか?
まともに知りもしないでよく叩けるな、そう思ったのが本音だ。
だから、山縣含め彼らを決して叩かないで欲しい。
SNSでの心無い発言は、誹謗中傷へ繋がる可能性も大いにある。
発言する前に、それを考えたことはあるだろうか?
もし自分がされた場合にどんな思いをするか、もし自分は傷付かなくても相手はどう思うか、考えたことはあっただろうか?
SNSは便利だが、1歩でも使い方を間違えると、それは一瞬で便利なものからゴミに変わる。
1歩踏みとどまろう。そして相手の立場になって考えよう。
それから発言すること。これは絶対に頭に入れておいて欲しい。
山縣くん、大丈夫。
筋の通ってない意見でただ叩いてる奴らは、きっとあなたを知らない。
山縣くんの努力や苦悩を知っていたとしたら、あんなこと言えるはずがない。
絶対に叩けるわけがない。
〝あのバトンミスがあったからこそ今がある〟
胸を張ってそう言える日は絶対に来る。
山縣くんらしく、自らの頭で考え判断し、世界へ向かって走り続けてください🏃♂️
未熟児から日本の頂点に立った男。
山縣くんならもっともっと出来る。
〝日本の可能性を切り開け、山縣亮太〟
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