艶歌から見る光輝族① ~蘭丸編~

※この記事は作成者の独断と偏見に基づく解釈・考察であり、公式とは一切関係がありません。

★愛らんらんらん

どうせ花散る宿命(さだめ)なら
貴女のために咲かせたい

愛らんらんらん 作詞:青葉 譲、hotaru

 出だしから投げやりな感じで始まるこの歌。切ないですよね。「どうせ」と投げやりな言い方で花散る宿命と歌うの、一体どんな気持ちなんでしょうか。
 蘭丸の歌に限らず艶歌全部にいえることですが、すべて、夭聖それぞれの「愛」の捉え方を歌っているように見えます。蘭丸でいえば自身の「愛」を、どうせ花散る宿命=自分の愛は実らない、と自覚があるようです。しかしそれでもなお、その後、「貴女のために咲かせたい」と続きます。そう、自分の愛は散ってしまうけども、貴女のためにこの愛を咲かせたい、と言っています。

俺の心を開錠する(あける)のは 君の接吻(くちづけ) 愛の鍵

愛らんらんらん 作詞:青葉 譲、hotaru

 さきほど、蘭丸は自身の愛についての決意を示しました。その次に続くのがこれ。ここで注目すべき点はさきほど出てきた「貴女」とは別の二人称「君」が出てくるところです。
 本編を思い返してみましょう。蘭丸は終盤で謎が明かされるまで記憶喪失でした。蘭丸、いや、ベテルギウスが、自身の心と記憶を自身で壊したのです。しかし11話でとあることを軸に記憶を取り戻しました。少し思い出してみましょう。

「君の心には、閉ざされた記憶が残っているはずだ」

Fairy蘭丸第11話 シリウスのセリフより

 このセリフから読み取るに、蘭丸の記憶は、壊したというより心の奥底に眠っていたという解釈が正しいようです。そしてその後、シリウスは蘭丸の心(邪魂?)を介して女王のもとに向かうため、キスをします。そしてそれによって蘭丸は記憶を取り戻してしまいます。
 ※この時点で記憶を取り戻したとは明確にはされておりませんが、歌詞と照らしたり、スタッフ・キャスト等の発言から察するにここで記憶を呼び戻したといって差し支えないかと思います。
 もうおわかりですね?艶歌歌詞におけるの「君」はシリウスのことであり、文字通り、シリウスのキスによって、閉ざされていたはずの蘭丸の心―心の奥に眠っていたベテルギウスの記憶は開かれてしまったのです。

扉開き 光溢れ 道照らし 翼(はね)になる

愛らんらんらん 作詞:青葉 譲、hotaru

 閉ざされていたはずの心が開錠され記憶を取り戻した蘭丸は、謎の空間をさまよい、鍵穴の向こうに、亡くなったはずの白百合がいることに気付きます。そして本編では描かれていないので推測にはなるのですが、第12話の蘭丸の発言から察するに、この謎空間で蘭丸は、白百合(の魂?)と接触し、彼女の死の真相、彼女が今も昇天できずにいることを知ったようです。
 その後蘭丸は仲間たちに起こされ女王のもとに向かい、チルカと相対し、戦い、真相をチルカに伝えます。自分は本当は白百合に愛されていなかったと思っていて、ずっと愛憎の中で苦しみ続けていたチルカですが、真実を知ることで、苦しみから少し開放されます。
 ここで冒頭の歌詞を思い出してみましょう。蘭丸の愛は「誰かのために咲かす」ものです。白百合は病に侵されており長くない命の身で、本当はシリウスを愛していたにも関わらずシリウスのためを思ってプロポーズを拒絶します。しかし不幸は重なり不慮の事故で亡くなってしまいます。彼女の魂が昇天できずにいたのはその未練だからでしょうか。しかしその真相は蘭丸によってチルカに伝えられた。そう、蘭丸は、白百合のために、「咲かせた」のです。彼女の伝えきれなかった愛、未練、無念を。そしてそれは同時に、シリウスのためでもありました。

らんらんらららん 愛故に  駆ってゆけ 天高く
らんらんらららん 愛故に  咲き誇れ 地獄でも

愛らんらんらん 作詞:青葉 譲、hotaru

 ここで『はしってゆけ』が「走ってゆけ」ではなく『駆ってゆけ』という表記になっていますが、「駆」という漢字には、馬などを走らせる、追いたてる、追い払う、という意味があります。自主的に動いている「走」よりも、追い立てられているというニュアンスが含まれているようです。
 そこからさらに、『咲き誇れ 地獄でも』と続きます。蘭丸にとって地獄とは何なのでしょうか。ベテルギウスは「こんなことなら最初から何もなければよかったのに」と言っていました。蘭丸にとっても、やはり今の状況は地獄とも表現できるのではないでしょうか。自身の想いが実を結ばないことは知っている。つまり、自分がシリウスと結ばれることはない、と本人は思っています。しかしそれでもなお、誰かのために花を咲かす。白百合のために、ひいては、シリウスのために。それが蘭丸の愛です。だから彼は、愛故に追い立てられるように走り、たとえ地獄でも咲き誇るのです。

消えない罪科(つみ)背負ったまま だけど貴女へ歩み出す
例え僅かな 逢瀬でも 君は稲妻 愛の星

愛らんらんらん 作詞:青葉 譲、hotaru

 本編から推測するに、消えない罪科(つみ)とは、夭聖界を滅ぼしたこと、あるいは、自身を自分で刺したことも含むのではないでしょうか。罪を背負ったまま、それでも「貴女」へ歩み出す。ここでいう「貴女」は、クライアントを示しているように思います。
 蘭丸のお当番回エピソードを思い出してください。二人出てきたクライアントはいずれも、自殺しようとしていました。それを蘭丸は止めています。これは、かつて自身の心を殺したベテルギウス、つまり自分自身と重ねてなのではないかと思います。(※個人的心情としては、自殺を罪だと表現することに抵抗があるのですが、命を無下にしているという点でここでは罪と表現します。)
 そして続く『例え僅かな逢瀬でも』とは、チルカとのことを指していると思われます。6話以降特に顕著なのですが、蘭丸はヘブンズ空間で、チルカの動向を常に目で追っています。たとえば7話で焔がチルカに刺された際、チルカが焔に攻撃しようとしていることに真っ先に気付き、「危ない!」と声を上げたのは蘭丸でした。邪魂を退治し皆がほっとしている中、蘭丸だけはじっと一点を睨みつけており、なにかに気付いて早々に声を上げた。このとき視線の先にはチルカがいたのではないかと思います。この時点ではまだ蘭丸はチルカ=シリウスのことを思い出せてはいません。しかし、記憶がないながらも、心の何処かで、チルカを見ると何か引っかかりがあったのではないでしょうか。『君は稲妻 愛の星』と称しているのもシリウスを示しているように思います。稲妻のようなまばゆい輝きで衝撃で、愛の星。そもそも星の名でもある「シリウス」は、太陽を除けば人間が見える最も明るい星です。蘭丸にとって、ベテルギウスにとって、シリウスはその通り眩しく明るい光のような存在だったのではないのでしょうか。

夭聖なれど 人と同じ 身を捨てて 恋に落つ

愛らんらんらん 作詞:青葉 譲、hotaru

 人の心をお助けしてくれる夭聖さんたちもまた人と同じで恋に落ちることもあるというのが大変エモいですね。夭聖体の姿ではクールであまり心のうちを見せない蘭丸が自ら「身を捨てて恋に落つ」と歌っているのもグッとくるところがあります。そしてここも言うまでもなく、自身のことを歌っているように思います。もしくは、人間を愛し夭聖を降りる決意までしたシリウスのことも含めているのか。

らんらんらららん 愛の為 昇ってゆけ 海越え
らんらんらららん 愛の為 希望(ひかり)たれ 一縷でも

愛らんらんらん 作詞:青葉 譲、hotaru

 この『昇ってゆけ 海越え』の解釈が、正直、わかりません…なぜここで急に海が出てくるのか。それとも海とはなにかの比喩なのか。なぜ海なのに「昇ってゆく」のか?ご意見お待ちしております。
 そして続く『希望(ひかり)たれ 一縷でも』これは非常に興味深い歌詞だと思います。夭聖の艶歌は、蘭丸⇔チルカ、焔⇔うるう、樹果⇔寶でそれぞれ歌詞の一部が対比的になっています。後述するチルカの艶歌考察で詳細は書きますが、ここもまた、愛のために自分の身を犠牲にしてでも、希望(ひかり)として咲こうとする蘭丸の姿勢の現れのようです。

こんな俺の 愛の詩(うた)よ 儚き響きに乗せ

愛らんらんらん 作詞:青葉 譲、hotaru

 ここもまた切ないフレーズです。『どうせ花散る宿命(さだめ)なら』から始まるように、蘭丸は自身の愛を、確固たる決意に基づくものであると同時に、どこか自虐的に歌っているように感じます。誰かのために咲かす決意をしていて、実際に誰かのために咲いても、それはあくまでも自分ではない誰か。蘭丸自身の花は、想いは、結ばれない。『こんな俺』『儚き響き』という言い方から、蘭丸自身の自虐的な思考がにじみ出ているような気がします。

らんらんらららん 愛故に 駆ってゆけ 天高く
らんらんらららん 愛故に 咲き誇れ 地獄でも Oh

愛らんらんらん 作詞:青葉 譲、hotaru

 最後の大サビで再び、一番のサビが繰り返されます。しかし歌い方としてはここでの『天高く』は、一番より一層、力強く歌われています。改めての蘭丸自身の力強い決意表明のようです。

乱れ咲け 永久(とこしえ)に

愛らんらんらん 作詞:青葉 譲、hotaru

 最後のフレーズ。個人的にはものすごく大好きな部分です。一貫して自身の愛のあり方を歌う蘭丸ですが、最後の締めにこれです…。蘭丸の愛は永久に乱れ咲きます。『乱れ咲く』というのがまたいいですね。美しくではない。乱れ咲く。本編の物語では一貫して蘭丸自身のモノローグは一切ありません。蘭丸は主人公でありながらも、この作品で一番、何を考えているのかわからないキャラクターです。でもその明かされない蘭丸の胸の内がここに現れているような気がします。
 夭聖なれど人と同じ、という言い方をしているように、夭聖も同じように喜怒哀楽様々で複雑な感情があります。蘭丸以外のキャラクターたちはいろいろな感情や心の葛藤に振り回され、それでも人間のために生き、自身の葛藤と向き合っていました。蘭丸も、いや、ベテルギウスも、そうだったのではないでしょうか。しかしベテルギウスは絶望し、「愛ってなんだ」と苦しみながらすべてを壊そうとした。にも関わらず、ゼロスタートした蘭丸ですら「愛ってなんだ」の疑問から逃げられずにいる。そして本編を通し、最終的にその答えに辿り着く。
 最終話の、シリウスに想いを告げたときの蘭丸は、まるで憑き物が落ちたかのようなすっきりとした表情をしていました。彼が見つけた愛の答えはなんだったのか。それは明確に明かされてはいませんが、少なくとも、最終話後の蘭丸にとっての「愛」は苦しいものではないように思えます。愛すること自体が蘭丸にとっては幸せで、そこに見返りも何もいらないのではないでしょうか。そして想いを告げられた側のシリウスも、驚いた後、腑に落ちたような様子で微笑んでいました。シリウス自身の心の傷は深く、まだ完全には癒えきっていないものの、蘭丸からの愛は、確実に彼の心に温かいものを残したのではないでしょうか。
 
 私なりの『愛らんらんらん』解釈は以上になります。一貫して、どこか投げやりな自虐的な空気すら感じる歌でもあるこの曲ですが、もしFairy蘭丸に続編が作られ、あの最終話以降の物語が展開されたら、蘭丸の艶歌はまた違う雰囲気のものになるのではないかと思います。聞きたいですね。何年かかってもいいので続編が見たいですね。

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