ありがとう、チェイサーゲームW
2024年1月8日。私がチェイサーゲームWの存在を初めて知った日。
私のXに、チェイサーゲームWの相関関係図が流れてきた日。
その時はこう思った。「”日本”が作る、完全オリジナルGL。」
ハッピーエンドな訳がない。
だって、「同性愛=幸せになれない」「同性愛=気持ちが悪い」「同性愛=干渉しないのが一番」「同性愛=いても良いけど一般人と関わるな」「同性愛=普通じゃない」
そんな言葉を何回見ただろうか。そのたびに傷つき、悲しみ、苦しみ。
だいぶ時代が進んで、寛容になってきているという実感はある。高校時代、私が「彼氏でも彼女でも良いから恋人が欲しい」と友達に言っても、わざわざ、彼女?って聞き返されることはなかったし、同性愛どう思う?って聞いても、愛に性別は関係ないと思う。って返してくれた。だから別に私は生きづらいと思ったことはない。(同性を好きになったことがまだ無いからなのかもしれないが)
でもそれは、私がまだ19の子供だから、そう思うのだろう。大学を卒業して、社会に出て、親が年を取って。その時に、孤独な私を周りは認めてくれるのだろうか。男の人と結婚して、子供を産むのが普通。それが一番の幸せ。そう自分に言い聞かせて生きてきた。彼女を欲しいと思う自分が嫌いだった。
だからだろうか。私はチェイサーゲームWにときめかなかった。見てもどうせ最後は悲しい別れで、同性愛を否定する。
一応Tverで追ってはいたのだが、無意識に感情移入しないようにしていた。だって、バッドエンドだろうから。(そのせいで毎週見ていたはずの2話~7話を見た記憶がありません。)
2024年2月27日。私の価値観が変わった日。
少し見えた希望に心が溶かされた日。
この日は妙に覚えている。最終話が気になって、ゆっくり寝れるのに朝6時くらいに目が覚めて、必死にTverでいつふゆの幸せを願って。でもやっぱりだめで。"忘れない””私も”で物語は終わった。私の思い描いていた「日本GL」そのものだった。はずだった。
最後の再開がなければ。
最後のシーンは私の予想を裏切った。冬雨の左手に縛るものは何もなく、首元には樹との想い出。二人は幸せそうに手を取り合って、物語は幕を閉じた。今までの私ならこう言うだろう。子供はどうしたんだよ。もう一度やり直したいと言った冬雨の言葉は何だったんだよ。でも、そのシーンを見た瞬間、私が思ったのは、それとは相反するものだった。
日本人が、日本のテレビ局が作ったGLドラマが、ハッピーエンド(ここでは主人公の二人が幸せで終わることをハッピーエンドと定義する)で終わった。確かに、二人だけが幸せになった世界線なのかもしれない。浩宇や月ちゃんにとっては最悪な結末だったのかもしれない。でも、二人の幸せを一番に考えた製作者が日本にいて、その原案を通したテレビ局があった。その事実に驚きと感動を覚えた。良い意味で裏切られた。
もうこの時点で私にとっては、「ありがとう、チェイサーゲームW」だ。
日本人の性質上、干渉しないのが一番。関わらないのが一番。なのに、社会に問題提起するために、男性、それも既婚者が、あえて、この話題に足を踏み入れてくれた。それも、同性愛を叶わない恋で終わらせなかった。私はチェイサーゲームW制作陣を誇りに思う。
最後に、チェイサーゲームWは、日本GLの始まりに過ぎない。ここはおかしい・ここはこうじゃなくてこうだろ・ここは何が言いたかったの?
言い出せば切りがないくらいモヤモヤした部分も多かった。でも、逆に言えば、これは、これから改善された新しい日本GLを見ることができる機会があるかもしれないという希望なのだ。だからどうか、制作陣には、モヤモヤしている視聴者の声を聴いて、もう作らないとならないでほしい。好きの反対は無関心。本当にそうだと思う。無関心ほど怖いものはない。これからも私の予想を裏切ってほしい。
そして、制作陣の中でも、菅井さんと中村さんには、最大限の敬意と感謝を述べなければならない。少しでも間違えたら、誰かを傷つけてしまうかもしれない。そんな緊張感の中で、私たち視聴者のために、最大限の努力をし、綺麗でまっすぐな言葉を届け続けてくれたお二人には感謝してもしきれない。
だから、私はこれだけを述べたいのだ。
ありがとう、チェイサーゲームW。
2024,11,3 Min