他人とわかりあうのは不可能だけど。
今日は「人との関係性」について、最近考えていることを書いてみます。頭の中の整理的なもので申し訳ないのですが、えいやと投稿させていただきました。
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人の数だけ世界がある。
同じ場所で同じものを見ていても、人によって見えかたはちがう。生まれた環境とか、学生時代の過ごしかたとか、これまで出会った人、学んだこと、経験したあれこれによって、わたしたちが見る世界のかたちは変わる。
わたしには他の人の見ている世界を想像することはできても、完全に「わかる」ことはできない。
過去を洗いざらい話してもらったとしても、わたしがその人になることはできない。高揚感や胸の痛みや息苦しさみたいな身体的感情まで体感することはできない。
ほんとうの感情を言葉にすることはたぶん不可能で、説明した時点でどこかフィクションになってしまうと思う。
陸上選手が走っているときの感覚や、鳥が飛んでいるときの感覚を理解できないように、他人の感情を完全にわかることはできない。「ウッ」みたいなのとか、「ブワッ」みたいなのが、たぶんほんとうの感情で、それはよくも悪くも、本人だけのものだ。
過去の出来事とそれに紐づく感情が、いまのその人のどこに棲んでいて、どういうときに心をつついてくるのか。その人の世界の見え方をどう変えているのか。想像してわかった気になることはできても、本当のことはわからない。
それがおもしろくもあり、こわくもある。
わたしの見ている世界は永遠にわたしにしか見えないもので、他人の見ている世界もそうだ。親とも恋人とも共有することはできない。メッチャ孤独だし、こわい。
絶対に永遠に理解できないものが、この世に70億もあると思うとゾッとする。
一方で「永遠にわかることができない」というのは「永遠にわかろうとし続けることができる」ということでもある。(わかりづらいな)
どんなに好きな映画でも、毎日くりかえし観ていればふつうは飽きてしまう。(くまだまさしは『プリティ・ウーマン』を500回以上も観ているらしいけど)
しかし他人に飽きることはない。「自分はこの人のことを、永遠にわかることができない」と知ってさえいれば。
毎日顔を合わせるような、近くにいる人の視点ほど、よけいにわからない。同じものを見ているけど、実はぜんぜん同じじゃなかったりするからだ。
わたしたちは永遠にわかりあうことができないけど、だからこそ永遠にわかりあおうとし続けることができる。
他人との関係は恐ろしくておもしろい。
ただこのナイスな関係は、どちらか一方が「わかった気」になった時点でおしまいになってしまう。
わからないものはこわいから、つい「わたしの知ってるモノ」の枠に、無理やり相手を押し込めようとする。カテゴライズして、わかったような気になる。それは相手への敬意に欠けているし、なにより、いずれ相手に飽きることになる。
自分の理解の範疇にあるモノを、もっと知りたいとは思わないからだ。(勝手に押し込めたクセにね!)
わからないものをわからないまま受け止め続ける強さが、わたしたちには必要なのだと思う。