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SONPO美術館「モンドリアン展」

少なからぬ画家は、不遇だ。生前は生活に困窮し、後世になって美術の教科書に載ったかと思えば「これのどこがいいのかわからない」「こんなの自分にも描ける」などと言われてしまう。

そんな、「こんなの自分にも描ける」と言われてしまいがちな画家の1人として名前が挙がりそうなのがモンドリアンではないだろうか。黒い線と、三原色の彩り、シンプルな画面構成。

だが、今回の展覧会を通して、この作品が画家の試行錯誤の末に生まれたものだと知った。このモンドリアン展、「みんなが思ってるモンドリアン」とでも言うべき作品は4枚しか展示されていない。残りは、「そこに至るまでの彼」だ。

会場に入ると、穏やかな風景画が続く。農村の木立や水辺といった「目の前にあるもの」が描かれる。詳細に書き込むというより、具象と抽象の境目のようなタッチに感じる。モネの睡蓮は具象か?抽象か?そんなことも頭に浮かんだ。

足を進めると、少しずつ絵が現実離れしてくる。例えば、「目の前にあるもの」を描いていても、色合いは実際には存在しないものである作品。日没後の海や砂丘の絵は、ムンクが描いたノルウェーの海と太陽の絵を思い出させた。

そして、様々な抽象画が並び始める。コンポジション、という作品名が続く。最後が「みんなが知ってるモンドリアンの、あれ」だ。印刷されたものしか見たことがなかったが、近くでよく見ると作品によって三原色の色味が微妙に異なる。
黄色の彩度が少しだけ低かったり、逆に少し明るい卵色を思わせる黄色だったり、青が少しだけ黄みがかっていたり、くっきりとした純色だったり。これは生で見る体験ならではの面白さだった。

印象に残ったのは、ひとりの人間の人生の変転だった。彼は住むところを頻繁に変えている。そして、周囲の人との関係の中で作風も変わっていく。経済的に困窮していた、という記述が説明文の中に頻繁に現れ、安定した生活を得られたのは69歳。そこに至るまでも評価はされていたようだが、客観的事実として「安定した生活」と言えるまでになったのがその年齢ということなのだろう。長く遠い道のりだったことは想像に難くない。自分の理念の具現化に人生を賭けた、その重みを感じた。

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余談だが、理念の具現化といえば今回の展覧会ではリートフェルトのチェアも展示されている。アームチェアやジグザグチェア。先日訪れたアアルト展で見たものとは全く違う、「これは座るためのものなのか?」とまで思ってしまうような、直線で構成された椅子。しかし、理念の具現化という点においては、アアルトもリートフェルトも同じなのだ。

今の私の生活に「創作」や「理念の具現化」といった要素はほぼ無い。「こんなの自分にも描ける」と言われてしまいそうな一見単純に見える作品も、それをゼロから生み出すことができるか、できないか、そこには大きな違いがある。
自分の心も頭も柔らかくして、自由に何かを思い描くことから始めてみたい。



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