2021年後半に行った美術展いろいろ
これは本当は2021年中に書き上げて投稿するつもりだった。さらに言うと、「いろいろ」とまとめるつもりもなく、それぞれ単独で記事を書くつもりだった。しかし、いろいろあってこんな形、こんな時期になってしまった。これらの展覧会が他に比べて印象が薄かったなどというわけではないことを強く主張しておく。
三菱一号館美術館「三菱の至宝展」
国宝重文てんこ盛りなことで話題だったこの展覧会、幅広いジャンルの「人類の宝」と言っても過言ではないような品々が次々に目の前に現れる。そんなことってあるんだ、と思ったのは中国には現存していない当時の文献が日本で国宝になっていることだ。確かに本国にも残っていないなら、それはかなり貴重なものであることに間違いはない。
また、『リグ・ヴェーダ』やマルコ・ポーロの『東方見聞録』、シーボルトの『日本植物誌』、司馬遷の『史記』といった、「教科書で見た!」ものが多くあったことも面白かった。絵画や彫刻で「教科書で見た!」はよくあったが、社会科の教科書や資料集に出てくるようなある意味ビッグネーム?が数多く展示されていて興味深く見た。古地図も見れば見るほど面白く、コレクターがいるということも納得のいくものだった。
ある部屋では仏典とコーランと聖書が隣り合わせに展示されていたことも印象に残った。これはそれぞれの宗教の敬虔な信者の方にとっては、どのように映るのだろうか。
知的好奇心をくすぐられながら歩みを進めると、暗く小さな小部屋に行き着く。そこには曜変天目茶碗だけが、部屋の真ん中に展示されている。しかも、この部屋には専属の警備員が配置されているのだ。特別扱いにも程がある。さすが世界に3点しか存在しない茶碗。これまで静嘉堂文庫や東博で稲葉天目、サントリー美術館で藤田天目を見たことがあるが、何度見ても心を奪われる。どんなものか知っているのに、見る度に溜息をつきながら周りをぐるぐると歩き回り、角度や高さを変えていろいろな方向から味わってしまう。3点のうち、残りひとつの大徳寺龍光院にある天目茶碗は、数年前にMIHO MUSEUMで出ていた。しかしさすがに当地は遠く、見ることは叶わなかった。人生の中で一度は見てみたいもののひとつである。
この展覧会は非常に満足度が高かった。普段あまり自分からは見に行くことがない分野のものにも多く触れることができ、視野が広がったように思う。
Bunkamuraザ・ミュージアム「ポーラ美術館コレクション展 甘美なるフランス」
とにかくゆったり、うっとり、優雅な時間を過ごすことができた展覧会。週末は夜間開館があり、私は金曜日の夜に足を運んだ。1週間働いた最後の夜に美しいものを見る、まさに「自分にご褒美」。ルノアールやモネ、ピサロ。穏やかで美しい。甘美という言葉がぴったり来る。さらに、ラリックの香水瓶や、当時の化粧道具が合わせて展示されていたことも優雅な雰囲気をさらに盛り上げていた。ユトリロの硬質な白さが良いアクセントになっていたように感じる。
この展覧会では、ルノワールの描いたアネモネの絵が心に残った。まろやかな花弁の丸み、自然の作り出す複雑な色彩、それらから立ち上る色香。最近はポストカードを買わないように心がけているのだが、その禁を破って購入してしまったほどだ。私の好きな画家であるルドンも、よくアネモネを描く。確かに姿が美しく、でもどこか儚げなところが画家を惹きつけるのだろうか。花言葉を調べてみたところ、色によって違うようだが「あなたを愛する」「はかない恋」などやや悲しみを帯びた言葉が並ぶ。花言葉の由来はわからないが、妙に納得するものがあった。
21_21 DESIGN SIGHT「ルール?展」
意欲的な展覧会だという印象。「甘美なるフランス」展ではただのんびりと眺めることができたが、この展覧会はそれを許さない。まず入口にスタンプコーナーがあり、ここで自分が自分に課すルールを2つまで決めることになる。会場内ではそのルールに沿って動くよう求められるのだ。もちろん強制されるものではないし、誰かがそれをチェックしているわけでもなく、守らなかったところで罰があるわけでもない。ただ、このプロセスを経ることで来館者は「傍観者」から「当事者」へと意識の切り替えをすることになる。
私たちはさまざまなルールに沿って社会生活を営んでいる。法律のように守らないと罰があるものから、エスカレーターでは左に立つのか右に立つのかという「誰が決めたわけでもないのに守っていないと迷惑な顔をされる」ものまで。
また、ルールだと意識していないものも多いだろう。赤信号では止まる、これもそうだ。実はこれもルールに則って作られていた製品だったのか、というように見えにくいルールもある。
この展覧会では、いくつかの「ルール」に関する展示を見て回る中で、ルールとは何だろう、と考えさせられたり、社会の変化に伴う新たなルールについて思いを馳せたりといろいろな刺激を受けることができた。
既存のルールを捉え直す、という試みとして面白かったのが「鬼ごっこのルール」だ。改めてルールという観点で見直してみると、これだけの分岐が存在する。
一方、新たなルールとして興味深かったのが「死後のルール」だ。人が亡くなった場合、その死体や財産管理についてのルールはある。しかし、プライバシーや顔写真はその限りではない。これらをどう管理・規制するのか。簡単に言うと「亡くなった人の扱いについてのルール」ということになる。
私は最近YouTubeで登山動画を観ているが、そうするとお勧め動画として、数年前に冬の富士山から生配信中に滑落して亡くなった方の映像が出てくる。もしこれを遺族の方が消して欲しいと願った時、それは法的に可能なのだろうか。本人が所有していたものについては主張できても、他の誰かが所有しているものについて管理や規制をする法的根拠はあるのだろうか。
また、最近の技術の進歩の結果、亡くなった人を擬似的に蘇らせることができるようになりつつある。NHKの紅白歌合戦で、「AI美空ひばり」が新曲を歌ったことが物議を醸したのは確か一昨年の話だ。これは反発する人が多かったように記憶しているが、ではもし、幼い子供を突然の事故で失った母親へ、VRを駆使してその姿を蘇らせるとしたら?姿と声と発語の再現という点では「AI美空ひばり」と同じだ。こちらも同じく故人への冒涜だと批判されるだろうか?
さらに、故人の遺した文章をAIに読み込ませて学習をさせたら、故人と同じ文体でライティングができるようになるかもしれない。ということは、このように文章を生成している限り、ブログやSNSなどの文字上では永遠に生き続けることが可能になる、ということになるかもしれないのだ。現にTwitterで目にした事例として、いわゆるBOTに自動投稿の設定をすることで、亡くなった方のアカウントから定期的にツイートが発信されている。これはご本人が設定されたものなので問題ないと思うが、仮にご本人の意思なく家族がこれを行った場合はどうなるのだろうか。
自分が死んだ後、誰かが自分の顔と声を使い、自分の言いそうなことを喋る、または書く。このことを、許せないやめてくれと否定するのか、死んだんだから好きにしてくれと許容するのか。まるで臓器提供の同意カードのように、事前に意思表明をしておくことが必要な時代が来るのかもしれない。
最後に、ルールとは公的なものであれ私的なものであれ、ある程度の人数による合意がないと成り立たない。展示作品の一つとして、一からルールを作って枝で遊ぶという動画が流れていたが、これはその場の全員にルールを守る気があるから新たな遊びが生まれるのである。
今、コロナ禍の中でさまざまな新しいルールが生まれている。外出時はマスクを、店に入る時は手指消毒を、電車の窓は開けて、などなど。しかし、「自分はそんなルールには従わない」という人だっていると思うのだ。そのように「ルールに対する合意」が崩れた場合、そして現段階では少数派であるそういった人が、もし多数派になった場合。それはルールの転換を意味するだろう。多くの人の合意によって成り立つルールというのは、案外脆いものなのかもしれない。
2022年も引き続き、感染対策に気を配りつつ展覧会に足を運び、美味しいものを食べるように自分の心を甘やかしていきたいと思う。2021年に私の記事にスキして下さった方々、本当にありがとうございました。
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