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三菱一号館美術館「イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜」展

日本初公開の作品が多く出る、とのことで気になって足を運んだ。年末、事前予約を取ろうとしたら空いていたのは閉館直前の時間のみ。年末休みに入ったからなのか、印象派だから人気なのか不明だが、館内もかなりの混み具合で「久々にこんなに人のいる美術館に来たな」という印象だった。

展示はまず「水の風景と反映」と題された展示室から始まる。コロー、クールベ、モネなど。水の風景とのことだが、そこに同時に描かれる空と水の対比が心に残った。そして、光の美しさ。
「今、ここをキャンバスに留めたい」という印象派の作品を見ていると、仏教の言葉が頭に浮かんでくる。諸行無常、全ては変わってしまう。空も水もそれらを照らす光も、同じように見えても同じではない。そのことが美しく悲しい、と感傷的な気持ちになってしまった。
そして、唯識という言葉も浮かんだ。唯識とはWikipediaによると
「個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである(瑜伽行唯識学派)。ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。」
だそうだ。あまり深く正確な理解はできていないが、私はこれを「世界を作っているのは本人が世界をどう認識したかということ」と捉えている。印象派の作品は、写実ではあるが「画家の印象」によるものだから、現実がどうであるかはおそらくさほど問題ではないのだ。事実はともかく本人にそう見えたのならそうなんだ、という、これはまさに唯識と似通っているように感じた。

いくつかの作品は、写真撮影が可能だった。モネ、ピサロ、シスレー、ゴッホ、セザンヌ。その中に、知らない名前があった。そして、その作品に私は一番惹かれた。

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レッサー・ユリィという画家だ。私も特に美術に詳しいわけではないので不勉強なだけなのだとは思うが、なぜか足を止めてしまう何かがあった。
この作品もだが、出展されていたユリィの他の作品も、どれも画面が暗い。印象派といえば陽光のイメージがある。もちろん夕暮れ時などの作品もあるが、「夜のポツダム広場」は雨の夜、石畳なのだろうか?路面に反射した明かりに焦点を当てた作品で、完全に夜になった時間を描いた印象派というのは珍しいのではないかと思った。共通するのは「光」だ。自然光と人工光の違いはあるが、そこにあるのは光とそれによって見えてくる風景だ。私たちの目は、光によってさまざまな色や形を認識している。それによって体感温度さえ変わる(暖色の部屋と寒色の部屋では体感温度が違うことは有名だろう)。ユリィの作品はどれも、ひんやりした空気感を纏っていた。それがとても心地よく、同時に所在なさや心細さを呼び起こした。今のこの季節、陽の落ちるのが早い夕方に外を歩いていると、暗く寒い中で灯る家や街の明かりはどこかほっとするものだ。そのほっとする感覚で、私はそれまで自分が無意識に心細さを抱えていたことに気づく。ユリィの作品を見ていると、そんな根源的な寂しさや寄る方なさまで感じられるようだった。

また、モネの「睡蓮」が複数展示されていたことが嬉しかった。何度見ても、どれを見ても、茫漠とした中に自分が溶けていくような感じがとても好きだ。あなたの一番好きな「睡蓮」はどれ?とアンケートを取ったら面白いだろうな、などとも思う。私のマイベスト睡蓮は、地中美術館にあるものだ。あの部屋での鑑賞体験も込みで、何よりも印象に残っている。次点は京都の大山崎山荘美術館。

自分の知っている、好きな画家や作品を見に行くのも良いが、期せずして魅力的な画家や作品に出会えることもまた喜びだ、と実感できた展覧会だった。とても良い時間だったと思う。

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