川上未映子『わたくし率イン歯ーまたは世界』講談社文庫
もうだいぶ前に出たこの小説、題名だけはよく目にしたが、奇をてらっている作家だと思って読む気がしなかった。もてはやす人たちのことを軽蔑していた。しかし何事も外見で判断しちゃだめですなぁ。反省します。とても良かった。
語り手の女性は、「わたしは奥歯だ」と言う。属性をすっかり捨てた、自分の本質というものがあるとすれば、それは歯だと。「は」だ。
(かつて昭和の女性作家が生々しい小説を書くと、「女は子宮で考える」などと言われたらしいが、それから考えると隔世の感がある。今は歯なのだ。)
それで語り手は歯医者でアルバイトをするのだが、歯医者という場所の描写が面白い。診察室は「口」で、診察台は大きな「舌」である。そう言われればそうだ。それから型を取るときのあのピンクのぶよぶよとか、いろんな器具の話とか、歯医者によく行くわたしには面白かった。語り手はそこで歯医者見習いの女性から足を踏まれたり、腕をひねられたりするいじめを受けている。でも人から与えられた痛みはすべて自分の穴に埋めるだけだと言うのだ。
彼女はまだ見ぬ自分の赤ちゃんに向かって手紙を書く。「お母さん」である自分には安心できるらしい。これも「自分とは誰か」の問題だ。「はは」はOKなのである。
彼女は中学のとき、青木という男の子から「雪国の出だしの文には主語がない」と言われて、新鮮な驚きを感じる。主語がなくてもいい世界があるのだ。それから青木は彼女にとってかけがえのない大事な存在になる。だんだんわかってくるのは、どうやら彼女はそのころから壮絶ないじめを受けていたことだ。その痛みや苦しさを耐えてきた。そのときの奥歯こそが自分なのである。「ぜったい傷つけられへん私を入れた、勝手に決めた奥歯の中に、痛みの全部を移動させてぜんぶ閉じ込めてきたんやった」。そして青木の奥歯にあこがれ、二人で奥歯を見せ合えば二人の仲がどんなにこじれていても直ってしまうはず、と思う。奥歯こそが本質だから。ここまで読むとだんだん『ヘヴン』の世界に近づく。彼女はコジマなのか。『ヘヴン』では主人公の男の子は斜視を手術で治すことになり、コジマから去っていくが、この小説でも青木は彼女の名前さえ覚えていないとわかる。そのあと彼女は奥歯を抜いてしまう。麻酔なしで。
読み終わると、奇をてらったような題名も、遅れてきたモダニズムのような文体も、少しも気にならない。むしろこの痛みを書くには適切な方法だと思えた。そして、『夏物語』でわたしは主人公が自分の子どもに会いたいと願う気持ちが理解できなかったけれど、今度は少しだけわかった気がしたのである。その子はきっともうひとりの自分だと思えるのではないか。