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原田マハ『デトロイト美術館の奇跡』新潮文庫

昔むかしのお話。まだ30歳になるかならないかぐらいの頃、わたしはデトロイト近郊のA市に本社があるアメリカ企業の日本支社に勤めていて、3か月に1度ぐらい会議のためにアメリカの本社に出張していた。会議はたいてい3日とか4日間、朝から夕方まで缶詰である。たまに土日がはさまれることがあったが、クルマの運転ができないわたしは現地社員に誘ってもらう以外は、ホテルから出られず退屈だった。

あるとき、デトロイト美術館に行こうと思った。そこにはブリューゲルの絵が1枚あると聞いたので。ブリューゲル好きだったのでぜひ見たいと思ったのだ。

じゃあ、行けばいいじゃない。ひとりで行けるでしょ。簡単なことだ。と、あなたは思うでしょう。でもここは東京じゃない。クルマ社会のアメリカである。まずわたしはA市のホテルでタクシーを呼んでもらい、美術館まで行った。行きは良かった。ホテルに出入りするタクシーだから、きれいなクルマで、きちんとした運転手で、気持ちよく乗車した。問題は帰りだった。

デトロイトははっきり言って治安がたいへん悪い。特に市の中心部は貧困層が住み、麻薬常習者が道をふらふらと歩いていたりする。無人になったレンガ造りの家からレンガが少しずつ盗まれて、ついには家が崩壊したりするような時代だった。さて、どうやってタクシーをつかまえよう...。特に名案はなかったので、美術館のそばの大きな道路に出て流しのタクシーをつかまえることにした。かなり不安ではあったが。

停まったタクシーは、なんという車種か知らないが、購入してから30年ぐらいたっていそうな代物で、窓を開けるハンドルは取れていた。車内はネズミ一家が長年幸せに暮らしていそうな汚れ具合だった。運転手はとても不機嫌で、行き先を告げても無言。その後もずっと無言だった。大丈夫か。わたしは無事にA市に着けるのだろうか。当方あんまりお金があるような格好はしていないが、誘拐されて身代金を要求されたりしないだろうか。それよりレイプされて八つ裂きにされて、高速道路脇に捨てられたりしないだろうか。

わたしはそのあとも、海外で一人旅をすることが何度かあったが、このデトロイトのときと、それからトルコのビジネス街でトイレを案内してあげると言われて知らない男に知らないビルに連れていかれたときぐらい、不安だったことはなかった。やっぱり若い女性なのだからもっと用心して行動すべきだったと後悔し、無事に帰れますようにとタクシーの後部座席で神様にお祈りしました。

いや、結果は無事にA市のホテルに到着したんですけどね。ブリューゲルの絵も堪能したし、充実した休日となりましたが、デトロイトで流しのタクシーを拾うのはお勧めできません。自分でレンタカーを運転してください。

すごくくだらない話を書いてしまった気がします。デトロイト市はのちに財政破綻してしまい、あのデトロイト美術館も展示物が売却されるのではないかというニュースが日本でも流れ、どうなることかとわたしも心配しましたが、市民の寄付で売却は止められ、独立行政法人となって現在もちゃんとデトロイト市に存在します。そのあたりのお話がこの『デトロイト美術館の奇跡』に書かれてあるのでした。話の中心はセザンヌの妻の肖像画だけれど、下にわたしが危険を冒して見に行ったブリューゲルの「結婚式の踊り」の絵を貼っておきます。いい絵ですよ。

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(画像はWikipediaより。)

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