
平松洋子『小鳥来る日』毎日新聞社
毎日新聞の日曜版に連載されていた短いコラムを集めた本。日曜の朝にふさわしいような短めのさらりとした文章だ。(平松さんのエッセイということで期待して読むと、さらりとしすぎて物足りなく思う人もいるかもしれない。)
平松さんというと、いつも自分の芯がぶれない人で、おまけにユーモアも教養もあるというイメージだったのだが、ときには落ち込むこともあるのだなぁと(当たり前のことだが…)この本を読んで思ったりもした。書き方はどれもさらりとしているのだけど。
印象に残ったエッセイは二つ。まず、「猫の隊列が通る庭」は、自分の猫が死んだあと、不思議に庭によその猫たちが来るようになった話だ。
「つくづくふしぎなことである。いなくなったら、現れるものがある。失ってはじめて到来するものがあるのだ。そうか。もし穴がぽっかり空いたとしても、あわててむりやり埋めたてなくてもよいのかもしれない。吹いていった風に導かれて、新たな風はきっと入ってくる。もういなくなってしまった、たしかに失ったのだと受け容れれば、とたえ寂として佇んでいても、あらたな風の通り道は世の理としておのずと現れ来る。」
いま、この文章をこうやって書き写して思ったのだけれど、非常に短いコラムのわりに、この部分は平松さんとしてはやや冗長だと思う。もう少し短くできそう。でも、できなかった。たぶん、猫が死んで悲しむ自分に言い聞かせながら書いたのではないかな……。
もうひとつは、「モンゴルの草原の奇跡」。モンゴルにひとりで旅した彼女が、ゲルに泊めてもらう。まわりは大海原のような草原で、なんの目印もない。トイレをすまそうと当てもなくある方向に歩いて行き、帰ってきたのだが、次の日にも特に当てもなく歩いてみると、前日自分が何気なく草を結んだ、その場所だったので非常に驚いたらしい。
「大海原、いや宇宙のようなモンゴルの草原にあって、わたしの居場所はたしかに与えられている。じつに奇妙なことだが。しかし、それこそが草の葉の結びめを目撃した瞬間、私の全身を駆け抜けた感情であった。ここに居場所がたしかにある、つまりわたしは生きていてもよいのだという許しとして受けとったのである。」
ここも同じ。きっとひどく辛かった時期なのではないか。なんとなくそんな気がする。そして、あの平松さんでもそういうことがあるんだなぁと、ちょっと安心したのだった。