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中井久夫『私の日本語雑記』岩波書店
精神科医の著者が日本語や外国語について考えたことをまとめた本。読みやすくはないのだが、とても面白かった。珍しく線をたくさん引いて読んだ。本全体を通して言葉と文体がテーマになっているが、この本の文体自体が非常にユニークで、多言語に詳しい人独特のものだと感じた。それにしても、神谷恵美子もそうだが、精神科医が言語への敏感な感覚を持っているのは理由がありそうだ。
日本語だけについて語る部分は、多分に彼の個人的経験をベースにしていて、素手で日本語学にアプローチしているところがユニーク。でもわたしにとって面白かったのは難解な学術書の翻訳と詩の翻訳についての章だ。(学術書と詩の翻訳を同じように並べて論じているのが面白い。)以下、自分にとって面白かったところを羅列してみる。
・夢は目覚めた瞬間は夢特有の豊かさがあるが、内容を言葉にしたとたんに単純なストーリーに収れんする。夢は思考の原型。
・日本語の文末のエコノミー。「のである」「なのである」は省く方がいい。ほとんど意味がない。
・翻訳するとき、原文を読み過ぎると意味飽和が起きる。モーツアルトも聞きすぎると無に近づく。暗記するほど読んでしまった文は翻訳がやりにくい。次がどうなるかをどきどきしながら読み聞きする範囲にとどめた方がいい。訳者は「読みつつ読み馴れない者」でなければならない。
・カトリックの家系の作家は欽定訳聖書の禁欲的英語の影響をうけていない。シェイクスピア、ジョイス、ダレルは影響を受けていない華麗な英語。
・ヴァレリーの詩の翻訳経験について。「詩モード」の基底は「うたう状態」。言葉の素材的な「質」に感覚が開ける。
・長詩を日本語に訳しにくいのは、日本語が長詩を発達させてこなかったから。
・散文詩は全体、あるいは1パラグラフが1行の詩であると考える。
・翻訳者は技術移転をする人。ふだん英語で考えるほど英語ができる人と共訳したときは、イメージを話し合った結果、いい翻訳になった。翻訳する原文の言語の能力ははほどほどでもよい。著者の場合、しっかり勉強した言語で書かれたものは翻訳しにくく、独学で勉強した言語は翻訳しやすい。
・ヴァレリー『若きパルク』の草稿はもともと水死で終わっていたのに、あるときから再生に変わった。それは1916年にパリを目指していたドイツ軍が直前で阻止されたとき。危機によって励磁され、詩が完成した。
・詩は最初の1行が詩らしくなければならない。読者が最初で考え込んではいけない。
・訳詩は誰のためにするのか。「日本語を理解する原作者」と想定している。
・フランス語は語彙数が少ない言語なので、脚韻を踏みにくい。
・詩を書いたり訳したりするとき、人は「うたう状態」になっている。著者はヴァレリーの詩の翻訳を完成させた数時間後に神戸の震災に遭い、それからのちは「うたう状態」でなくなったとのこと。