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33歳、テレビ業界を経て起業。「好き」を追求した先にある、チャンスがめぐる生き方とは

「テレビ業界を経て、ニューヨークで起業」
mimosa代表 齋藤 汐里さん

この自己紹介だけ読むと、「人生の成功者」という印象を持ちますが、その裏には圧倒的な挑戦と努力がありました。

今回は、mimosa代表の齋藤汐里さん(以下、Shioriさん)のmimosa起業までの人生を振り返りながら、チャンスをつかむ生き方に迫ります

【齋藤 汐里(さいとう・しおり)さん】1988年千葉生まれ、ニューヨーク在住。アメリカの大学で4年間舞台芸術の勉強をした後、日本に帰国。その後テレビ業界に就職し、日本テレビ「アナザースカイ」をはじめとする海外での撮影をメインとしたドキュメンタリー番組に多く携わる。2016年、結婚を機に再度アメリカに移住。2018年にニューヨークに拠点を構え、CM・テレビ番組・ウェブ動画など、幅広いジャンルの映像制作を手がける。

・2021 Adobe Community Fund クリエイターに選出
・2021 内閣府主催クールジャパン動画コンテスト 奨励賞受賞
・2021 New York International Film Festival 審査員賞受賞
・ 2021 SONY 特別セミナー登壇
・2022 CP+ 登壇

https://lit.link/shiorisaito


ハリポタ好きがすべての始まり

-Shioriさんと言えばニューヨーカーな印象が強いですが、なぜ日本を飛び立つことになったのですか?

すべてはハリーポッターが始まりなんです。中学1年生の時に、1作目の賢者の石が映画化され、どハマりしてしまって。そこから映画の舞台であるイギリスに行きたくなり、お小遣いでイギリスのガイドブックを買って、ロケ地をチェックしているうちに海外の文化にも興味を持ち始めて。「海外に行くなら英語が話せないと!」ということで、高校は国際教養学科に進学しました。そこから、3年かけて海外の大学に進学することを親に説得し、アメリカに渡ることが決まりました。

ハリーポッターと呪いの子、劇場前

-大学から一人で渡米することに不安はなかったのですか?

私、人と同じようにするのが苦手で。例えば、中学のテニス部で、みんなのラケットは赤なのに、私だけ青を選んじゃうような子だったんです。だから、社会のレールから外れる怖さより、周りと違う道を歩むことへの憧れの方が強かったんですよね。

アメリカの大学で舞台芸術を学ぶ

-大学では舞台芸術を専攻されたそうですね。

実は、元々は経済学部に進学が決まってたんですよ。でも、渡米後に入学する大学が、ブロードウェイで活躍する役者さんを排出しているような パフォーミングアーツにおける有名校であることを知り、舞台デザイン科に興味を持って。もともと絵を描いたり、ハリーポッターの映画のセットに興味があったので、「せっかくアメリカに来たんだから!」のノリで、学部変更の相談に行きました。そこで出会ったドイツ人の先生が、学部唯一の外国人だった私の話をすごく親身に聞いてくれて。「何かスケッチしてみて」と言われて、その場でお絵描き程度に描いただけでしたが、無事に舞台芸術学科に入学が決まりました。

-行動力が凄まじいですね。入学後はどんな4年間を過ごされたのですか?

初めの2年間は地獄、後半はパラダイスでした(笑)

大学の頃の仲間と

すべての授業が英語で行われることは当然ですが、舞台芸術学科なので、授業は劇やミュージカルが題材になり、その台本を読む宿題がすべてのクラスで出るんですよね。私以外のクラスメイトはみんな昔から劇に慣れ親しんで生きてきた中で、私はネイティブレベルの英語力もなく、舞台の知識もゼロで、本当にわからないことだらけで。初めはストレスで体調がおかしくなってましたね。

今の時代ならスマホで検索したり、友人に気軽に弱音を吐くこともできたと思いますが、電子辞書を引いたり、国際テレカで電話したりするような時代だったので、「親に頭下げて来させてもらったんだから、私には諦める権利がない」と思って必死に食らいつきました。

-しかし、3年目で転機が訪れるんですね。

アメリカの学生はルームシェアをするのが一般的ですが、3年生になる年に新しいメンバーでシェアハウスをすることになって。そのメンバーと意気投合したことで精神的に安定し、毎日が楽しくなりました。

学校の成績ものびはじめ、成績優秀な生徒は舞台のデザインを任せてもらえるのですが、3年、4年ともに選ばれました。特に4年の時は、校内にある300人規模のシアターで行われるミュージカルの作品のデザインを担当しました。

-舞台芸術の経験が、今の映像制作に生きていると感じる点はありますか?

デザインのスキルというより、思考を鍛えられたと思います。例えば、舞台のデザインでは、メタファー(比喩表現)を含んだ表現、つまり場面ごとのメッセージをデザインとしてどう観客に感じさせるかを美学とします。だから、映像制作でも、ワンカットごとの意味を考えた上で監督・編集するようにしていますね。

また、舞台は監督、演者、照明、音響、衣装、小道具など、たくさんの方が関わって一つの作品をつくるので、授業では「いかにチームとして心地よく協力しながら仕事をするか」ということの重要性を、事あるごとに言われていました。だから私は仕事をする上で、スキルと同等・もしくはそれ以上に「気持ちよく仕事ができるチーム」であるかを重視しています。

英語の先生から、アナザースカイADへ

-舞台芸術を学び、大学卒業後はどんな道に進みましたか?

卒業後は日本で就職することが親との約束だったので、学生時代から帰国の度に映画会社でインターンしたり、実績のある舞台装置家の先生の元でインターンをしたりしましたが、どこかしっくりこないものがあり、私の進む道ではないと思いました。そんなこともあり、卒業後は特にやりたいことがなかったんです。

でも、とりあえず就職しようと思い、英会話学校で先生をしました。ただ、私の中で「つなぎ」という感覚もなく、同僚の外国人の先生たちとも楽しく仕事をして、気づいたら教務主任として責任ある立場でお仕事させていただいていました。

でも、クリエイティブな仕事に携わることへの憧れは、その2年間もずっと胸の中にはありました。そんな中で、毎週楽しみにしていたテレビ番組があって。日本テレビのアナザースカイという番組なのですが、ある日突然「そうだ!私は、アナザースカイをつくりたい」と思い立ったんです。

-ここから、映像作家の道を歩み始めるのですね。

アナザースカイを制作している会社に就職し、初めは別のバラエティー番組のADとして働きました。2週間家に帰れない、お風呂に1週間入れないようなことはザラにありました。決してイージーではなかったけど、ここがゴールではなかったので、必死に吸収できるものは吸収しようと頑張りました。

そして入社9か月後、晴れてアナザースカイのADになりました。海外ロケは予算の都合もあり、たいていディレクター、プロデューサー、AD、演者、メイク、マネージャーの6人体制で行きます。通常の番組では複数名のADが帯同してロケを行いますが、アナザースカイの場合は1人ですべてを回さないといけないんですよね。だから、ある程度の知識と経験が求められる番組でした。配属が決まった3ヶ月後から月に1回海外ロケに参加し、そこから退職するまで全10回ほどADとして担当しました。海外ロケはハプニングの連続で、予定調和のない日々を乗り越えた経験は自信になりましたね。

フィンランドでの撮影

-なぜ、あんなに憧れたアナザースカイを去ることになったんですか?

これ以上ADとして働いても、自分は成長しないと思ったんですよね。私は「自分が作り手になりたい」という気持ちが大きく、早くディレクターになりたかったんですが、そのポジションに行くには その当時の環境では5年以上かかると言われており、それだけの年月をかけるのは難しいと感じました。だから、私は次のステップに進もうと思ったんです。

演者も、作り手も、視聴者も。3者が幸せになる作品を

-アナザースカイに携わって、一番の学びは何でしたか?

やりたいことが確信に変わったことですかね。つまり、自分もアナザースカイのようなものづくりがしたいと強く思うようになりました。

アナザースカイは、タレントさんの第2の故郷を起点に、その方の人生観を描く番組です。そのため、番組を見た視聴者がインスパイアされるだけでなく、制作段階から演者さんは自分と向き合い、作り手は演者さんに正面から深く向き合います。そうやって、心を通わせる時間はとても尊いものでした。「三方良し」じゃないですけど、これほど3者全員が幸せになることを体現した番組はそうないと思います。

だから私は作品を通して、演者が自分の人生に価値を見出し、それを見た視聴者が「明日も頑張ろう」という気持ちになるような映像を作りたいと決意しました。

アナザースカイのロケで訪れた、メキシコ

結婚、移住、独立。自分の価値を見失う

-27歳で結婚、アメリカ移住、独立。すべてのイベントが一度に舞い込んできた時期ですね。

結婚すると決まった頃から自主制作も始めていましたが、アメリカ人の夫の元へ移住してからは労働権がないことで身動きがとれなくなりました。私の中でこの期間を「暗黒期」と呼んでいますが、「映像をやっていない自分の価値とは」ということを永遠に考えていましたね。

私は今まで何者でもないのに、「テレビ業界にいる」「みんなの知っている番組をつくっている」「アナザースカイのスタッフ」という世間一般に認知されていることを自分の価値に置き換えて、みんなに「すごいね」って言ってもらえることを誇りにしていました。恩恵にのっかりすぎていたんですよね、ディレクターでもなんでもないのに。また、私は体を酷使して過剰に働くことを「努力できる自分」と捉えて、自己肯定感の根源にしていました。しかし、それらは「テレビ業界で頑張る自分」という存在にあやかり、「まやかしの自分」で自分を保っていただけだったんですよね。

もうね、ずっと考えてました。本当の自分の価値はどこにあるんだろうって。でも、次第に「今まで私が経験したことは嘘ではないから、その経験を持って、自分が作る作品で価値を提供していくしかない」と、本当に進みたい方向が見えてきました。

-こうして、自分の価値を再認識して、再出発したんですね

でも、再認識できるようになったのは、作品が出来上がってまわりに「いいね!」と言われるようになってからです。一歩踏み出した時にはまだ暗闇の中にいましたが、手探りで自分の撮りたい作品を追求し始めました。

-その一つが、自主制作の「手と手」シリーズですね。

はい。「手と手」はモノづくりをする職人たちをフィーチャーした短編ドキュメンタリーで、私のライフワークとしてやっていきたい作品です。

手と手(2016)

「手と手」は私の大好きな職人さんたちの神の域に触れる手仕事に向き合う作品だったので、宝物のように制作しました。映像内のキャプションの言葉もすべて私の手書きです。今思うと狂気の沙汰ですね(笑)

ここからチャンスの扉が開き始め、自分のキャリアの分岐点となるお仕事に恵まれるようになります。

映像を介して、好きな人たちと生きる

-Shioriさんの人生を振り返ると、高い目標を掲げて準備するというより、目の前の好奇心に従って素直に行動する方ですよね。

そうですね。「10年後の目標って何ですか?」ってよく聞かれるんですけど、ないんですよね。直近の目標は考えますが、ロングスパンの目標を持てないんです。というのも、中学の頃から目の前に来たチャンスの扉を開けて開けて開けてきた人間なので、将来のことは予測できない実感があるんです。だから考えても無意味だなって。

-チャンスを掴めるのも実力のうちですが、そのために意識していることはありますか?

常に自分をreadyの状態にしておくことは心がけていますね。

あと、今思うのは、興味ある方向に進むと、自分の好きな人たち、自分が身を置きたいと思えるコミュニティがそこにあるんですよね。その人たちと繋がり、時間を共有する。その積み重ねが、自分の人生の通知表だと考えています。

だから、何を成し遂げたいかというより、「どういう人たちと一緒に生きていきたいか」に重きを置いていますね。

-自分の考えは、周りの人たちからインスパイアされて、ブラッシュアップされていくものですよね。

そう。だから、好きな人と生きていくために、私は映像をコミュニケーションツールにしています。演者に対してだけでなく、チームとしてもです。映像を介すると、お互いが向き合う時間が生まれ、精神的な深い部分で対話ができるんですよね。だから、相手のことをもっと知って、お互いの強みを引き出しあって、いい仕事ができたら最高だなって。

だから、私は日常も仕事も人間関係を切り分けず、同じところでつながっている感覚があります。今でこそやっとできるようになりましたが、すごく贅沢な生き方だと感じますね。


自分の気持ちに嘘をつかない。それは、自分に対してだけでなく、周りの人に対しても誠実でいる証。いつも自分に素直であるからこそ、他者との本物の信頼関係や絆も築けるのでしょう。Shioriさんのように自分の感性を信じて生きてみると、自分の好きな人たちやチャンスがめぐってくるような希望を感じました。

【取材・文=渡邉茜(mimosa2期生)】


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