デジタル・ラストワード(第一話)

 ——身体が軽い——

 初めて来たこの空間で、始めに感じたのはそれだった。
 地を蹴った少女の体は、重力を無視したように跳ね上がり、背の高い森の木々を飛び越える。
 急な坂道を軽々と駆け上がり、頂上にあった高い鉄塔に、数回の跳躍で登り切る。

 頂上からの景色はどの方角を見ても山しかないが、達成感を与えてくれる。
 軽く息を整えながら少女は、ついさっきのことを思い出す。

 ◇ 暗転 ◇

 白一色で構成された何もない空間が広がっており、少女の目の前には見知らぬ男が立っていた。
 男はゆっくりと、両腕を大きく広げる。
「ようこそ、メタワールドへ!」
 陽気な声で話す男に、少女は目を細め、睨むように首をかしげた。
「……ここは? あんたは誰だ?」
「ここは我が社の閉じた世界ローカルワールドです。これからみなさんには仮想デモフィールドへ向かってもらいます」
「ローカル……デモ? どういう意味……」
「それでは、ご武運を祈ります! 良き体験を!」
「おい、ちょっと待て! ……おい!」
 食い下がろうとする少女を無視し、男は手元で装置を操作した。
 同時に少女の身体が光りに包まれ……

 そして気がつけば、少女は森の中にいた。

 ◇ 暗転 ◇

「何が起きたのか知らないが、今はこの世界を楽しませてもらうことにしよう」
 少女はそう結論づけて、改めてこの世界を見渡した。
 感覚を研ぎ澄ますと、鳥が鳴く声や、動物が草木をかき分ける音が聞こえる。
 青い空には不定形の雲が浮かび、その上には白い半月が。

 吹き抜ける風が少女の身体を撫で、汗を吹き散らす。
 リアルな感触は、少女にここが仮想世界であることを忘れさせるようだった。
「……ん?」
 バランスを取りながら涼む少女の耳に、風に混じって悲鳴のような声が届いた。
 目を凝らすと、超人的に視覚が強化される。
 少女の瞳には、何かから必死に逃げる男性の姿が映っていた。

「俺の他にも参加者がいたのか? 何かから逃げている……?」
 視線を移すと、男が逃げてきた方向から、巨大な熊が現れた。
 人の大きさと対比すると、その全長は五メートル以上はありそうだ。
 ここが現実世界なら、生き残ることは至難だろう。
 だがここは仮想の世界。
 男は人間の常識を超えた速度で熊から逃げ回る。
 だが同時に熊は熊で、野生の限界を超えたような勢いで、男に迫る。

 その距離は、時が経つほどに少しずつ狭まっているようだった。
 観察する少女は、あることに気がついた。
「だがあいつ……俺よりも遅い?」
 そして少女はあらためて、決意したように頷いた。

 直後、少女の身体が自然と動く。
 身体を前掲させて、力を溜めるように身を屈める。
 鉄塔が歪むほどに勢いよく跳躍した少女は、直後、男と熊の中間地点に着地した。
 風に圧されてその場に倒れた男を無視し、少女は熊を睨み付ける。
「熊に遭遇したときは背を向けて逃げるなって、学校で習わなかったのか!?」
「そ、そんなこといわれても……! そもそもあれが、普通の熊に見えるんですか!?」
「たしかにそれも、そうだけどな」

 突如現れた熊に怯んでいた熊は、その相手が小柄な人だと気がついたのか、うなり声を上げながらじりじりと詰め寄ってくる。
 少女は熊に対して小さな身体を大きく広げ「ウグラァ!」と声を上げて威嚇する。
 一瞬だけ驚いた様子の熊は、少女のことを『敵』と認識した。

 熊がうなり声を止めた。
 バネを解放するように、巨躯を大きく伸ばしながら鋭い爪の生えた片腕を伸ばす。
「……だぁ!」
 かけ声と共に少女は身を捻り、熊の腕をすり抜けざまに、胴体に拳を突き出した。

 小さな拳が、分厚い毛皮に阻まれる。
「効かない……か。まあ、そうなるよな」
 少女の攻撃は傷の一つもつけないが、熊にとっての脅威は一人に集中した。
 真後ろで倒れてもがく男を無視し、その瞳は少女だけをじっと睨み付けている。

「おい、そこの! こいつは俺が引きつけるから、お前はしばらくじっとして……落ち着いたらとっとと逃げろ!」
 少女はそう言い残してじりじりと後ろに下がり、熊が追いかけてきているのを確認しながら森の中へと飛び込んだ。
 熊は怒りの声を上げながら、少女を追いかける。
 巨大な熊と、小さな少女の追走劇が始まった。

「ったく……『お嬢さん、お逃げなさい』ってか?」
 少女は必死で逃げ回るが、熊もしつこく少女を追いかける。
 単純な直線の移動であれば、どうしても巨体の熊に軍配が上がるようだった。
 だが、瞬発力という点では、小柄な少女の方が勝っていた。
 広い山の中を縦横無尽に逃げ回る少女は、なかなか振り切れないことに舌を巻きながら、同時にどこか、そのことを楽しんでいた。

 そして不意に、少女の前に開けた空間が現れる。
 その空間には高い木が生えておらず、一面に白い花が咲いていた。
「うぉっ……と」
 突然のことに言葉を失う少女が視線を上げると、花畑の中央には、ドレスを着こなした淑やかな女性が一人。
 じっと少女のことを見つめていた。
「やばい、関係ない人を巻き込んだ……おい、そこの美少女! 危ないから逃げろ!」
 少女が声を上げながら花畑の中に足を踏み入れると、女性は頬を少し赤らめた。
「美少女? それは私のことかしら? 褒めても何も出ませんよ」
「それどころじゃない! ……来たぞ、お前はそっちに逃げろ! 俺はこっちに……」
「大丈夫。あれぐらいなら、美少女である私に任せてください!」

 女性は、バキバキと木々をなぎ倒しながら現れる熊に怖じ気づいた様子もなく、立ちすくむ少女の横を抜けて熊へと一直線に向かう。
 ランウェイを歩くような優雅さで、ゆっくりと近づく女性に面食らったのか、熊は一瞬立ち止まる。
 そしてそれが、熊にとっては命取りだった。

 女性がゆっくりと手刀を振ると、熊の首が勢いよくはじけ飛び、胴体は沈むように前のめりに倒れ込んだ。
「ふふっ、まあこんなものですか。これからよろしくね、お嬢さん」
「あ、ああ……よろしく?」
 女性が差し出した握手に少女が答えようかと戸惑っていると、不意に辺りが、照明を落としたように暗くなった。

「これにて、レクリエイションを終了します。お疲れ様でした」
 世界全体に音声が鳴り響き、直後に少女達の意識は静かに落ちた。

 ◇

 目を開く……いけない、俺は眠っていたのか!?
 俺は今、狭く暗い空間に押し込められていた。
 そう……確か俺は、このカプセルのような機械の中で、機械音声の質問に答えていたはずだ。
「……ありがとうございました、以上で面接を終了します。お疲れ様でした」
 音声と共に目の前の蓋が開き、外の照明が差し込んでくる。
 何かを期待してガラスに映った俺の姿を確認すると、いつも通りの俺の姿がそこにあった。

 身長百八十センチ。体重80キロのずんぐりとした身体。
 子供が見たら、十中八九は「おっさん」と表現するであろう無骨な顔。

「お疲れ様でした、賢木哲夫さん。本日の行程はこれで終了です、採用の結果は後日郵送されますので、お待ちくださいね」
 スタッフは営業的な笑顔でそう言うが、試験中に居眠りするような奴が合格になることは望み薄だろう。

 また駄目だったかと、肩を落としながら俺は面接会場に指定されたビルをあとにした。

よろしくお願いします。