人生における意味
人は誰しも、誰かに自分のことを知ってほしい、特別感を持ちたいと思うのが本能だという。
生活する中で自分のことを考える時間は約大半を占める。
私は今縁もゆかりもない場所に1人暮らしていて、仕事も各県1人担当なので同じ営業課のメンバーは離れ離れ、営業所も違う県にある。
長く親しんだ友達も遠くにいる。
そんな環境で今自分がここにいる意味はなんだろうとふと思うことがある。
最初はこの県を知ろうと、自分の特性である好奇心と突発的な行動力を存分に解放してたくさんの情報が身に染み込んだ。
ところが一通り知った(つもりになった)時、自分がここにいる意味、生きている意味、成し遂げたかったことがわからなくなった。
例えば行きつけの居酒屋ができて、〇〇(私の名前)ちゃん!と言ってくれる店員さん、たわいもないおしゃべりをして飲む常連のおじさん、お兄さん、お姉さんたち。
その人たちは皆何十年という関係性があり、共通のコミニュティや文化で育ってきた。
一見すると新参者の私のこともよくしてくれて、楽しい時間と思うかもしれない。
だけど、私はただの数ヶ月住んでるだけの20代女子で、いてもいなくても何も変わらない。
居酒屋の賑やかさはそのままである。
私がいないことに対して寂しかったり、違和感を感じる人はいないだろう。
女の子の友達ができたと思って浮かれていても、私に対する優先順位は低く、遊びのリスケが5回、6回と続く。
その子にとっても私はいてもいなくても変わらない存在。
仕事でも、まだこの県の担当と胸を張れるわけではないし、私がいないと回らないというわけでもない。
そこまでの経験や知識もない。
いてもいなくても、辞めても、あー、あの子辞めたんだってくらい。
まだまだ関係性は浅くて、自分から触れて作っていくもの、切り開いていかなきゃいけないものだとは分かっている。
いつまでも環境の目新しさに目をキラキラと輝かせ、お花畑の頭で過ごすわけにはいかない。
そこには現実があるのだ。
中途半端な私。
でも、生きる意味、行動したことの意味は後からついてくる。
そんなことを思って腑に落ちたこともある。
そんなことわかってる。
大学生の時ダンスで組んでいたペアと解散した時も、その時はやってる意味がない、存在意義がないと思って凹んだこともあった。
だけど卒業してから思ったのは、1人でやっていくという新たなスタイルを見出すことができたこと、後輩や仕事など目につかなくほめられない事を率先してやることの意味。
でも、こんな経験をしていても、やっぱり考えてしまう。
自分を必要としてくれる、本音を聞いてくれる人。
20代は自立と成長の物語というのがテーマだけれど、やっぱり1人じゃ限界があるよ。
わかってよ。
このnoteは多分、自分はここにいる、誰か気づいて、見て。という潜在意識なのかもしれない。
そんなことを考えて駐車場でnoteを書いていたら車から やさしさで溢れるように がふと流れてきた。