回想かたつむり
小学校の高学年の時、学校の宿題で詩を書いた。
冬になって葉を落としてしまった木は寒そうで
私だったら葉っぱのお洋服を着ているわ、
みたいな、
落葉樹のしくみは知ってるけど、まあ、ファンタジーとして子どもらしく書いてみた。
ちょっとわざとらしいかなと思いつつ。
そしたら
何を言っているか分からない、とコメントが書いてあって、
ああこの先生、私のこと嫌いなんだな、と思った。
私は校門の横の大きなイチョウの木が好きだった。
本当に、好きだったのだ。
先生に好かれていないことは、うすうす気づいていた。
けれど、早熟とはいえまだ子どもだった私がそう確信したことは、なかなか辛いことだった。
別にいいんだけど。
いや、やっぱ良くないわ。
おかげで、学校の先生になりたいと思ったことはなかった。
きっと向いてないし、
今でも自分の子ども以外の子どもがそれほど好きなわけではない。
子どもの運動会で、他の子が走るのを見てウルウルきたのは、きっと歳のせいだ。
そういうことって、ある。
嫌われるってこと。
まあ、お世辞にもかわいい生徒ではなかったと思う。
別に悪さはしなかったが、いかんせん、子どもらしさに欠ける子どもだった。
足の速い子は褒められたが、大人しい優等生の私は忘れ物の多い子の隣に座らされた。
注意すると泣かれる。泣かしてしまうと終わりの会で吊し上げられるかもしれないのだ。
そう、私は便利で大人しい存在で、
もしかしなくても今もその傾向がある。
やんぬるかな。
先生が聖人君子じゃないことはその時理解したし、先生の苦悩も今になったら分かる。
今、子どもが表面的には嫌がらずに学校に行っててすごいと思っている。
担任の先生と話すと、短時間でもわりといろんなことが分かる。
余裕の有無。
的確さ。
好意の程度。
社会とは色んな人に会う場所だ。
家庭とは違う。
いや、家庭にだって色々あるが、
多かれ少なかれ守られてはいたのだ。
異論は認める。
能力は単純に事務処理速度だけでは測れない。
相手の動き、視線、表情、ふとした仕草
口調、にじみでる不機嫌さ、表面的な謝辞を察知できるか。
世界は狭いほど閉鎖的になりがちだし空気が澱みがちだ。
強制的にリセットしたくなるのは、逃げているのか、あの閉塞感がトラウマにでもなっているのか。
何にしろあのじんわりとした、悪意まではいかない負の感情を向けられるのは非常に面倒くさい。
舐められないようになりたい。
いい人なんて褒め言葉じゃないのだ。
そのままでいいなんて、私はそうは思わないわ。
私はね。