メタファーとしてのルピナス
ルピナスさん、という絵本を知ったのは、もうずいぶん昔、江國香織さんの本でだった。
なんとなく心惹かれ、本屋で立ち読みしたものの、購入には至らなかった。
先日、子どもが夏休みに読むための本を購入するため、ブックオフに行った。
ちなみに私は本屋も古本屋も好きだ。
作家を応援するために本屋で購入したいのは山々だが、いかんせんこの物価高、本屋なら一冊しか買えない値段で二冊買えるのだから仕方がない。
児童書を子どもに選ばせている隣で、絵本をパラパラとめくっていた。
私は絵本も好きだ。
そこで、ルピナスさんを見つけた。
端的に言うと、ある女性がルピナスの花の種を撒く話だ。
木を植え、花を咲かせる。
それは、メタファー(隠喩)としての木、概念としての花なのだ。
それは、何を為すか、もしくは為したいか。
すなわち、残りの人生をどう生きたいか。
できることなら、いいことをしたい、というのは、いくばくかの偽善を含んでいるにしろ、わりと真っ当な願いだと思う。
明日死んでもいいように生きるには、どうしたらいいかしら。
なんてことを、最近考えていた。
仕事はしてる。
子どもも育ててる。
あとは?
先のことを考えすぎるのは性分だから仕方ない。
子どもの失敗の先回りはしないように、最近ようやく心がけられるようになってきた。(実際にはまだできてはいない。)
自分の失敗の先回りはしていいのかどうか。
案ずるより産むが易し、だが、
産む前に産後ヘルパー事業への申し込みは済ませておいた方がいいのだ。
なんなら生協の申し込みも。
いつか死ぬのが分かっているのに、ワタワタ不安がってもしょうがない。
事実を受け止めてできることを淡々とこなす。
ってことが、実は難しい人が多いのだな、ってことが分かったのも、わりと最近のことだ。
絶対零度ボックス、みたいなものが、私のメタファーとしての地下の部屋にある。
とりあえずカチンコチンに凍らしておくのだ。
冷やした方が扱いやすくなる、気がする。
死への恐怖はひとまず冷やしておいて、
残された時間をどう過ごそうかしら。
あいにくと緑の指は持ち合わせていないので、たわいもない話を書き散らしてみてる。
お付き合いいただけると嬉しいです。