言論統制という言葉で「華氏451度」と「図書館戦争」を思い出す
なにせ、放置していたからnote開くようになってまだ数日なんですが、ホーム画面でカテゴリやタグでおすすめしてくれるんですね。
その中で「言論統制」という言葉を見かけました。
適当に気になったタイトルを開いて読んでいたので、そのうちの1つがこのタグを持っていたのでしょう…。
で。
言論統制というとプロパガンダや戦時中の日本の非国民とかもかしら?
戦争の時はどこの国も自分に不都合なことを流すな、って言いますよね。
でも一応、日本は戦争していないんだなぁ。
とか思考が走りまして、思い出した本は2つ。
「華氏451度」と「図書館戦争」です。
「華氏451度」は本が禁じられた世界で、レジスタンスと出会ったことでずっと疑問に思っていた事への光明を見つけた人の視点の話。
「図書館戦争」は検閲を通った本しか販売できない中で図書館はその蔵書や本全てを守るために戦う話。
…どちらの世界も、本があったから今の私があると言えるぐらいに本が好きな私からしたら、願い下げですが。
本を守るために武装する図書館と本を守るために脳に詰め込むレジスタンス。
どちらがマシなんだろうか?
いや、どっちもディストピアすけどね、私からしたら。
だって、想像の自由を、想いの世界は無限大であるということを否定している世界ですから。
同時に、考察の力とその研鑽から導かれる知恵に価値がないだなんて、そんな世界はディストピア以外の何物でもないす。
ただ、同時に。
言論の自由があるのは、発言者は発言した内容に対して責任を持つから、なんです。
過度な煽りや炎上は、また同時に言論の自由を正しく活用しているとは言い難いと感じています。
責任取るのが嫌だ?
何を言っているんだ、です。
noteでは今まで書いてこなかったような思考も書こうと決めているのでそのまま書きますが。
その言葉は、あなたが発したという事実は、どんなものであれ取り消せないんです。
私は、自分の書いたものが問題を起こしたのであれば罰は甘んじて受けるつもりです。
普段は予防線マシマシでネット上に存在しているんですよ…。
つまり。
自分の言ったことに対して責任を取る覚悟を持って、自らを表現する方が私はいいと思っているし、その方がかっこいい。
だから、言論統制なんて、ペンを持って戦うのだ!
………ペンは剣よりも強し、でしたっけね。
それはそれとして、「図書館戦争」も「華氏451度」もいい本です。それは間違いない。
剣よりも強いペンで…今はキーボードで…戦うやつに、私はなる!
(戦う相手なんて、いないのにねw)