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【長野からNYヘ】 「自分は何者か」を問う①

こんにちは、耳塚佳代です。2019年9月から、米ニューヨーク大(NYU)大学院にフルブライト奨学生として留学します。ここでは、現地での生活や研究について発信していきます。

海外の大学受験ってどんな感じなの?とよく聞かれます。海外の奨学金や大学院に申し込む際は、自分がこれまでどんな風に社会と関わり、どんな問題意識を持っているのかを強く問われました。自分の「ライフストーリー」を、それぞれの研究テーマと絡めた「Personal Statement」が、合否の重要な判断材料になります。私自身も、周りの人に話したり、質問してもらったりしながら「自分は何者なのか?」を考え直しました。渡米する前に、あらためて振り返ってみたいと思います。

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英語を通じた「外」との出会い

Personal Statementを書くに当たって、はじめは大学以降や就職後の問題意識くらいからしか振り返っていなかったのですが、自分の興味関心の源をもっと深く掘り下げて行くと、地方で育った子ども時代までたどりつきました。

私は長野県安曇野市で生まれ育ちました。アルプスの山々に囲まれた美しいい土地なのですが、10代のころはとにかく田舎の閉鎖性が嫌で、早く外に出たいなーということばかり考えていました。両親も近しい親戚も安曇野で生まれ育ち、出会い、結婚して、働いて...高校生までは、ほぼ一つの町内で自分のつながりが完結していました。当時は家にネットもなく、新聞の国際面の写真を眺めたり、海外の文化や民族のドキュメンタリーをテレビで見るのが大好きでした。

「外」とのつながりがもたらされたのは小学5年生のとき。近所の開業医の娘さんが「外国人の先生に週1回英語を習うんだけど、かよちゃんも一緒にどう?」と誘われ、なんとなく通うことにしました。

当時の地元では、海外出身の人が歩いているだけで大人たちもびっくりして凝視...という感じ。アメリカ人の先生も「電車に乗ると、私の周りだけ人が寄ってこなくて席がガラ空きなんだけど、私、臭う?(笑)」と皮肉交じりの冗談を言っていて、子供ながらになんとなく、申し訳ない気持ちになったりしていました。

教室ではだいたいゲームをして歌を歌っていただけなのですが、先生の家に行くと、背が高めの家具、玄関の匂い、レッスンのあとに出てくる外国のお茶とお菓子、全部が違ってとにかく新鮮でした。英語を通して今まで知らなかった世界とつながった経験でした。

そこから英語に目覚め、猛烈に勉強。中学、高校は、学校の授業だけでは物足りず、「English Journal」というCD付きテキスト(今も売っています)をショッピングモールの本屋まで毎月買いに行き、もはや趣味のような感覚で独学しました。ハリウッド・スターのトークショーから、著名な日本文化研究者のインタビューなど渋めのコンテンツも収録されていて、毎晩布団の中で寝る前にひたすら真似していました。

違う言語を学ぶということは、その言語を話す人たちの文化について知ることでもあり、違う価値観や概念を学ぶということでもあります。「翻訳できない世界のことば」という本がありますが、自国の言葉に概念や事象を表す言葉がなければ、本当の意味で理解するのは難しい。当時は、英語そのものというより、英語を通して触れることができる感性や世界を、体感として知るのが楽しくて仕方なかったのだと思います(なので、機械翻訳で会話できるようになっても、自分で言語を習得し、コミュニケーションする喜びにはかなわないと思います)。

大学では、単に言語だけを学ぶのではなく、立命館大学で国際関係学を専攻し、両親と祖父を説得して1年間、イギリスのロンドン大学SOASに交換留学しました。SOASは、もともと大英帝国の植民地で働く官僚育成学校で、アジア・アフリカ研究が有名な大学。立命館大でSOAS出身のイギリス人教授が教えていた南アジア研究の授業にのめり込み、現地でも南アジア政治文化を専攻しました。半数以上が欧米以外も含む世界各国からの留学生で、文化、言語、ジェンダーなど、今まで触れたことのない多様性がありました。

アジアのほかに中東、アフリカの友人ができたことで、海外=欧米という狭い視野を持っていた自分にも気づきました。彼らの文化や国のことをほとんど知らないし、友人が持つ日本のイメージも「スシ、テンプラ、サムライ」程度のステレオタイプ。帰国後、「そうだ、英語で情報を発信して日本と世界をつなぐ記者になろう!」と、通信社の英文記者職を目指すことにしました。(つづく)






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