「相手の立場に立って考える」ことは本当に意味があるのか
「相手の立場に立って考えましょう」という言葉、小さい頃からなんとなくよく聞いてきたような気がします。
いじめられた子の気持ちになってみよう、差別を受けた人の気持ちになって考えよう、など。
もちろん考えたこともありますし、考えても想像できない自分はダメなんだと思ったこともあります。
大人になって思うことは、相手の立場に立つのはとても難しいということ。というか無理。
だって、性格も、育ってきた環境も、今まわりにいる人も、全然違う。仮に同じ経験をしても、深く傷つく人もいれば、たいして傷つかない人もいる。ある程度共通するものはあるかもしれないけれど、きっとこういう風に感じているんじゃないかと想像したところで、全然違うかもしれない、それがまた相手を傷つけることだってある。
むしろ、わかったふりをしないことの方が大切だと思っています。
「相手の立場に立って考えてみよう」という言葉は、一見優しいし、大切なことを言っているように見えるのですが、実際は、ものすごく難しいことを要求しているのに”できて当然”というメッセージが含まれているように感じて、私はあまり好きではありません。
もちろん、相手の立場に立って考えてみること、相手がどう感じているか想像してみることは大切だと思っています。
でも、「よくわからない」があってもいいし、よくわからない場合はどうしたらいいのか一緒に考えること、「相手の立場に立って」考えたことが必ず相手にあてはまると決めつけないことも大切だということ、そういうの全部ひっくるめて、受け止める覚悟と責任があってはじめて言っていい言葉だと私は思います。
私は最近「対話」に注目しています。
「会話」=価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり。
「対話」=あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。
平田オリザ「わかりあえないことから-コミュニケーション能力とは何か」講談社現代新書(P.95)より
相手の立場にたって考えることができるのは、まさに「会話」をする相手なのだと思います。ある程度共通点があって、1話せば2伝わるような間柄だったら、想像できるかもしれません。
でも、多様性が重視されつつある昨今、自分と価値観を共有できる相手はどんどん減っていくはずです。大切なのは「対話」。自分と相手は価値観が違うという前提に立って、知ろうとすることなのだと思います。
繰り返しますが、私は「相手の立場に立って考える」ことが無駄だとか、必要ないとかいうつもりはありません。ただ、それが素晴らしい解決策かのように言うのは違うと思っています。
言われた人を追い詰めるだけのきれいな言葉は、やわらかいストールを肩にかけるように見せかけて首を絞めているようで、シンプルに責める言葉よりタチが悪いことすらあると思います。
そう簡単にわからないものだという前提で、どうしたら知っていくことができるのか。対話にチャレンジする人を支援したいです。