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震えるぐらい嬉しかったこと

前回の記事から時間が経ってしまいましたが、実は解剖学の次に受講していた病理学も終わってしまいました。これで今学期の半分が終わったことになります(時間が経つのが早い!)
今回なぜか試験が土曜日にあったので1日勉強する日が長くてラッキーと思いながら、苦しい時間が長くなるだけなので結果的に良かったのかは別として(笑)
日曜日の1日休みがあったのみで、昨日から新しい教科が始まりました。

この間に大学生活を通して気付いたことがあったので備忘録として記録しようと思いnoteを開いています。
あ、そして3週間前に引っ越しもしました🏡
勉強があるからと本当に引っ越しに力が入れられず、パートナーと義家族がほとんど作業してくれて…もう本当に感謝しかない(涙)
今頑張って将来恩返しが出来るように頑張りたいです!

と、ここからが備忘録になります。
まずはセミナーという対話を通して学びを深める授業から気づいたことですが、同級生が話している内容ですが教科書に書いてあることを的確に自分の言葉に解釈して発信してる???
正直に思ったまま表現するなら【え、それだけでよかったの?】でした。
そして、ここで私が感じていた違和感があったのだとようやく気づく事ができたのです。
なんというか、私が最後に学校という場所で学んだときは教科書よりも学校の先生が作った資料だったり、同級生が持ち込んだ話(確証があるなしにかかわらず)で話が進んでいっていたような気がします。なんか新しいことを知ってるのがいいみたいな、そんな感覚です。
そして皆が知らないような話を持ってくるとそこから話題が派生していって盛り上がって、そのディスカッションが有意義だった、新しい知識を得たと満足していました。逆にいうと教科書に書いておる通りの内容を学んだ記憶は赤ペン先生の時だけだったような。
言うなれば学びは自由だ〜!という感覚です。
だからなのか、私が教科書に書いてあること+α自分の経験だったり、どう感じたかを話すと皆の頭の上に?がたくさん浮かんでいたんだなと振り返って思います。
なのでこれからは教科書に書かれている内容が何を言いたいのか、そしてその内容に逸脱しない程度に話をまとめていく方法の道筋ができたことがとても嬉しくなりました。この感覚が正解なのかは分かりませんが、とにかくこれからの授業で経験して失敗してを繰り返して成長していけたらいいなと。
確かに、語学学校のときから文章の書き方、ルールがはっきり決まっているなと気づいてはいたんですよね。
多分この内容と繋がるのですがもう一つ、誰かに何かを伝えるときに何が伝えたいのか明確にされていること、自分の考えや思いを一語一句言葉で表現しなければいけないということにも違和感を感じていたのかもしれません。
なんというか、母語の日本語だと一語一句言わなくても分かる前提の会話が多かった気がします。って、これ気づくの遅すぎじゃないのかなって自分で書いていて思いましたが ^^;

そして、この他にも最近学んだとても大切なことがありました。

これもいつも参考にしているコラムを読んで気づいたことなのですが、大学生活が始まってから初めて言語や文化の壁にブチ当たり学校が楽しくないという経験をしました。そしてその時から私は勝手に自分がスウェーデンとは異なるバックグランドでの経験が長い事、そして語学が堪能ではないことを他者にそういう風に見てほしいと委ねてしまっていました。そして自分で自分を卑下しているんだけど、そう見られていても気にしないよ〜!という前向きな私を作ることで平静を装い、自分を守るという自作自演をしていました。自分がどう有りたいかを他者に決めてもらおうとしていたのです。なんて自分本意な考えと今ではとても恥ずかしくなります。
先日何人かの友人と話す機会もありアウトプットも兼ねて上記の気づきを考えていたのですが、本当にびっくりするぐらい自分が人より下手にいるという気持ちから抜けきれていないのも原因だと思います。
多分これは意識的に変えていかないと、これから先ここで生活していくうえで本当に支障をきたす要因になりかねない….。
幸い今の時点で気づけたのがよかったのだと前向きに捉えることにしていますが、長年築き上げられてきた価値観を変えていくのって本当に難しいですね(汗)
でも、実はこのような気づきがあることを期待して進学しようと決めたのもあるので大変だけどそれ以上に新しいことに気づけたことが嬉しくて嬉しくて!やっと言葉にすることができました。


今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。

Hej då!

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