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尾崎豊と僕④
『街路樹』を聴き、少し行き詰まっている尾崎を感じ、また、高校生ながらアーティストが覚醒剤に頼るのは良くないだろうという気持ちもあって、少しずつ尾崎から離れつつあった僕は、音楽的にはやはり佐野元春さんを自分の拠りどころのように感じていた。
また、戸川純さんにも個性的な魅力を感じて、彼女の音楽も追いかけはじめた。
また、その時期には結構な冊数の本を読み始めたことからも、僕の興味関心は次第に尾崎から遠ざかっていった。
元々ほとんどテレビは観ていなかったが、唯一観ていたのが、1989年2月に始まった、『三宅裕司のいかすバンド天国』だった。
この番組をきっかけに日本の音楽界にバンドブームが起こった。そして、僕もこの番組を中心に、さまざまなバンドを好きになっていった。
JITTERIN'JINN、マサ子さんが特に好きだったかな。
のちに大好きになったBLANKEY JET CITYがグランドイカ天キングに選ばれた時はすでに僕はイカ天を観なくなっていた。
それだけが後悔の種だが。
イカ天で世間が盛り上がっている頃、尾崎が久しぶりのアルバム、『誕生』を出したのは知っていた。
しかし、僕は聴く気にはならなかったので、買わなかった。
ただ、尾崎が覚醒剤から完全に離れて、公私ともに幸せになってくれたらいいと思っていたし、尾崎の新しいアルバムがとってもいいという噂が自分の耳に入ってきたら、買って聴いてみてもいいかなとは思っていた。
このようにそれまで僕を様々な意味で駆り立ててくれた尾崎は、この時期には遠くから見守っていたいアーティストの一人になっていた。
それはのちの岡村ちゃん(=岡村靖幸)と同様に。
それから数年後、僕はニュースで尾崎の死を知った。
ドラマになるぐらい、嘘みたいなあっけない最期。
尾崎は26歳で亡くなってしまった。
僕は学生で、東京で一人暮らしをしている時期だった。
1992年4月30日、尾崎の追悼式。
文京区の護国寺には3万7500人ものファンが詰めかけたというニュースを聞いた。
僕は行かなかった。行った人に対して、何の批判もない。
僕は心の中で尾崎を追悼した。
しかし、尾崎を「卒業」したわけではなかった。
その後、尾崎の『放熱への証』が発売された。
それで少し『誕生』と『放熱への証』を聴いてみた。
つづく
読んでいただきましてありがとうございます。また次回、お会いできたらうれしいです。
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