ドライヤーについて考えた日。
非常にどうでもよく、特段考える必要もないことなのだが、ドライヤーは自分の人生(ドライヤー生と言うべきか)をどう捉えているのだろうか?
ここからは、ドライヤーに感情があるものとして読んでいただきたい。
一応断っておくと、私は妖精ではないので動物や物を擬人化するのが常ではない。また、妖精の定義が「動物や物を擬人化すること」で正しいのかも分からない。勝手なイメージである。
私がドライヤーについて考え始めたきっかけがある。私は最近よく近所の銭湯に行く。サウナがあるからだ。私は密かにサウナーをさせてもらっている。勝手に名乗っているだけで、要はサウナが好きでよく行っているというだけである。密かにする必要もなければ、あえて公言する必要もない。もっと言えば、私がサウナ好きという情報も今は全く必要ない。話しが逸れてしまうので、サウナについてはまたの機会に書こうと思う。
私がよく行く銭湯では、ドライヤーがよく壊れている。故障中という紙が貼られていることもあれば、何も書いていないが使えないこともある。次に行った時には新しいドライヤーになっていたりする。銭湯など施設のドライヤーは常に稼働しているように思う。私が入るのは女湯なので、余計に1人当たりの使用時間が長いのかもしれない。あれだけ休みなく働いていたら、寿命も短くなるのは当然なのだろう。
ドライヤーにとって「銭湯」はブラック企業であることは間違いない。一般家庭のドライヤーと比較して休息時間が圧倒的に少ない。いつも決まった家族が使うわけではないので、"変な人"の相手をしなきゃいけないこともあるだろう。そうでなくても、毎回のように初対面の人の相手をするのは、社交的なドライヤーでなければ地獄だ。
ドライヤーの就職先は銭湯や家庭だけではない。家電量販店もある。いずれどこかの「家庭」で働くため面接待ちをしているドライヤーではなく、ディスプレイされているドライヤーだ。彼らは自身の特性をアピールして、こちらの購買意欲を高めなければならない。商品の広告塔となる「モデル」というべき職である。ただ、髪を乾かすというドライヤーとしての機能を果たすことはまずない。
機能は備わっているのに、その機能を果たせないことに関してはどのように感じているのか。広告塔として、自身の頑張りが売り上げの向上につながることを誇りに感じていることを願うばかりである。
ドライヤーにとっての幸せとは何か。
それぞれ、不満もありながら誇りを持って寿命を全うしていることだろう。
ドライヤーだけではない、全ての物、人間にもそうだと思う。
身の回りの物、人、そして自分をぜひ大切にしてください。
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