【勝手に議論】高野洸くんが帝劇初出演初主演になったわけ【体験型の演技って?】
先日、舞台「キングダム」の大千穐楽レポを本noteに書いたのですが、そのことについて演劇経験者(学校にも行っていた)の友達と勝手に議論をしていたのですが、そこで面白いお話を聞けたので、前回の記事の根拠の補足として新たに記事を立ち上げます。
補足ですが、補足そのものが一つの記事が丸々完成してしまうレベルのボリュームのため、別記事として書きます。
前回も言いましたが、友達も含めて推しではないので言いたい放題言いまくれるのが気持ちいいだけでやってます。あとは単純に面白い内容だったので。
関係ない話ですけど、高野くんのこのジャケット写真は六本木のクラブ、オクタゴンの男子トイレの前で撮られたものです。映えるのはわかるけど、何を言おうがクラブの男子便所の前です。
※右側のエリアに入ると男子トイレです
ちなみにミュージックヴィデオもオクタゴンで撮影されています(笑)クラブ界隈でネタにしてしまいました。よく見た風景だよ(笑)
あ、前回記事はこちらになります。高野くん本体の概要はこちらの方が詳しいです。
前回同様に推しではないため、言いたい放題言いまくるので高野くんのガチ勢は自己責任で気を付けてください。
※前回記事のせいか高野くんファンの友達に布教されています、意味不明
本記事では、演技のスタンスを考察しながら「なぜ彼は帝国劇場で初出演初主演に選ばれたのか」の真の理由を考えていきたいと思います。
1.はじめに—実はスタンスが真逆な二枚看板
この補足をするに至ったきっかけが、舞台「キングダム」で主人公の信役を務めた三浦宏規くんが表紙の「えんぶ2023年6月号」という演劇系雑誌を読んだことにあります。
前回の記事の通り、二枚看板の一人、高野くんの役作りスタンスは「なるべく自分を消したい」です。
これは、彼がヒプノシスマイクで同じ役を務める木村昴さんとの対談で判明しております。
なるほど、与えられた役に対して「俺」ではなく、ヒプノシスマイクなら「山田一郎」のことを自分ごとのように考えるということでしょうか。記事にはアニメ・ラジオドラマ版の木村昴さん(こちらがオリジナルです)の声に近づけたりとかしていたということが書かれています。
それでは、三浦くんの方はどうでしょうか。「えんぶ2023年6月号」でのインタヴューで『千秋も信も大人気作品のキャラクターですが、そういう既にイメージがある役柄を演じる時には、どう取り組むのですか?』という質問に下記のように答えています。
おお!高野くんの「なるべく自分を消したい」に対して三浦くんは「俺的解釈」をガンガン入れていく感じなんですね。同じ役を演じる二枚看板でもこんなにスタンスが異なるとは、実際に舞台を見た時に印象が異なるのも納得です。普通に面白いです。
どうやら三浦くんは「舞台で演じるならどう解釈するか?」「舞台上でこの役をやる俺の信をどう見せるか?」というスタンスで挑んでいるようです。
だから三浦くんの信は原作やアニメを重視するとちょっと違う新しい「信」という感じなんですね。ちなみに実写映画版の山崎賢人くんとも近いようで何だか違う印象を持ちました。
じゃあ、本記事のメインの高野くんに戻すと、「なるべく自分を消したい」というキーワードのように、ヒプノシスマイクの本物でオリジナルである木村昴さんにも「まるで俺みたい」という趣旨のコメントを言われるくらい絶賛されています。そんなに似ているのはなんかすごい。また、ヒプマイのファンにも同様のことを言われていたようです。
確かに、どちらが原作やアニメに近いか、と言われたら個人的には高野くんの信の方が「そこに信がいる!!!」と感じたので彼の方が信としての再現度は高いです。ちょっと後ろ目の席で双眼鏡を外して見るとそれをダイレクトに感じます。
2.「それって憑依型ってやつじゃないの?」~演技には二通りの表現方法がある
二枚看板のスタンスの差を友達に話したところ、「それは説明型と憑依型の演技の差だね」と言いました。それってなんだ?
友達の考察、私の印象も含めて、この二枚看板をそれぞれ分類すると、説明型は三浦くん、憑依型が高野くんになります。
記事のキーマンは後者なので、先に三浦くんが当てはまるという「説明型の演技」について軽く掘り下げてみましょう。
説明型の演技、それは日本の演劇界では主流のやり方
説明型の演技ってなんだ?と調べると、演技のコーチングを行う人達や演劇関係者のコラム等が結構でてきます。
ちょっとそのまま引用してみてみましょう。
なるほど。すげーボロクソに言いますね。引用したことを後悔しました。。。
確かに三浦くんの信ってとても表情豊かですし、高野くんの信に比べると身振り手振り、動きも少し大げさな気がします。私個人的にはこれが彼の舞台巧者な部分の一つかなと思いますし、舞台映えする一つなのかと考えますが。見る人が見ると「学芸会っぽい」とか「うそ臭い」の原因になるのでしょうか?現実だとしても書いていてしんどいです。こちらにも良いところがあるはず…!
※三浦くんのファンよ、まじでごめんよ。有識者に言われるのは結構くるネ。。。
もう少し説明型についてメリットもデメリットもちゃんと見ていきたいと思います。わかりやすくメリットデメリットを書いている記事を見つけました。※これも全部読むと説明型がボロカスに言われています。もう少しマイルドな論調のものはないのか…
上記の記事には、説明型のメリットが以下のように列挙されています。
「何度でも同じ演技が出来る」「動きが大きいので大きい舞台ではとにかく映える」辺りは本当にメリットだなと感じます。
こうして見ると、確かに三浦くんのパフォーマンスは安定していて同じクオリティで安心感を持って私たち客に届けてくれます。いつものあの味です。ラーメン二郎歌舞伎町店も見習えよ、三浦くんをよ。
そして、彼が帝国劇場のような大箱ですごく魅力的に映る理由も分かります。結構技術で勝負っていうタイプですね。バレエもやっていたので動きも滑らかでそこはかとなく品性を感じるのも帝国劇場のお上品な感じに似合うと思います(キングダムの信は品は問われないですが)。
そのせいか「三浦くんの信になぜか吸い込まれ没入感を覚える」という感覚は確かにあるかも!
また、「演出がつけやすい」というのも器用な三浦くんらしい特徴だとも思います。絶え間なく舞台に出る彼にはおそらく終わった舞台の役を引きずっている暇はないでしょう。新しい自分になるためにも、彼の仕事スタイルとしては理に適っているのかと思います。
※彼はキングダムが終わった後には6月末には自身のライブショー、吉本芸人シソンヌとの舞台、御園座での「千と千尋の神隠し」、10月には「のだめカンタービレ」が控えています
では、デメリットも(ボロクソにこき下ろされているのに?)見ていきましょう。
これらを雑にまとめると、わかりやすくて舞台映えすることが出来るが、ソウル(魂)がいまいち足りないという感じでしょうか。しかも同記事内には、「ある程度高い技術がないと、観ていられない演技になる。」と記載もあり、かなりの練度が要求されるものなんですね。
ちなみにこの説明型の演技が日本演劇界の主流になっており、十中八九の俳優さんがこのタイプだそうです。ボロクソ言われている割にはむしろ王道のようです。
友達曰く、アニメの声優さんをはじめ、この説明型の演技も巧みな人がやるとそれは座席から立ち上がれないような感動を生むことも少なくなく、次に紹介する憑依型の演技の人も多少は説明型の演技を取り入れることが重要で、善悪二元論のようには簡単には語れない、とのことです。
実はハリウッドで主流な憑依型の演技
説明型の演技に対して、憑依型の演技は演技指導の世界では、体験型の演技と呼ばれています。先ほどのリンクのコラムをまた引用して見てみましょう。
説明型の演技も究極の形は歌舞伎と記載があったようにこちらもやはりそんなすぐにホイホイとは極められないのは同じです。
ただ、説明型の演技が入口での習得は比較的容易に対してこちらの体験型の演技は入口の習得が困難なようです。
「役として生きる」演技、スタンスとしては確かに「自分を消したい」と思う高野くんのポリシーに近いものを感じます。
じゃあ軽くメリットとデメリットも見てみます。まずはメリットから。
説明型の演技もそうですが、これはもう感覚や精神論になってしまうので捉え方は人によって異なるとはいえ、確かに高野くんの信の方が「舞台上で俳優さんが役で生きている」という感じは強いです。
前回の記事では、「アニメから飛び出てきたみたいな」と表現しました。
彼のルックスが信に似ているとかそういうこととはまた別です。
やはり現にアニメや原作に似たルックスの人をかき集めるのが上手い、ミュージカル「テニスの王子様」シリーズではそれを感じることは滅多にありません。これが初めてですみたいなホヤホヤな人材を起用するため入口が取っ付きやすい説明型の演技で指導している可能性が非常に高いかつスキルが未熟なためです。
とにもかくにも日本ではレアキャラなタイプのようです。
次にデメリットも見ていきます。
代償でかくないですか…。どうしてこうなってしまうのかは後に考察しておくとして、「役作りに時間がかかる」という点は、確かに言われてみるとそうかもしれません。ファンではないためそんなに見てはいないのですが、高野くんの信は、確かに時間が経つにつれ役の深度というか、役が乗り移っている感じが変わっていっているように感じました。
見るたびに確かに不安定で、同じことが出来んのかいなとも思わなくはないです。最初から一定水準のクオリティを担保している三浦くんとは確かに大違いです。
この辺りも含めもっと掘り下げていくので全体のざっとした紹介はいったん区切っていきます。指導層や経験者にはこの体験型の方が推奨されているのはソースを見ると嫌でも感じます。
言われてみると、多少下手であっても、未完成でも精神世界というか魂というか気持ちというか、そういう部分にグッとくるのは高野くんの方が優れています。私たちの見解ではね。
3.ただのシンデレラボーイなのか?
前記事にも書きました通り、この舞台「キングダム」で高野洸くんは自身のキャリアで初めての帝国劇場に出ることとなりました。
彼は主人公の信を演じるわけですから主演でもあります。
この状況はあの舞台「千と千尋の神隠し」の橋本環奈ちゃんと同じ状況です。
信として三浦宏規くんと二枚看板を務め、準主役というかもう一人の主人公ともいえる嬴政を小関裕太くんと牧島輝くんが演じていました。
前記事でそこそこ語ったのでぶっちゃけると、イチ市民の意見としては、「三浦くんは何回か帝劇に出ていたし、わからんでもない。でお前はなに…?」という感じです。
そもそも彼のキャリアとして、帝劇初出演初主演の割には、日生劇場やシアタークリエ等で行われている本流の舞台に出ていたこともなく、劇団四季の出身というわけでも音大や芸大できちんと勉強してきたというわけでもありません。唯一のひいき目で見ても天てれ出身の子役、くらいでしょうか。
深夜ドラマや配信系ドラマ、あとは「ミュージカル刀剣乱舞」や「舞台ヒプノシスマイク」とかに出ていたとかの結構典型的な2.5次元俳優です。
正直言ってキャリア的にはそんなに実力派とも思えません、むしろ普通に三浦くんの方が経験値的に実力派枠ではないでしょうか。
高野くんのキャリアはこちらを参考にしてみてください
さらに、橋本環奈ちゃんやジャニーズの面々のように圧倒的な知名度もあるわけではないです。帝国劇場で舞台を見るような中高年にとっては本当に「誰だよお前」って感じだと思います。この手の中高年的には三浦くんの方が有名のような…。
キングダムだし、信だし、結構アクションが多いので動ける枠で採用されたのか…とも思いますが、ジャニーズの子だって動ける子は絶対いるはずです。
アクションの期待値は高そう。納得です。でも三浦くんも同じくらい動けそうです。
うーん。経験値もない、圧倒的知名度もない、となると二枚看板として三浦くんと差別化をはかるという視点、そのポジションでいる意味、採用された理由はもう演技力とビジュアルくらいしか思いつきません。
お、なんか本体の見た目と原作絵の見た目、いい感じじゃん!
でも理由としてはイマイチパンチが弱い…。それならテニミュみたいにちょっと大きめの2.5次元舞台に特化した会場でやればいい。わざわざ帝劇で、しかも博多座や梅田芸術劇場とか地域一番の大劇場を使わんでもいいような気がします。
ファンはきっと喜んだに違いない一方で、一般市民には一抹の不安どころか百抹の不安レベルの彼ですが、前記事にも書いた通り、こういう初めてですみたいなツラして出てくる知名度も経験値もないやつ、大抵無名のゴリラかダークホースであることが多いです。
となると、ミュージカルではないわけですから、もう演技しかなくなってきます。発表された当時は、ヒプノシスマイクの山田一郎と刀剣乱舞の弟者、明日カノのホストくんくらいしか知りませんでしたので、正直演技力も「???????????」といった印象です。見るまでマジで意味不明でした。池袋のフリースタイルラッパーが日比谷で何をするんだ?と。
もうこうなると演技しかパンチがあるものはなくなってきます。
4.粗削りでも気合とソウルで勝負ー高野くんが体験型の演技だと思うワケ
ここから一気にメインディッシュに入っていきます。そう、なぜ我々イチ客どもがこう思うのかの理由に入っていきます。
これはあくまでも個人の考察ですから、「いや、そうじゃない」という意見も歓迎です。
前章では、高野くんのキャリアをそこそこボロクソに言ったのですが、実際に初日に帝国劇場に立った姿を見て「なんかめっちゃ上手いってわけではないけど、役として生きるタイプなのね」と思い、「信としてそこにいる」と感じました。これ、評判高くなりそうな方のアレだ…。
その役を自分のようにとらえて自分ごとのように考える
体験型の演技は、「役として生きる演技」で台本に書かれた世界観や状況を現実感を持って感じてまるで自分のように生きて演じるやり方です。
キングダム関係の取材において高野くんは、信のことをまるで自分ごとのように捉えているような発言をすることがあります。
役作りの方法はわかりませんが、節々に体験型の演技スタイルを貫く姿勢が見て取れます。いい例が下記のコメントです。
こういったコメントは彼の上位互換的な存在である上白石萌音ちゃんもする傾向にあります。
また会えるのが嬉しい、とかあんまり使わなくないですか?環奈ちゃんは使わなさそう。
もっと細かく見るとキングダム展での取材もいい例です。
そんなことある?まあ、話を4分の1に削っても半日は引きずっています。彼はこういったところから入っていっちゃうタイプなのでしょうか。
これは2.5次元俳優らしいコメントと捉えるのか、役としてのめりこんでしまうと捉えるのか人によって分かれるのでしょうが、彼が信の気持ちを自分の精神とリンクさせているいい例だと私は思います。
その役の気持ちやシチュエーションと自分の経験をリンクさせる
役の気持ちやシチュエーションと自分の経験をリンクさせて演技の深みとリアリティを追求するやり方をメソッド演技と呼ぶそうです。
まあ、例のごとくよくわかんないので有識者の解説を見ていきましょう。
上記のように場合によっては自分にとってつらい経験もほじくって役作りをするワケですから、体験型演技のデメリットでもある、精神的に病んでしまうという点もうなずけます。現にこの方法を使いすぎてしまったために、マリリン・モンローは自死した、という説があるほどです。
高野くんはなんというか、こちらの手法をメインに行っているような気がします。
単純な感情表現では終わらない
もし、メソッド演技のような方法で彼が役作りをしていた場合、感情表現ってとても複雑でわかりづらいようになっていると思います。だから彼の信は直情的な役のくせに表情が分かりにくい、変わりにくいような気がします。
ただ、それがセリフになって出てきたときに最大瞬間風速で我々に突き刺さります。
では、一例をあげて見てみたいと思います
※これもイチ個人の感想ですのでご注意くださいね
物語冒頭、おバカで直情的な信に対して、賢くて明るい漂という下僕仲間の少年が昌文君から宮仕えのスカウトを受けるシーンがあります。実は漂が後の始皇帝の嬴政とそっくりさんであったために、宮仕えではなく「影武者」としてスカウトされます。
下僕として泥水すすって生きている漂には影武者スカウトであろうが千載一隅のチャンスです。
そのスカウト話を信はこっそり外で窓から覗き見ます。
まさにそのシーンの覗き見する信の表情です。
個人的にこのシーンがお気に入りで、特に三浦くんの信が漂のスカウト話を聞いて嬉しそうにしたり、驚いたりしたりしているのがかわいらしくて微笑ましくて大好きなシーンです。
一方で、高野くんの信は心ここにあらずのような不思議な表情をしています。怪訝そうというか、本当に表情があまり動かなくてわかりづらいのです。私もそれを最初に見た時に、「なんでこんなボケっとしてるんだろう、この信」と思ってしまいました。
しかし、彼はこのスタイルを結局最後の最後まで変えることは無く貫きます。それもそうなのです。原作漫画を見ても、アニメを見てもそんなに信はあからさまに嬉しそうにしたりはせず、怪訝そうで何かを抑えているような表情で、あまり顔の動きがありません。だからあながち間違ってもいないのです。
それはなぜかというと、高野くんはこの時の信が、嬉しいものだし、驚くべきことではあるけど、一概にもそれだけの感情では語れないことを知っているからです。確かに親友の立身出世のチャンスは喜ばしいものではあるけど、取り残される自分とのギャップを考えると、寂しさや自分の環境や実力に対する苛立ちなども孕んでいるのであると。
それは、彼がこの時の信と似たような状況になって似たような感情を抱いていることを信との対話、役作りで彼と向き合うことでほじくり出して体験している可能性が非常に高いです。
例えば、下記のようなシチュエーションとか。
このインタヴューでは語られない、プラスとは言えない感情を抱いていた場合、それを信のこの状況とリンクさせたとき、それは恐ろしいほどの威力を次につながるセリフに持たせることが出来ます。
そして事実、彼のこのセリフは上手い下手とは別次元で何か魔力を持っています。
「なんですぐに引き受けなかった。下僕のガキが王宮で仕官なんて普通ありえねえ話だ!」
体験型の演技スタイルは色んな感情をはらんだ複雑な表現を行うには適しているように思います。人間そんなにテンプレ通りには思わないし、動かないということです。
そして、このセリフも突き刺さるものがあります。
「追いついてやらぁ!」
大器晩成型の役作りスタイル
体験型の演技スタイルは、役作りに時間がかかることがデメリットとして挙げられています。
そう言えば、高野くんファンの友達が「うちのってさ~、大楽あたりになるとめっちゃよくなるんだよね~」と言っていたのを思い出しました。
※ファンの皆様、これ本当なんですか?
他の作品のコンディションとかは知りませんが、キングダムの場合で言うなら彼はツアー最後の方の博多札幌で本気を出しまくります。特に札幌。
公演期間は、博多座は4月、札幌は5月上旬です。帝国劇場での公演が2月初旬、稽古は12月から始まっていたと考えるとかなり完成に至るまでが遅すぎます。初日からある程度の完成度があった三浦くんの信とは真逆です。博多座で本気が出たと考えても5か月もかかっているということになります。
ツアー最後の札幌公演では、完全に「舞台上で高野洸が信として生きている、世界を生きている」というほどの姿を見せます。
それはただの客の自分ですら舞台袖から出てきた瞬間に分かるものでした。そのことについては、前回記事の方が詳しいですが、もう自分がないので、原作愛から来る「俺的解釈」が強い牧島輝くんの嬴政が輝き、信を立てるヒーローになったほどです。さらに誰かを引き立ててばかりの小関くんの嬴政も輝きだします。
友人曰く、いい意味で「自分がない」ので変に相手の芝居と個性のバトルをしないのと、相手の芝居で反応出来るのでこれが出来るのだ、と。
どうしても輝くことを求められる、ヒーローになろうとする「俺的解釈」が入りがちな主演ですが、彼には「俺的解釈」がないのでなぜか重要な脇役が引き立つという事象になっていると思います。
前回の記事でも脇役を引き立たす主役はチート級と表現しましたが、それは大元は体験型演技であるからだと繋がります。
そして、体験型演技は日本では少数派のため余計にチートのように見えます。
特に2.5次元俳優ではほとんど居ないのではないでしょうか。
というか、本当に他の作品でも似たような傾向が頻出している場合、高野くんはおそらくこの体験型の可能性がますます高まります。
前回記事で「最初からこれやれや」って言ったのですが、ほぼ確実に無理だと思います。未完成だから(笑)
お前がその役を見ているとき、その役もお前を見ている
体験型の俳優は、その役と向き合いすぎてしまい、その役に心を食われる。そんなことがあるそうです。
高野くんは、実際に信に引き摺られてしまっているような行動を取ることがあり、それは殆どの場合において二度と出てこない動きになります。
例えば、山の民と楊端和を説得するシーンで信が訴えかけた後に狼狽える時があるのですが、ある日の公演でその時に狼狽えるを通り越してキョドりだして客席もから笑いが起こり、演者も一部笑いを堪えているという事態がありました。嬴政の牧島くんは「いつ『狼狽えるな、信』って言おうかな~(笑)」とタイミングを見計らっているように見受けられました。
※確か5/7の昼公演な気がします
このシーンは特別笑いが出るようなシーンではありませんし、彼が毎回こういうことを起こしているわけではないです。実際に安定性のある三浦くんが同じシーンを行っても類似の現象がないのです。
この現象も案の定、もう二度と出ることはありませんでした。
しかし、あまりにも役に引き摺りこまれすぎるとかなり精神を消耗しそうですね。大楽あたりになるとめっちゃよくなる現象も精神の消耗を抑えて、最後に爆発させている可能性もなくはなさそう。
実際に役に引き摺りこまれて命を絶つ俳優がいます。
例えば、2008年の『ダークナイト』というDC映画があるのですが、最凶最悪のヴィランにしてバットマンの宿敵、ジョーカーを演じたヒース・レジャーは、あまりにも役作りにのめり込みすぎて、前代ジョーカー役のジャック・ニコルソンに「役の底をのぞき込みすぎるな」と忠告されます。それくらいに役作りに励むわけですが、やはり彼のジョーカーは歴代ジョーカーの中でもかなり評判がいいのです。
ただ、『ダークナイト』の撮影が終わった後、オーバードーズで亡くなってしまいます。
信はあまりそういうことはないとは思いますが、嬴政を彼がやったら相当精神消耗激しそうですね。嬴政には趙に人質にされていた時に母親の太后からネグレクトを受け、舞台をご覧の通り周囲の人々からも虐げられている過去もあります。舞台の話より先にはなりますが、太后は政敵の呂不韋と愛人関係を続けている、別の男と肉体関係を持ち二人も子供を作ってしまう等エグい設定になっております。アニメだと第4シーズンにあたる部分ですが、信でもいいですが、この部分の嬴政をやってみたら別の凄みがありそうです。
とにもかくにも、ある意味2.5次元舞台に一番適したタイプですね。
身近に教材がいないよ
友達は、「高野くんって2.5次元ばっかよね、多分2.5次元の稽古や演技指導では、体験型の演技指導されないだろうし、身近に教材になる先輩もいないと思うのだが」と言います。
この世界に来たばっかりの若い兄ちゃんでそんなに憑依タイプもいなさそうだし、先輩俳優も特別憑依型というような俳優が見当たらないとのことです。
確かにそれはそうです。現にキングダムでも体験型の俳優さんだなと思うのは、華優希さんくらいでしょうか。王騎将軍の山口祐一郎さんは説明型の演技のめっちゃ上手い人です。もうあっぱれレベル。
私も舞台にも出て、体験型かも?という俳優さんは、大竹しのぶさん、佐々木蔵之介さんくらいしかまだ見たことありません。
演出家だと2022年に東京芸術劇場で公開されていた『守銭奴』『スカーレット・プリンセス』の演出をしていた、シルヴィウ・プルカレーテさんとか、ナチュラルな演技を重視する平田オリザさんとかでしょうか。
特に大竹しのぶさんは歌も非常に上手いので彼女の全ての真髄が見れる『ピアフ』に出て演技も歌も扱かれたらめちゃくちゃ化けそうですね。
説明型の演技で進めてくるだろう2.5次元の世界において、どうやってこのスタイルになったのかめちゃくちゃ気になる。彼のようなタイプは2.5次元舞台の世界においては演技指導や演出家泣かせのような気がしますし。
生きた教材に出会ったら相当なスキルアップになりそうです。
5.映えないヒーロー(結論)
身振り手振りも大げさでなければ、表情も分かりづらい、しかも「自分がない」…。ドラマや映画のようにズームアップやフェードアウトがない舞台だと本当に映えない男だと思います。特に帝国劇場のような大箱ではすごくわかりづらいと思います。2階席から見たら「なんだこれ?」と思われてもおかしくないでしょう。
ただ、彼は「自分映え」を犠牲にしてでも世界観や役を見せることに重視しているのではないかと思います。
説明型と体験型の演技はどちらがいいか、という優劣はないのですが、やはりそれでも有識者や経験者には高野くんのような体験型が評価され重視される傾向にあるようです。※歌舞伎は別です
それは役者の真髄であり、本当の仕事を体現しているのですから。
友達も説明型と体験型の演技についてこういう評価をしています。
「同じ表現力の説明型と体験型がいた場合、やはり評価されやすいのは体験型の演技の人なんだよね。というか、体験型の人が表現力が劣っていても、下手でも評価は説明型の人より高くなりやすいの。相手の芝居を受けてテンプレ通りに動かないし、その役が乗り移ってリアルな世界を生きているように見えるんだもの。あと、説明型の人は一定になりやすくて心に響かないこと多い、これが一番の不利要素。空気感に敏感な人や、目の肥えた人にとっては体験型の方が響きやすいんだよね。こういうヤツも響かせたときに『してやった』と思える、役者の真髄ってヤツ。」
つまり、他ファンの私、ただの客の私(キングダムは29回観たのでキモ客)ですらも高野くんの信に心を引っ張られたのもこういうことなのかもしれませんね。
めちゃくちゃ長くなってしまいましたが、とどのつまり我々は「高野洸くんが帝劇初出演初主演に抜擢された理由」をこう結論付けました。
①舞台上にその役として生きる体験型の演技が出来るから(2.5次元舞台に最も向いたタイプだから)
②スタイルが異なる三浦くんのメンツを個性やメンツみたいなものを潰さず差別化させて二枚看板として存在することが出来るから
(高野くんが三浦くんより説明型の演技が上手いパターンが最悪です)
③体験型の演技が出来る人がそもそも日本では珍しいから
④この要素にアクションが出来る等の基準をクリアしているのが彼しかいなかった
彼には説明型が優勢と言われている日本演劇界の風潮に負けずにこのスタイルを貫いてどこかでいい教材や演出家に巡り合ってレベルアップして名優の域になってほしいものです。推しじゃないけどさ。
キングダムの大千穐楽レポがきっかけで、高野くんのおかげで1つどころか100詳しくなってしまいました。舞台の観方が変わるなあと思いました。
分析と根拠づけと…としていたら、肝心の大千穐楽レポよりも長くなってしまいましたが、ここでおしまいにしたいと思います。
というか、高野くんのファンは(類似の俳優さんのファンは)、体験型演技の推しを多ステして見ているのはめっちゃ楽しいと思いますよ。推しの顔面もさることながら、演技の変わりよう、役が徐々に乗り移っていって深くなる様を見届けて、ケツの方でなぜか異様な爆発力を発揮しているのを見るというのは…。単純に面白いと思いますよ。
高野洸くんですが、こんなイベントもしています。
調べていたら出てきたクソ謎い水水水菜を添えて最後にします(笑)
なにこいつ!?
ばいちゃ!