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彼女との付き合いは3年ほど経っただろうか。
付き合いといっても、いまだに僕たちの関係に明確な名前はない。
いや、割り切っていえば「セフレ」にしかならないのだろうが、僕はそれを頑なに認めない。例え彼女の都合に合わせて呼び出されるだけの、便利な男だったとしても。
彼女との出会いは5年前の春。
入社初日のエレベーターホールで、絵に描いたようなキャリアウーマンがすっと立っていた。それが茜さん。
当時の僕はまだ社会人としての自覚が何一つ備わっておらず、どこか学生気分が抜けきっていないふわふわした社会人1年生だったから、こんな大きな会社で働いている人はやっぱりビシッとしているんだなぁと呑気に感動していた。
特にやりたいこともなくになんとなく大学へ進学することにしていた僕は、潰しが効くからという教師からのアドバイス通り経済学部を選んだ。
特定の何かや誰かにのめり込むこともなくのらりくらりと大学生活を謳歌していたので、当然4年間のうちに就きたい仕事などが決まるわけもなく、記念受験の感覚でCMや街中でよく目にする大手商社を受けてみたらあっさり受かってしまい、4社もらった内定先のうち一番ネームバリューがあるという理由だけでこの会社を選んだ。
グループ面接で一緒になったのは、在学中に海外ボランティアだの起業だのを経験したバイタリティ溢れる人たちばかりだったから、なぜ明確なビジョンも輝かしい功績もない自分が選ばれたのかは今になってもよくわからない。
そんな会社で半年の研修期間を終えていざ配属発表となったとき、手渡された白い封筒を丁寧に開けると「マーケティング一課」と書かれていた。先輩社員さんたちが持ち回りで連れ出してくれる縦割りランチのときにも散々耳にしたが、ここは全社員が憧れる花形部署でありエリート集団のはずだ。社内の異動希望もまず通らないと、ある先輩は嘆いていた。なんでも新卒で採る1人を毎年丁寧に育て上げ、課で貢献できるようにするのはもちろんのこと別部署のリーダーを張れるようにしていくという幹部育成の側面も担っているのだという。他に適任者いなかったのかなぁと呑気に構えながら、両サイドで「うわっマケイチ!?」と声を上げる同期たちに無言で笑顔だけ向けて席を立つ。
研修室の外に迎えに来てくれているという先輩を探そうと目をやると、あの日のキャリアウーマンが背筋を伸ばして立っていた。雰囲気だけで、あの人がマケイチの先輩だとわかる。凛としているのに近寄りがたいような硬質な空気がないのが茜さんのすごいところだ。
「よろしくね、黒川くん」と挨拶もそこそこに、移動しながら軽く自己紹介と課の説明を受ける。
茜さんも新卒でマケイチに配属されたそうで、今は副課長にまでのし上がったという正真正銘のキャリアウーマンだった。マケイチは男性社員が多いものの、5年に一度ほど女性が配属されることもあるらしい。ただ、いまは15人いる中で茜さんと僕の3つ上にあたる豊さんしか女性社員はいないらしい。
「よく仕事キツいとか、結婚できなくなるから」って言うの聞くんだけどね。わからないのよ、その感覚。こんなに楽しい仕事ないのになー」その言葉通り、茜さんは本当に活き活きと楽しそうに仕事をする人だった。いわゆるゴキゲンってやつだ。クライアントへの提案も、社内での企画会議も、急なトラブルにすら嬉々として対応する。とんでもないバイタリティの持ち主だと思っていた。
それでも、そんな茜さんだってサイボーグではない。心がないわけでもないし、感情が一定なわけでもない。
入社して2年経ち先輩の手も離れて独り立ちできたころ、部署内で企画コンペがあった。企画立案者の名前は伏せられ、ブラックボックスに入れられた資料を読み込んだ課長が全く同じ熱量でプレゼンをする。それを全員が無記名で投票し、一番得票数の多かった企画が採用されたものは立案者がリーダーとなり案件を取り仕切るというものだ。
提出は自由だったが、企画数が課長を除く全員数だったのでやはりこの課は全体的にモチベーションが高いと思う。
接戦を制し、わずか一票差で選ばれたのは豊さんの企画だった。2位の企画に投票していた僕はあの企画が流れてしまうのはもったいないなぁと思いながら、ご指名をいただきプロジェクトチームに加わった。茜さんも一緒だった。
「めちゃくちゃいい企画だよね、これは絶対当たる!」とゴキゲンに打ち合わせを終えて、いつも通り「じゃ!」と元気よく定時に帰って行った。
はずだった。
15分遅れて会社を出た僕は、いつも通り抜け道として使っている裏口のすぐ横にある公園を突っ切ろうとした。すると見覚えのあるパリっとしたスーツが、見たこともない姿勢の悪さで身を屈めている。
近付くべきか躊躇した結果何事もなかったかのように足早に通り過ぎようと決めて進んだが、すんっと鼻を啜る音が背中越しにかすかに聞こえてもうだめだった。
不定期にやってくると社内でも話題のオレンジ色のコーヒースタンドでホットコーヒーとカフェラテを買い、こぼれないようにそおっと運ぶ。
少し離れて腰掛け、間にとんっと2杯を置いた。どちらでも取りやすいように縦に並べて。
するとその音と香りにびくっとした茜さんがはっと顔を上げた。やっぱり目が少し赤い。いつも丁寧に伸びているまつ毛も、2.3本ズレている。
「クロか…やだな、変なとこ見られちゃったね」と力なく笑う。こんなときに笑う必要なんてないのに。
黒と白、どっちがいいですか?と聞くとキョトンとした顔をした。鼻先も赤くなっていて、失礼だけれどちょっと間抜けな感じが否めない。いままで茜さんにそんなこと思ったことないのに。
コーヒー、ブラックとラテどっちが好きですか?と聞くと、少し間を空けてこう答えた。
「黒、かな。黒すき」
その時、僕の心がころんと音を立てた。
普段見ることのない茜さんの弱った姿がなんだか可愛らしかったのと、赤い鼻っぱしと「くろ好き」が僕の愛称・クロと重なって聞こえてしまったという、なんともありきたりな理由ではあるが、僕のような単純な男が恋に落ちるには十分すぎる。
その音が聞こえたのと同時かすぐ後か、言葉よりも先に手が伸びたのは初めてだった。衝動的、という言葉を具体的に表すとしたらこんなシチュエーションだと説明したい。
気が付いたら抱きしめていたし、茜さんは僕の腕の中で「えークロどうしたのー」と言いながら声を震わせる。
伝われ、伝われ。そう想いだけを込めて、黙って抱きしめる。
泣いていい。茜さんらしくいて。隠さないで。
いつものゴキゲンでかっこいい姿だけじゃなくて、泣いたり照れたり、怒ったっていい。
あなたの価値はそんな程度のことで下がったりしない。
仮面に隠れないで。自分を誤魔化さないで。
気が済むまで泣いたのか目と鼻を真っ赤にしながらも清々しい顔付きになった茜さんに「気晴らしに一杯付き合ってよ」と誘われるまま飲みに行き、弱っている茜さんと下戸な僕がお互いべろんべろんになって行き着く先はひとつのベッド以外なかった。
お互いに大人で特定のパートナーもいない。後ろめたいことも、遠慮することも、何もない。
茜さんが他人には見せない一面をふいに見つけてしまった僕は、偶然か必然のおかげで茜さんを支える特別な存在になれるのかと思ってそわそわしながらその寝顔を眺めていたのに、低血圧とは無縁そうなくらい寝起きの良い茜さんに「私ね、恋人作るつもりはないの。いい?」と進展が望めないことをきっぱりと伝えられてあえなく玉砕。
告白すらさせてもらえない。ちょっと切ないが、そんなさっぱりしているところも好きなんだから仕方ない。
以来月に1.2度、何の規則性も前触れもなく茜さんが「今日、一杯どう?」と言ってくる日に、決まってひとつのベッドに辿り着くようになった。そんな関係ももうすぐ3年。
思い返してみれば、多分僕はずっと茜さんが好きだったんだと思う。それはずっと憧れの先輩、という対象としてだと考えていたが、どうやらそうではなかったらしい。
配属されてまだ半年も経っていなかった新人時代、企画書1000本ノックの途中でへばりかけて弱音を吐きたくなっていたとき「やってんね〜」とニヤニヤしながら様子を見にきた茜さんが「クロはどうして自分がマケイチに配属されたと思う?」と聞いてきたことがある。
本当にわからかなったのと、疲労による思考停止寸前だった僕はポカンとしてしまった。
すると茜さんはふふっと少し声をあげて笑ったあと、唖然としている僕にもしっかりと入るようにと丁寧に速度を落として話してくれた。
「クロってすごく不思議な存在感があるんだよ。自分が自分がって主張するわけじゃないのに、確かにそこにいるのがわかるし必要な存在なの。クロにしかない絶対的な強みがある。引き立て役っていうのとは違って、ちゃんと個が確立されてるのに周りを活かしながら際立たせられる。そういう能力がある人って稀有だから、ずっと探してたの。で、今年ようやく見つけた。それがクロ。ほら、マーケティング入門の色彩学でも少し勉強したでしょ?黒は収縮色だから周りの色を引き締め際立たせる効果がある。そして光を反射することなくすべての色を吸収・遮断するから、他の色に与える影響が強く、色を組み合わせたときには黒のイメージが上乗せされるって。まさにそういう存在なの。本当に特別だし、素晴らしいからここに来てもらったんだからね。よく覚えておいて?」
あの時、同期たちはみんなそれぞれ同じ部署で支えあったりしているのに、たった1人でもがいて壁にぶつかって孤独感に苛まれていた僕を救ってくれたのは間違いなく茜さんだった。
《強いメッセージを伝えたい場合は黒の背景に赤のメッセージを入れると強烈な印象を残すことができる》とデザイン学の講師が言っていたのは本当なようだ。僕の中に強烈に残っている。茜さんの、真っ赤な美しい唇から紡がれたあの言葉。だからお返しにと言うわけではないけれど、やっぱり茜さんが辛いときには支えてあげたいと思うし、その役目を他の誰かに譲ることなど考えたくもない。
何かや誰かに対して、こんなに強く意志を持ったのは初めてだ。僕の中にもこんな感情があることを、茜さんは教えてくれた。
この曖昧な関係が続いているうちは、茜さんに想い人や特定の相手がいないことを意味している。真面目な茜さんが、どちらにも中途半端なことをするなんてありえないからだ。
今はまだこのままでもいい。
「恋人作るつもりはないの」と言った彼女の気持ちが変わるまで、僕はずっとそばにいるから。
どんな姿も、あなたがあなたであるだけで愛おしい。
僕があなたを際立たせてあげる。
だから代わりに、少しだけでもいい。
僕をあなたの世界に混ぜてくれると嬉しい。