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まぁまぁ、なんですそのお姿は。
私はあなたの笑ったお顔が好きなのですよ。
ふんわりと穏やかに、柔らかに微笑まれるその表情と雰囲気に何度救われたことか。
だからどうかさめざめ泣いたりなどなさらないでください。私は本当に倖せ者だったのです。
いつか時が満ちれば、また必ずお会いできますよ。私たちの出逢いもそうでしたものね。
運命というものがあるのならば、それはあなたと私のことでしょう。
いまに比べて豊かとはとてもいえない戦後復興の真っ只中にあった日本で、あなたと初めてお会いしたのは初夏の頃でした。
親同士が家の繁栄のために決めたお相手ということで、お会いする前から結婚は両家の間で決まっておりました。今でいう「お見合い」でしたね。
写真などもなくてお顔立ちもわからず、どのような人となりの方かも知らされぬまま、口数の多くない両親に連れられてお顔合わせの場に立った日が昨日のことのように思い出されます。
私は下に2人の妹と、家を継ぐ弟が1人おりまして、長子の私の結婚が我が家にとっては初めての慶事でしたので、私よりも両親の方が緊張していたように思います。
私の両親もまたお見合いで一緒になっているので、きっと両親のように多くの会話を必要とせず、好きだとか嫌いだとかという感情ではなくて「家を構成するもの」として、男は働き女は子を産み育て、仲睦まじくというよりは粛々と暮らしていくことになるんだわ、とぼんやりと考えておりました。
いまのお若い方々は好いた方を伴侶として選ばれるのが一般的のようですが、当時は私たちのような家同士の結婚が大多数を占めておりましたね。
昨今はご自身が選んだ方であっても添い遂げることがむづかしく、ご離縁なさる方も増えているのだとか。
それがさみしいことなのかそうでないのかは皆目見当もつきませんが、少なくとも私たちの世代で離縁を選ぶということはありませんでした。
戦争で伴侶を失った方もおられましたが「再婚」という概念もあまり浸透していなかったように思います。
「なかった、というよりも、できなかったという方が正しいのかもしれませんね。
なにせ当人同士のことではなく家と家とのことでしたので、決定権は私どもにはないのです。
2軒隣のお姉さん・千代ちゃんは、帝国海軍に所属する旦那様が終戦後もご帰宅なさらず、戦死広報も届かずじまいで安否がわからないまま「私の旦那様は生涯ただ一人、正さんのみです」と未亡人として3人のお子様を立派に育て上げました。
徴兵検査の結果視力にやや難ありと診断されて現役兵とならなかった親戚の崇兄ちゃんは、終戦間際に赤札が届いて出頭する際に許嫁の八重子さんに会うことのないまま婚姻関係が結ばれたものの、復員し八重子さんが疫病で亡くなってたことを知るや大きく落胆しておられました。ご両親が後妻をと急かすのに耳も貸さず「私の妻は八重子さんであります。一目お会いしたいと恋焦がれたのも彼女だけ、その他の妻など必要ではありません」と頑なに八重子さんの夫としての地位を譲りませんでした。
良いか悪いかはさておき、決まったものを守り抜くという意思が強かった時代です。
そんな方々が身近にいたものですから、私はどのような方がお相手であろうと「妻」として、また「家族」として生きていく覚悟でおりました。
たとえ虐げられようと暴力を振るわれようと、衣食住を確保していただけるだけでも大変有り難いことなのです。
緊張とは少し異なる静かな意志を持ってその場に臨んだ私は、きっと顔がこわばっていたに違いありません。
節目がちにご挨拶をしたあと、顔を上げて一目あなたを拝見したときに、信じられないほどあたたかく穏やかなその雰囲気に呆気にとられてしまいました。勝手に父のような屈強な殿方を想像していたからでしょう。
きりっとした正座のお姿とは対照的に柔らかく微笑み「薫さん、初めまして。心穏(しおん)と申します。心、穏やか、と綴ります。どうぞよろしくお願いいたします」と優雅に座礼するあなたに、はじめての恋をしました。
「あとはお若いおふたりで」と決まり文句を残して両家の両親が退席したあと、少し散歩でもと促してくださったあなたと、お庭を臨みながらお茶をいただきましたね。静かで穏やかな時間を過ごし、時折たわいもない会話をしました。
あなたが点ててくださったお茶をいただきながら、少しずつ互いのことをお話しするのが嬉しく
、そしてなんだか少しこそばゆいような気がしたのを覚えています。
肩身の狭かった本家で、この茶室だけはあなたと私の空間でした。
一人目の子を身籠ったとお知らせしたとき、あなたは泣いて喜んでくださいましたね。
当時には珍しいほど優しいお方で、懐妊中も「薫さんは安静にしていてください」と家事も炊事も率先してお力添えくださいました。
お仕事も大変でお疲れのなか、こんなに大切にされていいのだろうかと少し不安になるほど丁重に扱ってくださいました。
悪阻が落ち着いて体調が安定してきたころ、珍しくあなたが息を弾ませて帰宅されたことがありました。これが2度目の恋です。
「薫さん、聞いてください!今日、お客様からとても素敵な情報を仕入れたのです!
北海道には薫衣草(くんいそう)という、香り豊かで美しい紫に染まる花の畑があるのだそうです。あなたのお名前が使われている花なのです!
優美で見目麗しいあなたにぴったりだ、子が産まれて落ち着いたならぜひ足を運びましょう!」
ですが、その時はなかなか訪れてはくれませんでした。
私は一人目の子を流してしまい、なんとか気を確かにもち二人目を宿しましたが、その子もこの世に生を受けることはありませんでした。
私はもちろん心身ともに傷付きましたが、それ以上に両家の両親が心を痛めて焦っているのを感じていました。
私だけが本家に呼び出されたとき、これは先方から離縁にされても仕方あるまいと覚悟のうえでご自宅に伺うと、そこにはご存知でないはずのあなたがおられました。きっとお付きのキヌさんが話してしまったのですね。
お座敷でご両親とあなたがお話しされているのを、はしたないと思いながら耳をそばだてて聞いてしまいました。
子を産めなければ女に価値がないと言われた時代です。当然ながらご両親は、産めない身体の女ならば話が違う、早いうちに離縁して別の縁談をと仰せです。
涙がぽろりと溢れそうになるのをぐっと堪えて聞き届けていると、聞いたこともないような静かで怒りに満ちた声色のあなたが澱みなく言いました。
「私は薫さんだから妻に迎えたのです。彼女を恋慕うからです。決して女だから、子が産めるから、という失礼極まりない杓子定規ではかったのではありません。私の大切な妻を侮辱するのであれば、いくら父様母様であっても赦すことはできません。そして、彼女を傷付けることもまた、絶対に赦しません。離縁などとんでもないことです。この先何があろうと、私の命が尽きようとも薫さんのおそばを離れることはありません。」
先ほど堪えた涙が、堰を切ったように制御できなくなって膝から崩れ落ちてしまいました。
ともに訪れていたキヌさんに連れられながら茶室に身を隠したのですが、少ししてあなたがやってきました。
少し苦しそうに「聞いてしまいましたか…?」と尋ねます。
こくん、と頷くと、あなたは何も言わずに私を抱き締めてくださいましたね。
ずいぶんとそうしていたのち、あなたはすっくと立ち上がり、姿勢を正して座り直しました。
先ほどのご両親への言葉をなぞるように、穏やかな表情でまっすぐに私を見つめて、はじめてのプロポーズをしてくださいました。
「お体にも御心にも、負担をおかけしてしまいました。申し訳なく思っています。これからも辛いこと、苦労をかけることがあると思います。
けれど、これは私の我儘ですが、あなたを手放すことなどできないのです。
この先何があろうと、私は命尽きたとしても薫さんのおそばを離れることはありません。
あなたを愛しているのです。
どうかこれからも、私と夫婦を続けてていただけないでしょうか。」
3度目の恋は、愛でした。
それからはふたり仲睦まじく、子を持たずに夫婦ふたりで手を取り合って歩んできました。
結婚30周年のお祝いにと、かねてより思いを馳せていた北海道・富良野のラベンダー畑を訪れたとき、あなたとはじめてお会いした初夏の風を思い出しながら30年を振り返り、ふたりでいつまでもお互いを労いましたね。
博識なあなたは、ラベンダーの花言葉も教えてくださいました。
ー「優美」
ー「幸せが来る」
ー「許し合う愛」
目に映る限りのやさしい紫とあなたの笑顔、そして薫る風にとても倖せな気持ちになりました。
いまでも瞼の裏に焼きついて、今見ているかのように鮮やかにそのすべてを思い出すことができます。
「仕合わせ」とはよく言ったもので、やはりあなたとのご縁は私の人生でもっとも幸福な運命だったと胸をはって言えます。私はとても倖せでした。
だからどうか焦らないで、悲しまないで。
あなたが仰ったように、私だって命尽きたとてあなたのおそばを離れることはありません。
残された命をあなたらしく穏やかに生きてから、こちらにいらしてくださいね。
だってほら、あなたが教えてくれたラベンダーの花言葉、もうひとつあったでしょう?
ー「あなたを待っています」