昔読んだ小説を思い出したら、まわりまわって将来老害になるかもって不安になった話 (本文ありえん長い)
先日ショッピングモールに行ったら、一人の男の子が母親と一緒にいたの。
母親は買い物に夢中で、暇をもてあましていた小さな男の子はプラスチックの水色のおもちゃで遊んでいたの。
まさしくその年代の男の子がやるような、ちょっと乱暴に扱って、強く握ったり叩いたりしながらね。
そしたらおもちゃが割れちゃったんですよ。
男の子がね、お母さんの方を向いて「こわれちゃった」って言ったの。そのときね、何か自分の中でひっかかった感覚がしたんですよ。
んで、何でひっかかったんだろうって私も買い物しながらちょっと考えたんです。そしたらね、昔読んだ小説の一片を思い出したの。
小説の本筋の内容とは何の関係もない、本当に本当に葉の部分の話なんだけど、
どうしようもなく忘れさせてくれない話。今回はその話をさせてもらいたいなと。
まあそんなスタートをきったけれど、1回話を変えます。笑
突然だけど、小学生・中学生時代に経験したことはその後の基本的な考え方や人格に強く影響するらしい。
これはよく聞く説の一つだからソースは覚えていないし、真偽のほどもわからない。
でも人格に影響するからこそ道徳教育として私たちはごんぎつねを読まされて号泣したのだと思う。
そうでなければあんな悲しい話を何十年にも渡って教育プログラムに入れてきたやつを私は許さねえ。
(私はごんを想い、おじいさんを恨んで本気で泣いたタイプの子供です。)
んで、なぜこんなふわふわとした話を持ち出したかというと、
私自身が小・中学生のときに読んだ本の内容を大体は覚えているタイプなのですよ。
そして何より、少なからず今の自分に影響しているということを自覚しているのです。
まあ内容を忘れた小説もあるかもしれないけれど、
その場合は忘れたかどうかも覚えていないぐらい忘れているのです。
話を戻す努力をしますね。
なぜこんなにも前置きがくどく・長く書いてしまうのかというと、
今回、話題にしようとしている小説(小説Aとします)の話は、他の覚えている小説とは違って
「小説の内容は忘れたにもかかわらず、ある一部分だけは忘れられない。そして今もなお強い影響を受けている自覚がある」
からなのです。
じゃあ最初から簡潔にそう書けよ、と思うでしょう思うでしょう。
本当にその通りであります。言い訳をさせてもらうなら、どのくらい私が記憶と思考の「脳内の整理整頓超苦手人間」なのかをそのまま表してしまおうということなのです。そして今さら上記の文章を変えるのが超ダルいのです。
話を全部戻し、小説Aの話をします。
小学生のとき私はとにかく小説を読んでいたの。難しいの読んでるね~とか言われる類いのものではなく、恩田陸だとか森絵都だとかそんなところ。かわいいですね。
で、小説Aは、タイトルも著者も覚えていないんだけど、
話の初めは小学生だった主人公が思春期を経て大人になっていく、みたいなよくありがちな内容だったな。だから忘れちゃった。
まあだから、その主人公は私たちの想像できる範囲内の人生を送ってたはずです。
で、肝心の忘れられない部分なんだけど、
主人公の父親が厳格な人であったっていう描写として、主人公が小さい頃一人で留守番をしていたときの話があったの。
主人公は留守番中にガラスのコップを不注意で落として割っちゃうんだ。
それで主人公はやばいなあ、と思いつつも、どうすれば良いのかわからず机の上に置いといたの。
で父親が帰宅するの。
父親は「これどうした?」って主人公に聞くんですよ。
主人公はね、「割れました。」って言ったの。
そしたらね、父親は急に主人公の髪の毛をつかんで、
「おまえがじーっと見ていたら自然とコップが割れたのか?割れたんじゃないだろ、おまえが割ったんだろ。自分の失敗を他になすりつけるような人間になるんじゃねえ!」
と大激怒ですよ。
激怒具合にドン引きですよね。主人公も私もトラウマものですよ。
これが、私が忘れた小説Aの忘れられない部分の全部です。
まあ正直、たいしたことないですよね。もっと理不尽な理由で暴力的に激怒する父親なんて小説や映画では腐るほど見てきたはずだし。
でもたぶん、私が忘れられないのはその父親の言っていることにとても納得したからなんですよね。
だからショッピングモールでの男の子が「こわれちゃった」って言っているのを聞いて何かひっかかったのは、
「こわれちゃった」って言ったら怒られるよ!と、「こわれちゃった」じゃなくね?、って心のどこかで思ったからだと思うんですよ。
つまり、それ悪いことだよ怒られるよ!って感覚と、それはダメだよ!って相手を非難する感覚。
けっこうこれ、自分の中では大事件で。
大事件というのは男の子の言葉の選び方のことではなく、ね。
「こわれちゃった」と「こわしちゃった」を使い分けることは大事であるという自分の意見は変わらないし、そこが本当に全く理解できない人とは友達になれないとも正直思うのですよ。
ちょっと極端なことを言ってしまえば、私は言葉の端々からわかる「罪の意識」に対してシビアな方かもしれないんですよね。
だけどね、相手を不快にさせてしまう可能性を考えるとシビアで良いと思っているし、私のような人もたくさんいるって知ってるし。まあだからこれは置いときましょう。
また話がそれちゃいましたな。
んで、じゃあ大事件って?っていうのは、
「私って、子供の頃に『これはダメなこと』って納得して認知すると、10年経っても自分にも他人にもその判断基準を適応させているんだ」
と気付いたことなんですよ。
何言ってんだこいつって感じしますよね。私もまだよく考えがまとまっていないから上手く言えないんだけど、ちょっと説明頑張るね。
人間いっかい腑に落ちちゃうとなかなか違う考えを受け入れられなくないですか?
納得して「この考え方が正しい」って思う・思い込む年月が長ければ長いほど、変えるのは難しいと思うの。
まあ例えが悪いかもしれないけど、宗教なんかそうじゃないかな。(もちろんその宗教の考え・教えが正しいかどうかはおいといて)
今現在、社会問題になっているような(ときにバイアスがかった)古くからの常識や規則もそうなんじゃないかな。
だからここで私が個人的にやばいな・怖いなって思っているのは、
「10年前に『これはダメなこと』と納得して覚えた考えが、変化せずに今の自分の判断基準の一部になっている。」
って自覚したからなんですよ。
変化させたり足したり引いたりして自分の価値観「全てを」構成してきたと思っていたので。
もっと個人的にやばいなって思うことを言えば、
私の場合、「『これはダメなこと』と私に納得させたモノが、親や教師でもなく、タイトルすら忘れた小説」
ってところです。
自分の価値観を構成する要素に不安を持ち始めちゃったんだから、もう大パニックですよ。
だから言ってしまえば、
私が数十年後に俗に言う老害になる可能性もあるって自覚した瞬間でもあったんですよね。震えますね。
まあもちろん、今の自分が偏見やおかしな価値基準を持っているとは思ってないけども。(持ってる可能性もあるから気をつけているのもあって)
だけどそれは「今は」の話なんですよね。
これから私が気付かずに偏見やおかしな価値基準を持つ可能性だってあるし、
なんなら時代の流れと共に自分の価値観が置いてけぼりになる可能性だって高いと思う。
今で言うと、「女性は働かなくていい」なんて考えはまさしく価値観の置いてけぼりなんじゃないかな。
だから考えちゃうんですよ。
ショッピングモールで男の子が落としていった、割れて床に落ちたプラスチックのかけらは、今も頭の中でチラチラしてます。
例えもし、もしも
あの男の子の世代ぐらいから「割れた」と「割った」の違いを、
受動と能動の言葉遣いの違いを気にしなくなったら、私はどうするんだろうって考えます。
そんなことありえない・ありえる、はここではどうでもよくて。
プラスチックの水色がチラチラします。
もしも自分の「常識」が、気がついたら常識じゃなくなっていたとき、
自分は変化に対してどう思うのか・どうするのか・どう思われるのかな、と。
変化の速度はわからないし。じっくりとだったら共に変われるのかしら。でも変化の始まりは教えてもらえないですしね。
誰しもみな老害になりたくてなっているわけじゃないはずなのにね。あれだ、正義の敵は正義、みたいなやつです。
正義じゃなくていいから、無害な存在でいたいんですよ。
世界に対し、限られた範囲の中で積み重ねた自分の思想が、どこかの誰かにとっての害であることを避けたい。でも避けられないのかもしれない。それでも理想を考えずにはいられないですよね。
まあこんだけ書いといてなんですが、
自分一人の意見なんて世界にとっては砂粒でした~パンパカパーンみたいな可能性の方が高いです、
みたいな考え方もできるので、
杞憂オブ杞憂みたいなところもきっとあるはず笑
話したいことは以上です。自分がいかにめんどくさい人間なのかを公開しただけな気もしますが笑、
書いて頭の中は整理整頓できました。満足です。ありがとうございました。
数十年後に自分が、その時代の若い人たちに無理を強いていないことを願う、
ただそれだけの、お祈りのような回でした。
私はまだ、水色がチラチラしてます。