わたしとわたしがひとつになる
昨夜、自分の言語化の限界に挑戦した。出し尽くした。
体感をことばにするのは、恐ろしく困難な作業だ。
ことばは無力で、どれだけ重ねようが、削ぎ落とそうが、脳内を、気持ちを、肌から感じるものを、本当にあらわしきることはできない。
ひとが身体で感じることには到底かなわない。
それでも、やりたかった。
わたしの生きざま、として。
ひとつのかたちに、残したかった。
それをてのひらに乗せて、差し出したいひとがいたから。
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この日のライブの冒頭、THE PRESENTSの演奏が始まる前に、五十嵐千尋という男がステージに立っていた。
彼はTHE PRESENTSの前身バンド、Agapeのメンバーだ。
前回の5th StreetでのAgapeライブの際には、Giこと保科亮太の無茶ぶりに応えるかたちで、なんと平塚から大阪まで歩いてくるという異業を成し遂げた。言っておくが、決して偉業ではない。
不器用に、ひたすら自分と向き合いながら、たったひとりで何日もかけて、絶えず自己と他者との関わりについて、考えながらの旅だったのではないかと思う。
その旅で生まれた曲、『WALK』を最後に彼は唄った。
正直に言うと、その前の曲までは観客まで彼の気持ちをまっすぐに届けるのは難しかったように思う。緊張のあまり、彼自身を出すことができるようになったのはようやく3曲目にして、という感じがした。
きっと彼は、最後の最後まで自分の表現に納得はしていないだろう。
そんな気がした。
けれど、彼が歩いて自分の身体で感じたことが綴られているこの曲は、聴くものに語りかける何かがある。彼はきっと、あの日の大阪までの道のりを思い出しながら、新たな気持ちとそれまでの葛藤を胸に、声を出し続けていたのだと思う。
坂爪圭吾というむきだしの魂を前に、同じステージに立つというのは、きっと想像もできないほどの恐怖との闘いだ。特に同性の彼にとっては。常に自らに刃を向けられているような気持ちになるだろう。
でも彼はそれに挑戦して、やり抜いた。
また新しい自分に出逢えたのだろう。
これからの彼がどうなるか、音とどう向き合うのか、もしまた見られる機会があるのなら、わたしはそれを見届けたい。
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男性ばかりのTHE PRESENTSのステージの上に、春花というひとりの女性がいた。
柔らかさ。しなやかさ。生の美しさ。
風のように、伸びやかに。
水のように、とめどなくあふれる。
彼女の存在は、片側だけの世界を補い、ひとりで皆を圧倒するほどの彩りをそこにもたらしていた。
坂爪圭吾は彼女の踊りを見て、死んだ、と言った。
昨日は、まず、春花のソロパフォーマンスが凄かった。あんなもの見せられたらたまったもんじゃない。踊っている春花を見ながら「死んじゃう、死んじゃう!」と思った。踊りに命を捧げるとはこういうことか。本気で生きるとはこういうことか。もう、尋常じゃなかった。倒れて起き上がれなくなった春花を見て「ああ、死んでしまった」と思った。命の儚さを強烈に突きつけられ、俺はお前を絶対に忘れないと思った。そして「俺が、お前の命を継承する」とか思った。
わたしは真逆だ。
春花の踊りを見て、「ああ、ようやく生まれた」と感じていた。
彼女は1曲目、自分の踊りではないものを踊っていた。
それを見ながらわたしはなんともいえない気持ちになった。
違う、これは、春花であって、春花ではない。
胎内で、外に出たがっている春花の魂だ。
もがいて、うごめいて、彼女を閉じ込めるものを破って、いま春花が外に出てこようとしている。
早く生まれろ。そう思った。
2曲目、彼女は自分の中から出てくるものをすべて出し切って、踊った。
いや、本当はあれでもまだ、出し切れていなかったかもしれない。
狭い。ここは狭すぎる。
もっと広い、広い草原で、風の中で、陽のひかりを浴びて、輝く彼女を、思いきり踊らせてあげたい。
生まれさせてあげたい。
ずっとそう思っていた。
すべてが終わって、倒れ込んだ彼女は息を切らせながら、自分の呼吸を探していた。
生まれたばかりの魂が、息の仕方を探している。
本人以外にできることは、見守ることだけ。
どうか、この時間を、止めてくれるな。誰も、手を出すな。
春花を、生まれたばかりの春花を、ただ見ていろ。
わたしはそう感じていた。
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人間には、2種類のタイプがある。
いつも視点が身体の中にあるひと。常に自分の中から外の世界を見ているから、自分で自分を視る、ことは難しい。
いつも視点が身体の外にあるひと。ゲームの操作をする時のように、上からの視点で世界と自分とを視ることができる。
いろんな表し方があるが、このひとの『前者後者論』が有名だ。
わたしは、これでいうところの、前者だ。
常に自分で自分を視ているから、視点が身体の中にあるひとにとっては当たり前の、身体と意識の一体感というものがあまりない。
自分の身体と視点が分離しているのが当たり前で、『場』を考えて行動するから、どうしても本来の『自分』というものへの意識が希薄になる。うっかりすると『自分』が消えてなくなってしまいそうなほど、小さくぽつんと点になって見えなくなるまで、高く高く昇って俯瞰したところから世界を見てしまう。
自分は二人いる。実際に生きている自分と、それを見ている自分だ。
彼も言っているように、常に自分を見ている自分がいる。
それは自分であって自分でないような、身体との乖離を埋めることはできなくて、それが当たり前だと思って生きてきたけど、そうでないひともいるんだ。そのことに気づいた時わたしは衝撃を受けた。
何をしている時でも、自分への没頭ということができないのは、実は不幸なことなのかもしれない。自分へ没頭して無心になにかをやれるひと、がずっと、うらやましかった。
絵を描く
音楽を奏でる
物語を生み出す
役になりきる
何かを探求する
踊る
走る
唄う
叫ぶ
笑う
泣く
こういった様々なことを通じて、ひとは自分をあらわしている。
何をしていても、もうひとりの自分とひとつになれたことがなかったわたしは、あの日はじめて、自分が自分だけのひとつの存在である、と体感することができた。
耳が熱い。
熱くて熱くて、わたしが『わたし』として意識できるのは耳だけだ。
ひかりの粒と音の粒に360°すべてぐるりと囲まれて、わたしと世界の境界線が溶けてなくなる。
そして、自分がひとつになって、世界と溶け合う。
自分も他人もない、ひとつの世界。
この日のこの感覚を、きっと一生忘れることはないだろう。
たとえこれが一度きりのものであったとしても、わたしはこれを感じることができたから、これからは本当の意味で自分を知ることができる。
そしていつかまたこの感覚を味わうために、もっともっと自分を知って、自分を歓ばせて、世界と自分をひとつにする方法を探していきたい。
自分を愛すること。
ひとを愛すること。
世界を愛すること。
世界は、愛でできている。
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ここで書くということ。
それは確実にわたしの生きる証として、いまのわたしがやりたいことで。
そう感じたから、こうして日々自分のために、書いている。
書くことで、あたらしい自分を見つける。
これからも、わたしはわたしのことばを、ここで、書いていたい。
読んでくれてありがとう。
また 新しい光が 昇り堕ちていく
自分も他人もない 狭間で空を飛ぶ
It's the end of wonderful world
サポートというかたちの愛が嬉しいです。素直に受け取って、大切なひとや届けたい気持ちのために、循環させてもらいますね。読んでくださったあなたに、幸ありますよう。