リライト版:真冬のレモンは小さくて甘く切ない #クリスマス金曜トワイライト
池松潤さんのリライト企画に参加しています。
まずは、原作を読んでからお読みいただけるとより本作が理解しやすいのではないか、と思います。
※
1秒が永遠になるような恋を書きたくなりました。じんわり溢れる魔法みたいに。
わたしたちは何を失くして、何を得たのだろう。
※一緒に音楽を聴きながらどうぞ。
『Goodbye Yesterday』は、2000年2月9日に発売された今井美樹の通算18作目シングル。彼女が主演のフジテレビ系ドラマ『ブランド』の主題歌。作詞・作曲・編曲を夫の布袋寅泰が手掛けた。
※
息はすでに切れていた。
山手線に乗り換えるために長い階段を上る。あの日のように駆け上がるわけでもなく、ゆっくりと歩みを進めているはずなのに。
脳内で巻き戻したはずの15年という歳月に、僕の身体が追いつけていないようだ。電車に揺られながら深くゆっくりと呼吸を整える。
上野駅公園口を出たところでキョロキョロしていた僕の視界に、あの日見送ったのとそっくり同じ彼女の後ろ姿が飛び込んできた。
少し前下がりの黒髪、右耳の先だけちらりとのぞいた潔いショートボブ。華奢な肩にかけられた大きなバッグ。
ただひとつだけ違うところ。
いまの彼女は紺のジャケットに膝丈のプリーツスカートの制服姿、だということ。
彼女の名は、檸というそうだ。
『そう、ねいちゃん、か…』
・・・・・
僕は彼女からの手紙を握りしめていた。会いたいと書いてある。田舎の生活に疲れたと。それは僕との過去をもう一度取り戻したいと言われているような気がした。手紙の最後には、上野着の特急列車の時間が書かれていた。
何も見えてなかった。あのときの自分のことも、彼女のいまのことも。
あと少しで手が届きそうな夢を追いかけることで目一杯だった。出世に目がくらんで夢が無い奴らよりも立派だと思っていた。新しいキャンペーンに必死で、結婚や子供のことなんて考えたこともなかった。
でもまさか、彼女に娘がいたなんて。
あの子はいったい…
・・・・・
僕たちは品川・御殿山の住宅街にある美術館で出会った。モダンアート展のパーティー会場は賑わっていた。
彼女が場慣れしてない感じはひと目でわかった。アート作品を眺める姿は何か儚げだった。ショートカットにアニエスベーのバックをかけている。
『ココにはよく来るんですか?』
彼女は少し困った顔をした。少し間が空いた。僕は困った瞳をじっと見つめて返事が来るまで待っていた。
『いえ。はじめてです。。』
『僕もはじめてです。。。嘘です』
彼女がクスッと笑ってくれた。グラスシャンパンで頬は紅くなっていく。そして笑みが雫のように溢れていた。この素朴な笑顔に惚れてしまった。
◆◆◆
嘘だった。わたしも。
はじめてなんかじゃ、なかった。
この美術館のオーナーとはもう、長い付き合いだ。
ここを何度も訪れたことがある。こんな風に賑わう誰かのパーティーや、そうでない普段の静かなときも。そう、何度も。
書道の、先生。
センセイ、とは名ばかりで、その頃駆け出しだったわたしはアートと呼ばれる空間で完全に迷子になっていた。
正解のない、世界。
ここでは、世界は何色にでも塗り替えられる。
墨一色しか持たないわたしにとって、そこは混沌とした海のようだった。誰かに手を引いてもらわないと、泳いでいけないと思った。暗い海の遥か上の方で眩しく輝いていた彼が、わたしの手を引いて力強く波をかき分けてくれるように感じて、思わず身を委ねた。
けれどそうして彼が優しく手を引く存在が、わたしひとりではないことも、とっくに知っていた。
そろそろ、潮時だ。
わたしはひとりで泳いでいけるだろうか、この海を。
◆◆◆
そんな時、あのひとに出逢った。
広告屋、だと彼はわたしに告げた。
はじめて逢った時から、わたしたちは気があった。彼も、混沌とした正解のない世界で、彼の言葉で言うと「泥にまみれて」いた。同じだと思った。
だからこそ、あんな風に磁石みたいに惹かれあったのかもしれない。
あの日、彼はわたしの手を引いて、美術館を抜け出した。微かにレモンの香りがした。わたしの鼓動が早くなった。
あのひとなら、わたしをこの混沌の海から連れ出してくれるかもしれない。
◆◆◆
季節外れの古い洋館のホテルはわたしたち以外に誰も泊まっていなかった。
長く会えなかった時間を埋めるように、あのひとがゆっくりとうなじに唇を寄せる。からだが熱くなって自分が自分でないような感覚にとらわれる。バターのように溶けて重なりあうと心の底まで繋がっているような気がした。
あのひとがわたしに夏休みにね、と言ったのは嘘ではなかったはずだけれど、季節はもう冬を迎えようとしていた。
遅すぎたよ。
カーテンの外を眺めながら、わたしは静かに心のなかでつぶやいた。
・・・・・
上野駅は師走でごった返していた。山手線ホームから階段を駆け降りる。あと3分で特急列車は出てしまう。彼女はもう列車に乗っているのだろうか。
東北本線のホームを探す。一気に階段を駆け上がると長く伸びる列車が見えてきた。ホームには見送りや、これから乗り込む客で混み合っている。僕は飛び跳ねながら彼女を探した。
手紙が郵便受けに入ってたのに気が付いたのは朝だった。何日も前に入っていたのだろう。なんでもっと早くに気がつかなかったのか。彼女に2度と会えなくなる気がした。
◆◆◆
ホームにベルが鳴り響いている。
あのひとが全力で走ってくるのを、滲む視界でとらえた。
「いくなよ」
遅いよ、あなたはいつも。
心のなかでそっとつぶやいた。
遅いよ。
もう、あなたに連れ出してはもらえない。
ごめんね…
あのひとの掌に、そっと手紙をはさんだ。2人の間を冷たい風が通り抜けていく。電車は静かに動き始めた。
さよなら、わたし。
さよなら、このまち。
さよなら、あのひと。
・・・・・
この手紙を読んでくれているなら、あなたに会えた時でしょう。身勝手なわたしを許してください。
本当はわたしは負けそうな自分が怖いのです。距離や時間が離れたとき、あなたが消えてしまいそうで。それが怖いのです。
ずーっと会いたかった。だけど言えなかった。あなたが仕事で活躍していけばいくほど遠くなった。
でもね。あなたに出会えてよかった。
ずっとあなたを感じていたいのです。あなたの頬や、あなたの唇に触れていたいのです。確かに一緒の時間をすごした日々を、心と体に焼き付けておきたいのです。
あなたが好きです。大好きです。
◆◆◆
わたしはあの時、もうひとつ嘘をつきました。
あなたとすごした日々を、焼き付けておきたかった、と手紙に書きました。
それはほんとうの気持ちだけれど。
わたしのからだに宿った小さな命のことを、あの時あなたにどうしても告げることができませんでした。
それは、あなたを信じていなかったからでは決してありません。
そうではなくて。
信じられなかったのはわたしのこと。
あの子が、あなたの子供だと胸を張って言える自信がなかったのです。
ひどい女でしょう。
わたしはあなたに愛される資格がないと思ったのです。だから、ひとりで田舎に帰ることにしました。
なにも言わずに去ってしまって本当にごめんなさい。もう二度とあなたに会うことはないと思っていました。
この春、わたしが病に倒れるまでは。
来年の桜を見られるかどうかわからない、と言われました。
娘にはとても言えませんでした。一緒に暮らす母にだけ、そっと告げました。わたしがいなくなったら、娘のことをよろしくお願いします、と。
辛い治療も、捗らない旅支度も、まだ娘をひとりで残していくわけにはいかない、その一心で耐えてきました。
けれど、あなたがこの手紙を読んでくれているなら、わたしはもうこの世にいないのでしょう。身勝手なわたしを許してください。
あの子が、もしこの手紙を送ってあなたの元を訪れたのなら、どうか会ってやってください。そして話を聞いてあげてください。
・・・・・
手紙が滲んで見えた。僕たちは何を得て何を失ったのだろう。今はわからない。いや本当はわかっているのに。
彼女の手紙からは、微かにレモンの香りがした。いや、気がしただけなのかもしれない。
ねえ、ズルいのは君の方だって。
檸は、あの娘は、僕の…
…
…
ー完ー
★追記★
「なぜその作品をリライトに選んだのか?」
はじめてこの作品を読んだとき、上野駅のホームで別れるふたりの映像が浮かびました。そして、すれ違う男と女の心模様も。
男は永遠にロマンチックで、女は常にリアルを生きている。その温度や色彩の違いを書けたらいいなと思いました。
「どこにフォーカスしてリライトしたのか?」
基本的に・・・・・からはじまる男性のパートは池松さんの原作のまま、ほとんど変えていません。なぜならそれはこの主人公の彼の、その時の心情や世界を彩るものだと思うから。
◆◆◆で区切られているのが、わたしが新たに書き加えた女性側の心情や世界です。もともとの池松さんの描写が、香りや温度など五感に響くような文章だったので、できるだけその手触りを残しつつ、美しいだけではない生身の女性ならではのエグみ、のようなものも滲ませたいなと思いました。
そして思いついた意外な展開…これは自分でも書きながら唐突に出てきたので、うまく表せているか自信がありません。描いたつもりの世界観が、わたしの思うように読む方に届いていたら幸いです。
この企画が始まった時、おもしろそうだな…とは思ったものの、スケジュール的に余裕もないし、自分が参加するつもりはありませんでした。
でもこの池松さんのお誘い文句を読んで、一気に引き寄せられちゃったのです。
恋のように
理屈じゃない
気持ちの赴くまま
感じたまま
書いてみてください
さすが名うての恋愛小説家、ひとを乗せるのがお上手!おかげでしまいこんでいた恋の欠片をつなぎあわせて、なんとか書き上げることができました。
池松さん、素敵なチャレンジをありがとうございました。