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ただいま ~ふたたびの時雨月~

詩織。

それはわたしの名前だけれど、本名ではない。
わたしをその名前で呼ぶのは、ほんの最近出逢ったひとだけ。

はじめてその名を口に出してくれたのが、陽太だった。

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陽太と出逢ったその時、わたしは無理やり中身を詰め込んだ自分、という入れ物に翻弄され、濁流に流されてしまいそうな気持ちで毎日を生きていた。

周りのひとたちがみんな眩しく見えて、自分だけが深い昏い海の底に沈んだまま永遠に浮き上がれないような気がして、もうこのまま息ができなくなってもいい、と思っていた。

違和感を覚えながら、満員電車で吐きそうになりながら、それでも生きるために仕事に出かける毎日。

尖った心があふれ出して、とうとう溺れてしまいそうになったある日、図書館でたまたま出逢ったあなたが、ふとわたしの名前を呼んだ。

あの時、カードに書かれた文字を見つけてわたしの名を口にしてくれたあなたが、真っ赤に染まろうとしていたわたしの手を、掬い上げてくれた。

ーーーーー

ひとめぼれ、いや、そんなことばがあるとすれば、ひと聴きぼれ、だったのだと思う。

その柔らかい声がわたしの沈む深い海の底をかき回して、ふわりと浮き上がる力がうまれた。少しずつ、本当に少しずつだけれど、陽のひかりがさす水面へと上がっていけるようになった。

でも。
それでもなお。

水面に顔を出してみても、明るいひかりの中を歩くのは怖かった。

彼はその名の通り、いつもきらきらと眩しく輝いているようで、まっすぐにその目を見るのが怖かった。

わたしなんて。
わたしなんて。

街を歩く知らない人が、みんな立ち止まってこちらを見ているようで、日陰を探していつも足早に歩いた。日差しを遮るためではなく、誰かの目を避けるために、一年中いつだって長袖のシャツを着ていた。出かける時は帽子を目深にかぶり、マスクを着ける。

それらはわたしを守る、固い殻のようだった。
いつも殻をまとって生きる、わたし。

人懐っこい陽太がいくら話しかけてくれても、はじめは小さな声でぽつりと答えることしかできなかった。

だんだんとふたりの距離が近しくなってからも、一緒に出歩くのが怖かった。

誰にも、好奇の目で、見られたくなかった。

ーーーーー

陽太と出逢ったあの日、重ねた雑誌の山。
でも本当に読みたかったのは、たったの1冊だけだった。

はっとするほど美しいモデルさんが表紙の、大きなサイズのメイクブック。

そこで手に取ってじっくり読むのは、はばかられた。
それを堂々と読むことができたら、どんなに良かっただろう。

わたしは目についた雑誌を適当に何冊か積み重ね、そっと差し込むように、それを間に入れた。


ひとり静かにベンチへ戻る。

ふと顔をあげた先に見えた図書館の入口、化粧室に掲げられた赤と青のマーク。

そう、わたしは、そのどちらにも入ることができなかった。

ーーーーー

あなたと出逢ってから、わたしの人生は大きく動いた。

着たい服を着て、誰かと温かい食事を一緒にとって、たわいもないことで笑い合って、隣にぬくもりを感じながら深く深く眠る。

ふたつ並んだミルクティーのカップは、いつのまにかあなたの方がつくるのがうまくなっていた。ピーナツチョコレートの代わりに、無意識にダークチョコレートをカゴに入れているわたし。

モノクロだった日常が、ほんのりと色づいてゆく。
ずっとずっと、手に入るはずがないと思い込んでいた、きらきらした日々のかけらたち。

気づけばわたしの掌に、そっとやさしくそれらが包まれていた。

あの日あなたが、首にかけてくれた輝く石のひかりが、いつのまにかふたりの日々のかけらになって、わたしをまるごと包んでくれていた。


しあわせだった。


あの、昏い海の底から響いてくる声を、聞くまでは。

ーーーーー

それは、突然やってきた。轟音とともに。

海の底からすべての水がひっくり返ったように、荒ぶる波がいきなり押し寄せ、低い響きでうねりをあげて、わたしのすべてを飲み込んだ。

あらがえない大きな渦に巻き込まれ、あなたとつないでいた手はあっけなく引き離され、しぶきをあげる高い波に飲み込まれて何も見えなくなった。


もう、だめだ。

息が、できない。



このまま、死んでしまうのかもしれない。


そう思ったその瞬間、わたしの指先になにかが触れた。



石だ。

肌身離さず首からかけていた、大切な石。

わたしはそれに夢中で手を伸ばし、つかまえた。


つめたい石を、ぎゅっと握る。

失われていく感覚のなかで、掌だけがほんのりと熱を帯びていた。

ーーーーー

大丈夫。大丈夫だよ。


遠くで誰かの声が聴こえる。


気づいたら、わたしは真っ白な部屋にいた。
目の前に、心配そうにこちらを見つめる父と母の顔があった。

なにがあったんだっけ?
とっさに思い出せなくて戸惑うわたし。

あたりを見渡したわたしの視界のすみに、海の碧がちらりと見えた。

テレビが置かれた枕元のキャビネットの上から、見慣れたあの海色の糸で包まれた石がじっとこちらを見ていた。


そうか、あなたが、あの波から守ってくれたんだね。


恐る恐る、左手を持ち上げてみる。
薬指に小さく光る石が、そこにちゃんとおさまっていた。


ありがとう。
あなたは、どこにいてもわたしを守ってくれる。

たとえ離れていても、顔が見えなくても、陽太と陽太のくれた石たちが、わたしを見守ってくれているから。


大丈夫。

きっと、大丈夫。

ーーーーー

うちへ、帰ろう。

あのひとの待つ、うちへ。


大丈夫、歩ける。

わたしは、ひとりでも、ちゃんと歩ける。

待っているひとが、そこにいる。



ただいま。




おかえり。


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☆INSPIRED BY☆

『彩り』 Mr.Children


小説『おかえり』

前編 おかえり ~はじまりの文月~

後編 おかえり ~ふたりの時雨月~


この小説は、上記の2編の番外編として描いたものです。
よろしければ、こちらもあわせてお読みくだされば嬉しいです。

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