【日記】ネットにどこまで「私」を出すのか

日記です。

Instagramの試運転(現在活動停止中)を経て、いろいろ悩んだことがあります。
それは、どこまで「私」を出すのか。

これを書いている花山みみかという人間の中には、いわゆる「中の人」が存在します。逆に言えば、中の人の一部分を切り取って提供されたものが、花山みみかという存在なのです。

花山は1ヶ月Instagramの更新を続けました。これは花山の持つアイテムを画像とともに紹介するものです。つまりはレビューですね。いいところ、悪いところ、etc...。いろいろ書いてみました。とにかくインスタグラマーで有名な人を真似るようにやってみたのです。

しかし、振り返って気づきました。
この文章、とっても凡庸だ」…と。

凡庸。中身がない。味気ないんです。
私は忠実な文章を書くのが好きなので、できる限り正しい情報を書くように努めました。いいものであればいいものであると、悪いものであれば悪いものであると、素直に書きました。
しかし、端から見たら、今Instagramに存在する無数の情報となにも違いがなかったのです。

なぜか?
それは情報の正確さ云々ではなく、私のキャラの問題です。
花山みみかという人間の存在そのものが凡庸だったのです。

私は少なくともリアルでの自分、オタクとしての自分、そして花山みみかとしての自分が存在します。
このように自分を分けているのは、その場に合わせた対応が必要だからです。

たしかに私は、花山みみかという存在よりもずっといろいろな要素を持つ人間です。
かといって、このような場で「好きなキャラは○○で、なぜかといえばね……」なんて話し始めるのはナンセンスです。なにより情報が多すぎます。(オタクである、という情報は隠すつもりはありません。)
このような、公私の混同を防ぐためにあるのが花山みみかという側面です。私にとって、花山みみかは「公」ということですね。

ただ、そのために削った「個性」が、逆に花山みみかというキャラを希薄で凡庸なものにしてしまったのも事実です。
花山を凡庸にしない程度に個性を見せていけるよう、努力していきたいです。

実在する企業のTwitterでも、企業としてまじめなツイートをしつつ、ちょっとゆるっとしたツイートをしたりするじゃないですか。あんな感じが理想ですけどね…。難しいですね。
そういったわけで、花山みみかの人間性?を見せる場所として、Noteはこれからも活用していきたいと思います。
ただ、Noteは年齢層が「放課後はなやまスクール」が想定する層より少し高いと感じますので、折を見て切り替えるかもしれません。とにかく地道にやっていきます。今後ともよろしくお願いします。

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