Mr.Children「擬態」考察
「アスファルトを飛び跳ねるトビウオに擬態して」
Mr.Children『擬態』のサビ冒頭のフレーズだ。比喩を用いた非常にキャッチーなこのフレーズは耳に残るものの、あまり深い意味を考えたことはなかった。
先日、「トビウオ」というワードが気になり(私のペンネームでもあるのだが)、トビウオがなぜ飛ぶのかを調べたところ、それは外敵から身を守るためだそうだ。
トビウオの天敵はマグロやカジキといった大型魚であるため、水中で戦っても勝ち目がないと判断した彼らは、水中から緊急脱出できるよう進化していったらしい。
しかし面白いことに、緊急脱出した先は絶対安全というわけではなく、鳥という新たな敵が待っているそうだ。これにはトビウオもさぞ驚いたことだろう。
彼らは生存競争の為に変えるフォルムを間違えてしまったのだろうか。トビウオの身体は計量化するため胃がなかったり、ヒレが非常に発達しているらしいが、そんなにすごい体を持っているのならいっそもっと早く泳げるように進化したほうが良かったのではとも思ってしまう。
今回は、そんなお茶目なトビウオさんが主人公ともいえる『擬態』という曲について考察していこうと思う。
1番
Aメロ
「ビハインドから始まった」という冒頭のフレーズが『end of the day』の「マイナスからのスタートを切る」という一文を連想させる。
やるべきことや、やりたいと思っていることが山ほどあるのに、そもそも昨日のタスクを処理するところから今日という日が始まる。
当然今日やろうと思っていたことが全て終わるはずもなく、明日もマイナスからのスタートを切るという負の連鎖だ。
目の前のタスクに忙殺される毎日を送る中で生まれた「夢」や「やりたいこと」はいつも最後に後回しすることになり、結局夢は夢でしかなかったと絶望している様子が「積まれてく夢の遺灰」という表現から読み取れる。
「ディスカウントしてく山のように」というのはことわざで言う「塵も積もれば山となる」のことだと思うが、ここではネガティブな意味で使われている。
このことわざはポジティブな意味でつかわれることの方が多いと思うが、あえてネガティブな意味で使っているのがミスチルらしい。
例えば、『しるし』の「どうせ愛してしまうと思うんだ」という歌詞で「どうせ」というネガティブなワードをポジティブな意味で使っているように。
Bメロ
誰しもがすべきことをできなかったり、ミスをしてしまった時「明日こそきっとできるだろう」と高を括ることがあるだろう。
繰り返しになるが、私たちは今日できないことを明日に後回ししているうちに、気づけば長い時が過ぎ去ってしまって、何も変わっていないということがよくある。
「いつかいつの日かそう言ってやり過ごして気が付きゃロスタイム」
ということだ。
そんな「明日」というのは、一種の希望でもあり幻想でもあるということを、「あたかもすぐ打ち解けそう」と明日を擬人化することで表現したのがこのBメロだと思う。
サビ
アウフタクトと共に、後ろで鳴るドラムが「アスファルトを飛び跳ねる」という表現の躍動感を演出するような出だしのサビだ。
トビウオが生きていかなければならない世界が海とすると、私たちが生きていかなければならない世界は社会だ。やりたくないことや嫌なことから逃げるために、社会という世界から飛び出してみても、そこには「不安定」や「世間の目」といった新たな敵が待っていて、トビウオと同じように鳥に襲われることになる。
日本のシステム上、1度逃げ出した社会にもう一度戻るということは極めて難しい。もう一度戻りたいと思った時には、アスファルトに打ち付けられて血を流し、コンクリートの硬さに気付くというのが世の常だ。
「配属先の上司が優しくて、仕事は何をやっても上手くいって営業成績はトップ、帰り道で何となく宝くじを買うと大金が当たる」、そんな風に必然や偶然を全てコントロールすることができたら、こんな風に悩まず今日という日を完璧に過ごせるだろう。
しかし、そんな日はいつまでたっても来ることはないのだ。
2番
Aメロ
いわゆる「レールの上を歩んできた人生」を送る主人公。受験勉強に精を出して名門大学に受かり、就職活動という競争を勝ち抜いて、誰もが羨ましいと思うような企業に入社したのだろうか。しかし、そこで得られたのは労働という権利で、誰かの命令に従いつつ、決められた範囲の中で自分から動くことを求められるという一見矛盾した世界だった。
一方で主人公の友人はそんな「レールに上を歩む人生」を嫌い、自分のやりたいことを追求する人生を送る。
もちろん「どうせ失敗する」と周りから揶揄されたり、雇用されるよりも険しい道が待っていることは明らかだろう。
しかし主人公にとっては、夢ややりたいことを捨てた自分とは違い、自分の生き方にまっすぐな友人に理想の自分を重ねてしまうのだろう。
Bメロ
ここでも夢を諦めて悔やんでいる主人公の様子がうかがえる。悪いことをやめるとき「足を洗う」という表現が用いられるが、ここでは「手を洗う」という表現が用いられている。足とは反対に手という言葉に置き換えることで、主人公が夢という「自分が良いと思っていること」を諦めた様子がうまく表されている。
そして、そんな夢は自分の中から消し去ってしまったものの、「夢を諦めた自分」は自分の中から消えてくれない。これからもそんな自分と対峙し続ける人生を歩んでいくのだろうか。
サビ
ビジネスというのは人の役に立ってこそ成り立つが、中には弱っている人を釣って稼ぐというビジネスも存在する。
近年、情報商材やマルチ商法が横行しているが、その対象者は「すぐに結果が手に入る」という幻想を抱いた弱者だ。
主人公も社会に揉まれ、いつのまにか弱ってしまった自分をすぐに変えてくれる何かに目をくらましてしまったのかもしれない。
同じアルバムに収録されている『Howl』の歌詞「輝いて見えたモノはガラス玉だったとある日気付いたとしたって宝物には変わりない」という言葉を借りるなら、「自分を変えてくれるかもしれない」とほんの少しでも思わせてくれたサプリメントは主人公にとって宝物だったのかもしれない。そんな風に考えることができたなら、主人公はもっと綺麗でいられたのだろうか。
Cメロ
インパクトのあるこのCメロは普段ミスチルを聞かないという人でも知っている人が多いのではないだろうか。
ここの歌詞だけを見ると「お金を稼いでも幸福度は上がらない」というよくある自己啓発本に載っているフレーズのようにも聞こえる。
しかしこれまでの主人公の葛藤を見てきた人なら、夢を叶えて富を得た人達に対する妬みや、夢を諦めるための言い訳を探しているようにも聞こえるだろう。
収入の低い人が「お金が全てでは無い」、モテない人が「女遊びは悪」という考えにすがりつくことで、今の自分を何とか肯定するように、私たちは自分の信じたいものだけを信じて生きている。
だからこそ価値観の違う人とは分かり合えないし、分かり合おうとすらしないのかもしれない。ここの歌詞はそんな社会の有様を揶揄しているかのようにも思える。
これはあくまで私の解釈にすぎないが、このCメロだけを切り取って考えると、何か大切なものを見落としてしまうだろう。
B’メロ
一番のBメロでは幽霊船が見えていたが、B'メロでは主人公の視界を遮るものは何も無い。怪奇現象の一つである幽霊船が見えなくなったことは、主人公の中からモヤモヤが無くなったことを意味しているのだろうか。
目の前には無限に広がる水平線が見えており、主人公は微かではあるものの希望を見出せたようだ。
ラスサビ
ラスサビでは一番のサビと似た歌詞が繰り返される。B'メロを考慮すると、一番のサビと違い、どこか前向きな印象を感じられる。まるで自ら進んでトビウオに擬態するかのように。
たとえ自分の選んだ道が険しく、血を流してしまったとしても良い。ここで言う強さとはそういう楽観的な態度のことなのだろうか。
さいごに
桜井さんが擬態についてこんなことを言っていたそうだ。
これは『道標の歌』という本から抜粋したものだ。まだ読んだことがないという人は是非手に取ってみて欲しい。
桜井さん本人も言っているように、”擬態”は歌全体で届けようとしていることをイメージしずらい。
だからこそ、今回書いた私の考察が「絶対」だと思わず、あなたが歩んできた人生に基づいた、あなただからこそできる考察をしてみてほしい。
先入観を持たず、目じゃないとこ・耳じゃないどこかを使って、この考察を呼んでくれたら幸いである。