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流れに流れて今がある。(2)

ジュエリーの専門学校に入学した私は、主にデザインを専攻していましたが、そこで彫金・研磨・鑑別についても勉強しました。

前回までのお話がこちら

ジュエリーの専門学校に入学

この学校で学んだ時間は、正直短大で学んだ2年間よりも充実していて、楽しい時間でした。みんな地方から入学してきた人ばかりで、私のように大学を卒業して入学してきた人、中国や韓国など、アジアから来た人や、会社を辞めてやってきた人なども多くいました。

年齢も国籍も幅広い集まりでしたが、みんな「ジュエリー」という一つのことを学んでいたから、密度の濃い時間を過ごすことができたんだろうな、と思います。
途中で挫折してしまう人もいたけど、「宝飾」というモノづくりを共通として学んでいる為か、とても楽しかったです。

この学校に入る前までは全く興味のなかったジュエリーの世界。
大変だったけど、その時知り合った「人」と職人気質の世界での「学び」は充実していて、「大変だけど楽しい」世界になりました。

卒業後、ヨーロッパーのシルバーアクセサリーの小売りをしている会社に販売員として就職し、進学中は祖父の家で暮らしていた私は、実家へと戻ります。

専門学校卒業後、シルバーアクセサリーの販売員に

新社会人だった私は、販売員としてだけでなく社会人としてのマナーを、この会社で叩き込まれました。

初めの3か月はとにかく覚えることも多く、勤務先も遠く、通勤電車では毎日寝ていて、休みの日も寝て過ごすことが多い日々でした。

私が就職した会社は小さな会社で、新卒で入社したのも私一人でした。
そのため、私に対する期待も不満も大きかったかと思います。

それでも目の前の課題をひとつずつ片づけていくうちに、入社して1年でお店の副店長を任されました。

それからすぐに店長に昇格するのですが、全店舗の中で一番年下の私。
同じお店のスタッフの中でも一番年下。

入社した当時から感じていた「期待と不満」に「不安」も付きまとってきて、やりにくさを感じた私は、とにかく売り上げで一番になれば、誰も私に「不満」や「不安」を感じることはなくなるだろう。と思いました。

販売員や営業をやっている方はひしひしと感じているかと思いますが、当時の私はとにかく「数字がすべて」で、この「数字」を何よりも信頼していました。

年間の予算や売り上げ目標、販促スケジュール。小さな会社で小さなお店だったので、どの商品を置くかなども判断し、お店のディスプレイから、シフト表作り、採用の面接までも行っていました。

とにかく失敗してもいいから試してみて、成功したらそれに倣い、失敗したら別のことを試してみる。

その繰り返しをしていくうちに、目標としていた売上1位を取ることが出来ました。

そうなると、社長や営業さんからも信頼され、アクセサリーのデザインも通ることがありました。

達成感を通り越して「やり切った感」があった私は、この会社を退社し、次にアクセサリーのメーカーで働くことになります。

アクセサリーメーカーで働いたこと

そのアクセサリーメーカーはシルバーアクセサリーを中心に作っている会社で、事務所の隣にアトリエがあって、そこには磨きや加工などを行う職人さんがいました。

私が働いていたのはアトリエではなく事務所の方だったのですが、その会社も小さな会社だったので、私はそこで、委託先や卸先の商品の手配、加工の手配、入荷した商品の検品、発送の準備、伝票の処理、そして、レーザーの機械で彫る刻印など、ここでも幅広い業務を行っていました。

営業事務のような業務も行っていたのですが、それまで販売員として商品を側にいた私が、今度は商品を販売員さんに送る側に回ったので、世界の裏側を見たような、「あ、こういうことをしていたんだ」という発見がありました。

この時私は、「自分で全部ができるようになったら、自分のお店が持てるようになるのかな」と、ぼんやりとだけ思いはじめたような気がします。

そう思った矢先、私は体調を崩して、この会社を辞めることになります。


そんな私が作るアクセサリーがこちら





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mimi
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