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愛する神へ捧げたもうひとつの調べ---ブルックナー:テ・デウム(Vol.2)


ブルックナーの遺言

9番+テ・デウム

2024年10月19&20日開催の上岡敏之&札幌交響楽団 第664回定期演奏会

2024年は生誕200周年を祝って我が国でもブルックナーの公演が相次いでいるが、10月には9番交響曲とテ・デウムのプログラムによる上岡敏之&札響がある。

ご存じこの組み合わせはブルックナーの遺言的意向によるものだ。

「私がこの曲の完成前に死ぬようなことがあったら、《テ・デウム》をこの交響曲の第4楽章に使ってほしいと思います。私はすでにそう決心しましたし、そのように準備もしてあります」

1894年11月12日ウィーン大学の和声法講義でのブルックナー自身の発言
「ブルックナー/マーラー事典」東京書籍より

日本ではこの組み合わせが意外に少ないように思える(最近で記憶があるのは2018年10月の上岡敏之!指揮新日本フィルか)
そもそも東西問わず「ハ長調の《テ・デウム》はニ短調を主調にした9番交響曲の調性的設計と合わない」「作曲年代に隔たり(没年から数えると12年の開き)があり両曲の作曲様式が違う」そして「3楽章の《白鳥の歌》を以て交響曲は完結しうる」とする意見が依然多いのは事実である。

「(未完成ながらそのトルソの完成性を主張するフェルディナント・レーヴェによる)交響曲の後にテ・デウムを演奏すべきではないという喧伝が世間に定着してしまった。偉大な指揮者たち(カラヤンでさえ)は、時折9番交響曲の後に休憩を挟んでテ・デウムを演奏していたにもかかわらず、である。(演奏会でテ・デウムを終楽章の代わりに演奏するのは)少なくとも適切な解決策であり、3つの楽章のトルソだけを演奏するよりも優れているように思える」

ベンヤミン=グンナー・コールスの発言
INTERVIEW WITH BENJAMIN-GUNNAR COHRSより
https://www.opusklassiek.nl/componisten/bruckner_symphony_9_finale.htm

9番交響曲のSPCM版フィナーレの補作者の一人である音楽学者コールスがこのような意見を示すのは面白いが、これは単なるブルックナーの遺言的意向の支持というより、この両曲に内在する共通の意図があるからだと私は考えている。
《テ・デウム》の要というべき終章を紐解きながら、交響曲との関係性を見てみたい。

揺るぎない信仰

5番交響曲との連関

終章「In te, Domine speravi, non confundar in aeternum 主よ 私はあなたに望みをおきました。私は永遠に揺るぎません」はこの短い典礼文に対して二重フーガも展開するほどの長さがある。
その二重フーガ、規模こそ小さいが5番交響曲のそれを意識しているのではないか。

第5曲「In te, Domine, speravi 主よ、あなたに私は願います」451-455小節(1曲目からの通しで数え)

(Vol.1)で紹介したコールスの受け売りではあるが、5番交響曲はモーツァルトのレクイエムの研究とその思念を取り入れた。そのフィナーレの二重フーガがキリエ章でのそれを参考にしたとすれば、そこでの試みを再び《テ・デウム》終章でも取り入れ、ラクリモサから派生したコラール→7番交響曲のコラールを組み込んだ二重フーガを展開したとも考えられる。

繰り返し繰り返し「non confundar(直訳的には『乱れない・混乱しない』、私は(信仰が永遠に)『揺るぎない』とした)をこの章冒頭の跳躍するモチーフとコラールで問いかけながら、更に伴奏にテ・デウム動機が登場して全体の音域が次第に上昇し高揚していく。

5番交響曲がラクリモサの引用を経てフィナーレの神の偉大さを象徴するかのようなコラールで「死の恐怖を超えて信仰によって克服」したとすれば、《テ・デウム》も「死の影」を超えて信仰の揺るぎなさ=non confunderをテ・デウム動機と結び合うことで神への賛美は形作られていくのではないか。

完成された神への賛美

こうして信仰の確信が変ロの高みまで達した瞬間に、トランペットのファンファーレと共にfff(フォルティシッシモ)で冒頭のハ長調音楽に回帰する。
ここで注目すべきは冒頭になかったハ長調主和音の第3音Eが入って調和した和声に達することである。
更にソプラノは最高音の3点Cまでに達し、ダイナミックスも最大限拡大されて、神への賛美は十全に完成する。

第5曲「In te, Domine, speravi 主よ、あなたに私は願います」501-504小節(1曲目からの通しで数え)
第5曲「In te, Domine, speravi 主よ、あなたに私は願います」505-508小節(1曲目からの通しで数え)

愛する神へ


9番交響曲は神への賛美で締め括りたいというブルックナーの言葉を今一度反芻してみたい。

「2楽章の『アレルヤ』をもう一度フィナーレで使おうと思う。感謝しても感謝しても足りない主への讃歌でこの交響曲を終えるようにと」

交響曲第9番作曲中に主治医の助手リヒャルト・ヘラーに伝えたブルックナーの言葉

その願いが叶えられない時、作曲家は気まぐれで《テ・デウム》をフィナーレの代わりに指定したのではない。
以下の拙稿でも指摘した通り、9番交響曲は孤独と平安そして死の恐怖を描き、フィナーレにおいて、死を超えて神への賛美に到達したかった。
同質性を孕む《テ・デウム》の意図を更に拡大して、死の恐怖を信仰によって克服して神に感謝奉る想いを壮大な音楽で構築したかったのである。

代わりになるべきは、彼にとって神の御前に差し出すことができる「生涯の誇り」《テ・デウム》だったのだ。



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