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【「読む」と「書く」どちらを用いる?】~ことばの虫メガネ③~

 ”言葉”についていったん考えだすと止まらなくなる未熟者ですが、どうぞご容赦ください😓

 「読む」と「書く」、これは言葉の意味というより、”行為としての意味”に重きが置かれる分野かと思います。別に私のようにライター業を生業としている方でなくとも、生きていくうえで「相手に伝える手段」として、”読む”と”書く”は誰しも経験することです。そうした誰しも経験していることを生業としている私はある意味で”(文章の)業が深い”とも感じますが、好きでたまらなく選んだ道ですので、どうぞご容赦をば。

 一般的に「読む」と「書く」は違う能力だと認識されていますし、僕自身もそう感じます。読むのだけ上手い、書くのだけ上手というのは、”木を見て森を見ず”的なところがあるので、いろいろご苦労あるかと思います。読む・書くと同列に大事なのは、話す・聞くというのも一般的にはよく言われていることかと思います。が、”話す・聞く”については後日に譲らせて頂きますので、ここでは深くは触れません。

 なので、「読む」と「書く」だけに絞った話でいえば、読むは”自分に向けて”、書くは”誰かに向けて”となります。そもそも、読むと書くとでは明らかに対象となる方向性が違ってくるので、どちらが上という話ではありません。万巻の書を読んだ読書家と、100冊の本を書いた文筆家を比べても詮無いことです。10,000冊の本を読んだ人と、100冊の本を書いた人のどちらが偉いかといった話ではなく、其の人が「読む」「書く」という行為を通じて、結局何がしたかったのか?に個人的には注目をしています。

 漢書・文選・司馬遷伝に収められている「九牛の一毛」というくだりがありますが、おもしろいですね。”九牛の一毛”そのものの意味については、「多数の中の取るに足らないもの」というニュアンスですが、長岡半太郎博士が湯川博士の受賞のお祝いに述べられたようで、今日まで何とか残っている言葉の1つですねw

 話はちょっと反れますが、九牛の一毛のくだりを巡っては、『史記』を編纂していた司馬遷ののっぴきならない事情もあり?、面白いエピソードです。死刑を回避するために宮刑を選んでも、書くことに専念した姿勢は、文筆業に携わる者として畏れ入ります。

 読むと書くは、車の両輪であり、本が無ければ読めず、書いても読み継ぐ人がいなければ本は自然と無くなるものです。今の時代は司馬遷の生きた頃と違って、万巻どころがいったいこの世に何冊の本が存在しているかも分かりませんし、日本であれば誰もが自由に書くことができる時代です。

 であるがゆえに、読み手も書き手も共に少々混乱しがちだとも言えます。”本を読むこと””本を書くこと”が実は「読むこと」「書くこと」の本義ではなく、”話しても伝わらない””聞いても分からない”からこそ、人は「読む」と「書く」という行為を続けている側面があるかと思います。裏を返せば、”読んでも分からない””書いても伝わらない”からこそ、人は「話す」と「聞く」という行為を続けているという側面も一方でありそうですね。

 本題は「読む」と「書く」ですが、同時に「話す」と「聞く」についても考えるのが、この手の話題のおもしろいところです。次回は、「話す」「聞く」について”何となく”見ていきたいと思っています。文字や言葉を考えるときは、肩肘を張らず、ゆっくり・じっくり・時間をかけて・煮詰まる前に言葉をすくう、ような感覚で日々向き合っています。コンロの前で煮魚をつくるときと同じ心境ですね笑 熱を加えすぎれば身が固くなり、熱が足りなければ生煮え。言葉や会話もそういった部分があるように感じています☺️

#言葉
#読む
#書く

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方山敏彦@オーズLLC
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